2014年2月27日木曜日

てんこ盛り台湾周遊の旅

2013年10月23日(水)から10月27日(日)までの5日間、台湾周遊の旅に参加した。参加人員は14名。

それにしても楽しい旅だった。以前、中国語を習っていたこともあり、中国へは10回ほど出かけている。ところが、台湾は「いつでも行かれる」との思いから一度も出かけたことがなかった。今回の旅行で知っているようで知らない台湾の現実を知る。そして、中国一辺倒でモノゴトを考えていたと気づく。

旅行中、台湾をもっと知りたい、との気持が昂じて、旅行記を書こうと思った。そのため、台湾で知ったこと、知りたかったことなども記録に留める。

旅の最終日の前夜、バスを降りてホテルに入ろうとした。その時、台湾出身で広島在住の参加者(以下、Dさんとする)から皆にアンケートをとりたい旨、話される。何のことか聞くと「中国と台湾は同じ国ですか?」との質問だった。それを聞いて「中国と台湾は違う国です」と返答。するとその人は「違う国でよかった!」と嬉しそうに話し、「共産主義は嫌い!」と言う。この言葉は重く響く。

現地ガイドの陳さん(以下、ガイドとする)の説明でもそう感じた。旅の間、この2人の台湾の人たちがどれくらい中国を意識しているか。それを今回の台湾旅行で目の当たりにする。

とはいっても、2つの国、中国と台湾。このことを短期間の台湾旅行でわかるはずもない。わからないなりにも楽しく過ごした5日間を振り返ってみよう。

旅に出かける前々日、台風の接近が危ぶまれた。「台風は大丈夫!?」と今回の旅に誘ってくれた友人に電話をする。「幹事のHさんがその辺は何とかしてくださいます」との落ち着いた友人の言葉。これを聞いて、後日談として友人と笑う。「Hさんは台風を退けるパワーの持ち主」と。旅行中も冗談交じりにHさんにその話をして笑った。

心配していた台風の影響もなく、お天気にも恵まれた楽しい旅だった。ただ、帰国日の九份で小雨が降った。これも「台湾の雨」を経験したと思えば願ってもないことである。

第一日目 2013年10月23日(水)

旅立ちの朝は早い。前夜、セットした電波、携帯電話、目覚ましの3つのアラームと友人からの電話で目を覚ます。

前日、予約していたタクシーも早めに広島駅に到着。5時50分のリムジンに乗車する際、Dさんと出会う。広島空港は曇り空。10時半、C1-113便に搭乗後、無事、広島空港を離陸。機内食は鶏肉でやわらかくて美味。

11時半(以下、現地時間を表記。日本と台湾との時差は1時間遅れ)台湾の桃園空港到着。気温23度、曇り空。空港到着ロビーで友人は約束していた広島の元留学生と再会する。その後、2階建ての専用バスにて台北市内へ移動。車内でガイドから日本円10,000円=2,900台湾元(レートは1元=3.3円)に両替する。

台湾元は“NT$”と表記。何故“N”が着いているのかDさんに尋ねる。すると台湾が日本から解放されて「新しい」台湾の“New”だった。

昼食は「好記」で担仔麺と小皿料理をいただく。参加者全員、台湾ビールで乾杯!昼食後、専用バスは台北駅に向けて出発する。台北駅到着後、駅構内でペットボトルの飲料水を購入。1本35元。列車の出発時刻まで台北駅周辺をキョロキョロする。見上げると台北駅の建物に「++<普天同慶>++」の見慣れぬ記号と文字が目に付く。「普天同慶」とは「天下の人がこぞって喜び祝う」の意味(『中日辞典』より)。「++」はガイドによると「+」が二つで十月十日の略。

また、この日は台湾の祝日の国慶節で辛亥革命記念日。「十」が重なることから雙十節ともいう(ウイキペディアより)。

帰国後、台湾で買い物をしたレシート3枚を見ると購入先は場所も店名も異なる。だが、3枚ともその上部に「中華民国102年9-10份 収銀機統 発票」と印刷されている。日本の統治から解放された1911年が民国元年。今年は確かに民国102年。今もその年号は根付いている。


