2014年3月24日月曜日

『ひとりの午後に』


朝と日中の温度差が激しい。日中は春の陽気。昨日、プールの帰りのJRの窓越しからお花見をしている光景を目にする。まだ桜の花は咲いてはいない…。

昨日も1キロ泳ぐ。日曜日の午後、プール内の人は少ない。こういうときは気持もゆったりと泳ぐことができる。まさに至福の時。

気分よく泳いで家に帰るのはいいが、その後は夜まで鼻水と格闘。この鼻水や花粉アレルギーもネットで見るとストレスと関係あるとか。最近は鼻水も出なくなったと喜んでいた矢先の昨日の格闘。目に見えない何かのストレスがあるのだろうか。

昨日のことのついでに昨日の新聞記事。地元紙を見ると神戸大学の教授が中国に帰ったまま行方がわからないとの報道がある。

8年前、指導教官から一冊の本を渡された。それは『東トルキスタン研究』。本の著書は行方不明の教授。新聞記事を見てすぐにその人のことを思い出す。卒論で東トルキスタンと盛世才に関することを書いた。

中国についてとやかく言える立場にない。しかし、なんともわからない国である。

上野千鶴子『ひとりの午後に』(NTT出版、2010年)を読んだ。またいつものように気になる箇所を記そう。

米 話が合わないひとを、友だちとは呼ばない。かつて友だちだったひととも、いつまでも友だちでいられるわけではない。それぞれの人生経験の道筋で、ひとも関係も変わる。人間は変化する生きものだ。…だからわたしは、何歳からでも、いつでも、どこにいても、友人はつくれる、と思っている。「必要は発明の母」だから。

米 迷いと後悔の多い歳月と経験が、いまのわたしをつくってきた。昔より、少しはましになったと感じることができる。そう、「何で昔に戻れましょう」。若いときは柔軟だ、というのはウソ。若いときほど、アタマは固く、思い込みが激しく、固定観念でがんじがらめだった。それが次第に解きほぐされ、柔軟になってきたのは年齢のおかげだ。いまさら「なんで昔にもどれましょう」。

米 ひとはひととひとの「あいだ」にいる。自分が「ましになった」と感じることができるのは、ひととの関係が受け入れやすくなったということと同じことだ。定型のない「友情」に男も女もない。それぞれの歳月を重ねて現在にたどりついた同性・異性の友人たちと、残りの時を豊かに分かちあいながら、年齢を重ねていきたい。

米 本を読んで実物に会ったら「イメージがちがいすぎる」とも言われた。あたりまえである。研究の成果はわたしの一面でしかない。この本のなかで、わたしは禁を犯して感じたことを語りすぎたかもしれない。これもまたわたしのべつの一面である。

米 「ひとりの午後」にも、ささやかなよろこびやしあわせはある。断念や抑制もある。それは日射しが翳るまで生きてきた者に与えられるご褒美のような、人生の味わいだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