台北駅で見かけた「++<普天同慶>++」の文字
16時43分、特急列車太魯閣号「自強」232便にて台北より2時間乗車して花蓮に到着。専用バスにてホテルへ移動する。記念にもらった台湾鉄路局の切符を見ると「自強232」と印刷がある。この「自強」は日本でいえば「ひかり232号」といった列車の愛称らしい。

17時半、アミ族の民族舞踊を観賞。ショーの始まるまで腰掛けていると見知らぬ日本人が声をかけてくる。静岡の個人旅行中の夫婦だった。旅行の目的を聞かれ、「ある学会のグループで…」と話す。すると日本の某宗教団体の学会と間違われる。友人は「学会といってもそれとは違います」と告げる。夫婦はそれでも自分たちが信仰する日本の某新興宗教団体の本を渡そうとするが拒否する。それにしても海外に出てまで布教活動をする人がいるとは…。

民族舞踊ショーで踊ったアミ族の少女
民族舞踊ショーの始まる前、全員で集合写真に収まる。その前にガイドは席を確保するよう告げる。ところが物を置いて席を確保しても見知らぬ中国人らしき人に席を奪われる。ガイドはそれを見てその人たちに苦言を呈する。だがそれも埒は明かない。

鮮やかな衣装を身につけたアミ族の若者たち。彼らは裸足で民族舞踊ショーを繰り広げる。花蓮は大理石の産地。多角形のホールのフロアも大理石が敷き詰めてある。ショーも終わりに近づくと飛び入りで参加する人たちも混じって、さらに踊りはエスカレート。Dさんも踊りの輪に入って楽しそうに踊る。

18時半、専用バスにてホテルへ移動する。19時、ホテル内のレストランで広東料理をいただく。同じ中華でも台湾と中国の料理はまるで違う。脂っこくなく上品な味で美味。テーブルに出された台湾ビールは1本750NT$=2,500円。

台湾の初日の夕食は楽しいうちに終わる。夜の反省会は広島出発が早かったこともあり、翌日に持ち越し。ここで「請用吧!」(お召し上がりください)を覚える。これまで知っていた「請吃吧!」よりも丁寧語になるらしい。宿泊ホテルは花蓮福容大飯店。早めに就寝。

第二日目 10月24日(木)

5時半に起床。朝日がまぶしく、晴れ。7時半、専用バスはホテルを出発し、天下の絶景、タロコ(太魯閣)峡谷の観光に向かう。道中、専用バスの車窓から赤い花の咲く街路樹を見る。ガイドに尋ねると「火炎樹」とか。この花は台湾のどこに行っても咲いていた。だが、写真に収められず残念。

8時20分、専用バスはクロコ峡谷到着。狭い何十段もの階段を下りて滝を目指して川沿いを歩く。川を流れる水の色は台湾のどこでも同じ水色。とはいっても日本の水色とは異なり、灰色がかった薄い水色。


公園入り口
もらったパンフによるとタロコ渓谷は大理石の断崖絶壁が圧巻で台湾最大の景勝地。何万年もの歳月をかけて、立霧渓の急流が大理石の山を削り上げて誕生している。何と大理石の山の高さは約600メートルあり、約20キロも続く。

この奥へ入りたかった。だが、帰国後の11月2日に開催されるマラソン大会のための道を整備中でバスの乗り入れは無理だった。


長い階段を下りて滝を目指して川沿いを歩く
その後、専用バスにて大理石工場へ移動し、9時40分に到着。係りから大理石や宝石の説明を聞く。キャッツアイは魔よけの意味があるとか。工場横のレストラン「東洋」で台湾の郷土料理の昼食をいただく。その後、専用バスにて高雄に移動。道中、セブン・イレブンを目にする。どこに行ってもその看板をよく見かけた。専用バスの中ではガイドが「両手バナナ」といい始める。観光する際、専用バスの車内に荷物を置いて、手に何も持たず下車して観光する。そう、手ぶらでの観光を指すらしい。

専用バスは北回帰線に到着。初めて台湾でその地点に立つ。この線上では夏至の日に太陽が真上に来る。そこから見下ろせば太平洋が見える。瀬戸内海で見る海とは違って猛々しい。♪海は荒海~、向こうは佐渡よ~♪ならぬ向こうは何処?風は強く吹く。ぽつぽつと小雨も降り始める。その付近で見かけた可憐な花。思わず、写真に収める。


緯度23度27分にある北回帰線
13時15分、専用バスは北回帰線を出発。14時15分、三仙台観光。ここは花蓮から台東の小野柳まで、太平洋岸に沿って続く東部海岸にある。海水による侵食や地殻隆起などで生まれた自然美や奇岩が点在し、手付かずの自然景観が美しい。

16時20分、専用バスは高雄に向けて出発。ガイドから専用バスの中で台湾の果物の「釈迦頭」の話を聞く。17時10分、車窓からは雨も止んで真っ赤な夕陽を遠めに見る。車内ではこのころからガイドが北投石の話を延々と話し始める。これは帰国する間際まで続く。


伝説によると3人の仙人がこの3つの岩の上で休んだとか

他にも、車内では八田與一のアニメが流れる。台湾にダムを作った八田與一。その人の話を恥ずかしながらその時、初めて知る。ウイキペディアによると八田與一(1886-1942)は日本の水利技術者。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に大きく貢献している。中でも1920年から10年かけて大貯水池・烏山頭ダムを完成。その水路は嘉南平野一帯に16,000㎞にわたって張り巡らされ、水利設備全体は嘉南大圳と呼ばれる。

1942年、八田は広島宇品港からフィリピンに行く途中、アメリカ海軍の潜水艦により船を撃沈されて死亡。残された妻は、日本敗戦後の1945年9月1日、夫の後を追って烏山頭ダムの放水口で投身自殺。その日を記念して八田の銅像も建立され、毎年、9月1日に慰霊祭が行われている。

18時10分、南州加油站(ガソリンスタンド)でトイレ休憩後、宿泊先の高雄円山大飯店内のレストラン「龍興」で海鮮料理の夕食をいただく。20時10分、夕食後、寿山公園に出かけて夜景を見る。観光後、ガイドは専用バスの車内で北投石のブレスレットなどを旅の参加者に貸し出す。果たして北投石の効果はあるのだろうか。車窓からは「當(当)」の文字を目にする。ガイドに聞くと「當(当)舗」の略で質屋の意味らしい。

22時10分、2日目の台湾の夜は団長の部屋に皆が集まり、反省会。ここで台湾在住のDさんのお姑さんも合流。お土産に「緑豆椪」という台湾の銘菓をいただく。あり難い!これは緑豆だけで作られた四角い形のケーキでとても美味。

夜は何を反省するのかわからないほど楽しい反省会。各自部屋のコップを持参して飲み会は続く。それにしても、どのホテルの部屋も立派。何が立派といっても、シングルのツインでなく、ダブルベッドが二つもある部屋。団長の部屋はさらにグレードアップ!?旅の参加者が全員集まっても部屋の広さに余裕がある。どの人もダブルのベッドでゆったりとお休みになられただろう。

参加者に双子の姉妹がおられた。その人たちの体重差は何と20㎏。観光中、それを聞いて思わず、その差は「貧富の差」だと面白おかしく話す。これってホント!?

第三日目 10月25日(金)

10月25日は台湾光復節。台湾における日本の統治が1945年10月25日に終わったことを記念する日。このことも台湾に来て初めて知る。高雄市の天気は晴れ。8時にバスはホテルを出発し、高雄市内の観光に出かける。車内でガイドから「高雄」の日本統治前の古称は「打狗(Da Gou)(ダーコウ)」と聞く。「高雄」は「ダーコウ」と読みが似ている。それで日本語の「高雄(タカオ)に当てはめたのだろうか。

それにしても市内はバイクの洪水。車道は4列と広い。しばらくして高雄県鳳山市にある五甲龍成宮に到着。もらったパンフによると、龍成宮の天上聖母は民間で「媽祖」や「媽祖婆」などと呼ばれる水上運行を主管する女神らしい。

言い伝えによると、媽祖には千里眼と順風耳のお供がいて、千里離れた所でも人を救うことができたという。この言い伝えのためか、ガイドは3階にある大殿で我々全員を前にして大きな声を出して、模範的な祈りのモデルを示す。ガイドはこの祈りを「おみくじ」と話していた。

下方の写真のような2つのものを手にしておみくじを引く(占う)。その後、ガイドを見習ってご夫妻で参加されていたFさんの旦那さんが真似をしておみくじを引く。大きな声で願いを言って占われるのだが、これが可笑しい。マージャンか魚釣りの願いのようだった。皆の笑いを誘った。

皆の前で大きな声を出して占うのは恥ずかしい。その場から皆が立ち去ると声を出さずに占う。

その結果は下の写真のとおり。2回目の占いは1回目のお礼の占いとか。どちらも裏表といい結果だった。その結果どおり、楽しい旅になった!

9時に専用バスにて龍成宮からショッピングセンターに向かう。9時20分に到着後、売り場の商品を見る。どれを見ても高価だった。


龍成宮
おみくじで裏表が出るといいらしい
10時、専用バスは蓮池譚に到着。蓮池譚は高雄市内にある人造湖の観光スポットであり、遊園地でもある。この中にある龍虎塔は1976年の建立。

蓮池譚(回廊の下には睡蓮の花が咲いていた。右横は龍と虎

専用バスにて到着後は歩いて蓮池譚に向かう。その途中、中国で法輪功を学習する人々を救って欲しい旨のスローガンを見かける。ここだけでなく、どの観光地でも、そのデモンストレーションを目にする。もらった法輪功のパンフを見ると、救済だけではなかった。法輪功は「精神と身体を養う伝統的な心身鍛錬法」と日本語で書かれた宣伝パンフでもあった。

蓮池譚の龍虎塔は七重の塔で高雄のシンボルとなっている。写真の右横にもあるように龍の口から入って虎の口から出ると悪行が帳消しになると評判がある。皆について歩いていると、出る所でお賽銭に目が留まる。同じ団体の人!?と立ち止まっていると他所のツアー客に吸い込まれそうになる。その様子を見ていたDさんと友人から、「ここよ!こっちよ!」と大きな声で呼ばれる。他所へ入り込むところだった。これは今でも笑い種。危ない!危ない!蓮池譚は名前の通り、睡蓮の花が咲いていた。


法輪功のスローガンをかかげたデモンストレーション!?
10時45分、専用バスにて台南へ移動する。途中、車窓から写真に写した「臭臭鍋」の看板を見る。これは臭豆腐が入った鍋とか。どれくらいの「臭さ」の鍋だろう。食べられなくて残念!


臭臭鍋の看板のかかった鍋のお店
13時15分、専用バスにて1653年にオランダ人が建立した赤嵌楼を見学。赤嵌楼は紅毛楼の異名を持つ、台南最古の赤レンガつくりの建築物である。


鄭成功
ウィキペディアによると、赤嵌楼は鄭成功(1624-1662)の軍政が攻め落としたとされ、鄭を神として祭っている。この鄭成功は中国明代の軍人で母は日本の肥前の平戸の人で田川氏。清軍と戦い、台湾に渡って鄭氏政権の祖となる。俗称を国姓爺。台湾と中国では民族的英雄として描かれる。日本式の鎧を身にまとった鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。今日では台湾の不屈の精神の支柱であり開発始祖として社会的に高い地位を占めている。

赤嵌楼に入ると窓は竹で出来ている。竹は道徳を意味するとか。そのためか、科挙制度や書院教育の説明が展示してある。


赤嵌楼
赤嵌楼を観光後、歩いて移動していると日本統治時代の台南市立人国民小学校を目にする。台南第二公学校から宝公学校へと改名し、国民党時代に立人国民小学と改称された。立人とは中華民国の孫立人の名である。

台南市内の観光を急遽、昼食後に変更となる。昼食は美濃客家(はっか)菜にて台南の郷土料理をいただく。中国語で料理は「菜」。ところが台湾では日本語と同じ「料理」というらしい。とはいってもその発音は中国語読み。昼食のデザートでパッション・フルーツをいただく。半分に切ってスプーンで食べる。初めて食べる味、美味だった。

13時45分、専用バスにてトイレ休憩を挟んで日月潭まで移動。16時45分到着。途中、車窓から大きな黄金色の仏像(?)を目にする。これは何のために建てられたのだろう。日月潭は台湾最大の風光明媚な周囲約33キロの淡水湖。東側は太陽の形なので日譚,西側は、三日月の形なので月譚と称される。到着時刻が夕暮れ時でもあり、美しい夕陽を見る。日月譚を見下ろすように文武廟が建っている。文武廟でもガイドは大きな声でおみくじを引く。ここでもFさんはガイドのまねをして大きな声でおみくじを引く。さて、その結果は!?

黄昏時の文武廟を3人で歩いているとT団長は「30歳若かったら人生も変わっていた…」と話される。それをまねて私も「30歳若かったら人生変わっていた…」と話す。すると団長は「いやいやあなたは違う…」。これを聞いて歩いていた3人で大笑い。何でも面白おかしく、早く言ったほうが勝ち!?そんな雰囲気の楽しい旅だった。

文武廟を見学後、夕陽を眺めながら湖畔を散策する。17時20分、専用バスは出発し、台中に向かう。19時、燉品棧にて台湾の味とは一味違う客家料理をいただく。夕飯を終えると、夜市に繰りだす。発展途上国に見られるバザールのような夜市を想像していた。ところが、それとはまるで違い、広島でいえばえびす講の感じで、街中の繁華街を皆で徘徊する。

自由時間を見計らってDさんに台湾のマクドナルドに案内してもらう。日本と違って2階のフロアは誰でも自由に出入り可能。そこは子供の遊び場であり、若者の語らう場でもある。ファストフード店は国によって異なっていた。


文武廟から日月潭を見下ろす

20時50分、専用バスにて宿泊先の台中長栄桂冠酒店に到着。21時45分から団長の部屋で紹興酒をたしなみながらの反省会。このとき、ガイドの妹さんが調達してくださった2個の釈迦頭をいただく。ガイドに食べやすい大きさに割ってもらって皆で味わった記憶はある。だが、どんな味かは思いだせない。


果物のバンレイシ(別名は釈迦頭)
この釈迦頭はバンレイシ(蕃茘枝)ともいわれる。それにしても台湾で初めてガイドから聞いて目にする釈迦頭。一目見てその形に驚く。お釈迦様の頭に似ていることからこの名がついたのだろう。

第四日目 10月26日(土)

旅の朝は早い。今日も晴れ。6時に起床して6時半に朝食。ドラゴンフルーツやグアバなどの果物が朝食のバイキングに並ぶ。聞くのも食べるのも初めての台湾の果物。どれも面白い形をしている。ドラゴンフルーツはホテルのバイキングでは食べやすい大きさに切ってある。


ドラゴンフルーツ(中を見ると黒いゴマがついているみたい)
7時50分、専用バスにて台中烏日駅へ移動し、台湾の新幹線(高鉄車)に乗車する。早めに到着したため予定の616便の指定席を114便の自由席に変更して各自乗車する。9時半、台北駅到着後、専用バスにて忠烈祠到着。

専用バス内でガイドは台湾の徴兵制について話し始める。ところが今一歩、その内容がつかめず、調べることが課題となった。衛兵の身長は175から180cmと高い。忠烈祠は辛亥革命や対日抗戦などで命を落とした約33万人の軍人の英霊が祀ってある、1969年に建造された祭祀場。運よく英霊と建物を守る衛兵の交代式をみることができた。その一糸乱れぬ動きは圧巻だ。


忠烈祠での衛兵


忠烈祠での衛兵の交代式の模様
10時半、専用バスにて国立故宮博物院へ向かう。ところが何と停電。これは珍しいことらしい。次の行動が決まる前に、全員で集合写真に収まる。予定を変更して台湾のランドマークである台北101展望台の1階の鼎泰豊で小籠包で昼食をいただく。ここは溢れんばかりの人、人、人。ここで出される小籠包はすべて手作り。同じフロアで大勢のコックさんが小籠包を作っている。その美味しさは日本で食べる味とは比べられない。アツ、アツの出来立てがドンドン運ばれてくる。そして各自の口に入っていく。それにしても人のお口に入る一日のトータル数は一体何個の数になるのだろう。思わず計算しそうになるが食べる方が先。それ以上考えず。


ガラスで仕切られた中で小籠包を作るコックさんたち


台北101展望台

台北101展望台は高さ508メートル、地上101階。台北のランドマークとして聳え立つ。恥ずかしながら、台湾へ来るまで何の予備知識もなく、この名前さえも知らなかった。とはいっても、東京スカイツリーもまだ出かけておらず、知らないのも当然といえば当然!?

ともあれ、台北101は台湾の最高層ビル。高さ382m、地上89階に設けられた室内展望台へは、5階の入り口から高速エレベータに乗って僅か37秒で到着。さらに高さ390m、地上91階には屋外展望台に出られる。それぞれの展望台からは眼下に台北のパノラマを満喫することができる。

屋外展望台に出てみると、吹く風はきつい。思わず、その高さを実感する。風の強さは、後で調べてわかったことだが、地震などの耐震よりも風圧のための制震構造に力を入れていた。


風圧の耐震構造のためのTMD(チューンドマスダンバー)
87階から92階の中央部の吹き抜け空間には、風による振動を緩和する目的だけのために、巨大なTMD(チューンドマスダンバー)が設置されている。このマスダンバーの効果で、理論上は風力による振動を最大40%抑制できるという(ウイキペディアより)。ちなみに“101”とはガイドによるとこれ以上のものはないという意味とか。

13時35分、広大な庭園の聳え建つ、台湾最大の公共建築物の中正記念堂に到着。中正記念堂は蒋介石前総統の業績を讃えるメモリアルホールとして1980年に完成。約25万㎡の広大な公園の両端には国家音楽庁と国家戯劇院もある。

中正記念堂内の正面には蒋介石の座像があった。尚、この「中正」とは蒋介石の本名。この中では儀仗隊が午前6時半に進駐し、交代儀式は9時から始まって17時まで毎時行われている。ここでの交代儀式も衛兵の時と同じく、大勢の観光客の前で行われ、運よくこれも見学できた。

ガイドによると台湾の2人の英雄は中正道と中山道として東西と南北に伸びており、それぞれの建物は中国に向いているという。


任務に就く儀仗隊員


儀仗隊の交代儀式


儀仗隊
14時半に専用バスは出発して総合土産物店によってショッピング。バスを降りたところにある果物店で釈迦頭やドラゴンフルーツなどの果物を目にする。1時間くらいショッピングを楽しんだ後、再度、専用バスにて故宮博物院へ向かう。

停電のため、時間をずらしての見物。だが、お目当ての「白菜」を見るためか入り口から込んでいる。この「白菜」は本物そっくりに翡翠の彫刻で作られている。葉っぱの上にはイナゴとキリギリスが止まっている。これは多産を意味するとか。故宮博物院は中華歴代の至宝を収蔵しており短時間での見学は不可能。なんといっても収蔵作品数は約65万4500点。ゆっくり作品を見るならネットでの検索もいいかもしれない。

一通り館内を見学後、友人とトイレに行く。ところが集合場所がわからない。少々慌てて、知っている中国語で場所を確認してやっと皆と会えた。

17時半、専用バスにて故宮博物院を出発し、今回、生憎利用できなかった台北の圓山大飯店のロビーを訪問。大きな学会があるらしくロビーは人、人、人。ロビー真ん中に見事な蘭の鉢植えもある。このホテルで結婚式を挙げた人たちだろうか。新郎新婦や親族がこの蘭の前で写真に収まる姿を目にする。


台北圓山大飯店ロビーの見事な蘭の鉢植え
旅の最後の晩餐会は「鼎極」のレストランにてフカヒレ&アワビ&伊勢海老のコース料理をいただく。ちなみにお値段は@2680NT$(約1万円)。お店の外の看板に価格が表示されていた。この世の幸せを感じながら美味しくいただく。

専用バスでお店を出て20時20分、宿泊するホテルに到着。この夜も団長の部屋に集まって反省会。Dさんの台湾のお友だちからパッション・フルーツをいただく。

話が弾んでいる頃、ご夫妻で参加のFさんの話し方が「知り合いと関係ある人」では、と双子の姉妹から出る。なんと、関係ある方だった。それにしても世間は狭い!話し方で出身地がわかるとは…。このFさんから「どうも気(木)になる背戸の柿の木」の話を教わる。この背戸が今一歩わからない。ところがこれは“里の秋”でも歌われていた。

毎夜、豪華なホテルに宿泊する。今夜の宿は君品酒店。これまで泊まったことがないほど豪華というか、どう表現していいのだろう。部屋の中には鏡、鏡、鏡。いくつも部屋があると見間違えるほど鏡で工夫されている。トイレのベッド側の引き戸を開けるとなんとお風呂もトイレもベッドもすべてが丸見え。お風呂はシャワールームとは別に丸いバスタブもある。このバスタブは使用せず、シャワーを利用。今となってはナニゴトも経験。入ればよかった!?


鏡張りの部屋にある丸いバスタブ(一つだけなのにまるで2つ浴槽があるみたい)
 変わっているのはお風呂ばかりではない。廊下も豪華だった。というかこれまで見たこともないほどの廊下で、新聞受けの袋も入り口に掛けてある。

第五日目 10月27日(日)

今日もいいお天気。ホテルの朝食で初めて菱の実を食べる。このキーワードも今回の旅で初めて聞く。ウィキペディアで調べると、日本では九州の佐賀県や福岡県が出荷の産地。池や沼に自生する一年生の水草で秋から晩秋までが出荷時期らしい。

茹でていただくのだが、食べ方がわからない。歯で食いちぎろうとしても歯が立たない。手で割っていただくと栗のような味だった。この菱の実、名前はかわいいイメージがある。だが、よく見ると何となくグロテスク。ナニゴトも見た目より中身が勝負!?


朝食でいただいた菱の実
8時半に専用バスはホテルを出発し、台北のエバー・リッチ免税店に向かう。これまでお土産らしきものは買っていない。別に買わなくてもいいのだが、台湾ドルのNT$が残っている。店内で売れ行き人気と表示がある菓子類を購入。

9時40分、免税店を出て専用バスにてレトロな街、九份に向かう。ちなみに九份とはガイドによると九世帯に分ける意味とか。途中、ガイドは車内で当日の新聞記事を話し始める。それは中国共産党をアジアの国々が抗っていくという安倍首相の頼もしい記事らしい。その言葉の裏には台湾の行く末を案じている。

他にもガイドは二・ニ八事件の話をする。1947年2月28日に台湾で起きた、民衆による反国民党暴動。台湾人への蔑視・差別に対する怒りが爆発したもので武力弾圧により2万人以上が犠牲になる。外省人と本省人の対立を生んでいる。これも台湾で初めて知る。

10時45分、専用バスを降りて野菜や果物を売っている店内で珍しい果物のレンブを見る。このころから小雨も降り始める。

九份の人ごみに入る前にしばらく付近を散策。遠くには東シナ海も小雨にかすんで見える。途中、現地の人たちも利用する乗り合いバスに乗り換えて九份に行く。乗り合いバスを降りたところでオープンテラスの席を設けたレトロな九戸茶語にて、海を眺めながら台湾の郷土料理をいただく。もらったパンフによると、九份は金鉱の街として栄えた雰囲気を残しており、1890年、金鉱の発見でゴールドラッシュに沸いた。海を望む山の斜面に石段や石畳の小道と古い家並みが続き、情緒豊かでノスタルジックな風景が広がる。他にも名作映画「悲恋城市」の舞台になったところであり、ベネチア映画祭でグランプリに輝いて脚光を浴びた。


九份の街の向こうに見えるは小雨に煙る東シナ海
九份のメインストリートである石畳の小道の両側には土産物屋や食堂が軒を連ね、昔ながらの風情を醸しだしている。九份名物の団子「芋圓」は昼食でいただく。台湾の人たちの生命力を感じた九份。ところが、その活気ある九份の写真を1枚も写していない。ただ、台湾の人たちの間でテレビに出て有名になったという犬の小黄(シャオホワン)は写真に収めていた。

聞くところによると小黄は日本人の観光ツアー客だけ、人ごみに溢れる九份のガイドをするという。途中まで道案内してくれた小黄もいつのまにかいなくなる。案の定、小黄がいなくなった私たち日本人14名はガイドとの待ち合わせの場所に行く道で迷子になる。日本でいえば初詣客で込み合う狭い参道を道幅ぎっしり行き交う人たち。そんな感じの九份だった。

日本人観光客を道案内するという小黄
小雨の中、傘も入り乱れて観光するがその人数たるや半端ではない。いざ、両端の調理をしている食べ物店が火事にでもなろうものなら、どれくらいの犠牲者がでるのだろう。とはいっても、その人ごみの中の九份を歩く。それがまた台湾のよさかもしれない。もう一度ゆっくり出かけて現地の料理をいただくのも楽しいことこの上ないだろう。

人ごみを離れて、再度、乗り合いバスに乗る。ところが、観光客でごった返してなかなかバスに乗車できない。ガイドは交通整理をしている警官らしき人に大声を張り上げて早くバスをこちらに来させるように怒鳴り散らす。やっと乗り合いバスに乗車すると、先に乗車していた客で込んでいる。バスの最後列に行くと真ん中の席に座らせてもらう。隣の人と中国語で話をしていると花蓮からの観光客だった。自分たちのことを「看護婦」と日本語で話す。それを聞いて日本では男女とも「看護師」と呼ばれていると中国語で教えてあげる。その人たちは70人できた花蓮の看護師さんたちだった。

13時20分、乗り合いバスから専用バスに乗り換え、14時30分、桃園空港到着。16時55分、CI―112便で広島空港へ。空港到着後、台湾周遊の旅のハイライトともいえる空港アナウンスで呼び出される。友人は、もしかして誰かに覚せい剤を入れられた?と思ったらしい。そんなことも梅雨知らず、本人はノンキなこと。呼び出されていると聞いて係りに出頭する。なんのことやら、デジカメのケースを機内の座席に落としていた。

ここで周遊記も最後になりました。旅の最初から最後まで団長のTさんをはじめ、幹事のHさん、皆の秘書役的存在のMさん、そして同行の皆様に大変お世話になった旅でした。ありがとうございました。帰国後もこの旅に誘ってくれた友人と「一年分笑った旅だったね」と話しています。どの観光も、どのホテルも、どの料理も最高でした。ほんとうに楽しい旅でした。台湾周遊の旅にご一緒した皆様、ほんとうにありがとうございました!

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