2014年2月20日木曜日

『心の海へ』

一昨日の夜、友人と電話で話す。マンネリになりがちな日々から逃れるため、旅に出たくなる、と。来月、近場へ出かけると話すと急な話なので友人はためらっている。その際、友人が出かける話はどこへでも乗ると話した。そして、年々、年を重ねるので行きたいところへ行くつもり、とも言った。

昨夜、春になるのでくすぶっておらず、遠くへ行こうと決める。すぐにそのことを友人に知らせようとするが留守。まもなくしてその国へ行こうと友人から電話がある。これを聞いて吃驚仰天。まさに以心伝心。

話はすぐにまとまる。先ほど、旅行社に電話して旅を予約する。

一昨日の夜は他にもこれまで遠くの国から意識して出かけていたと話す。この言葉は友人を刺激させたらしい。それにしても友人の行きたい国と同じ国だったとは…。

近場はいつでも行かれる、との思いがある。とはいっても年とともに出かけようという気持ちが億劫になるのが怖い!暖かくなるのでなるべく出るチャンスを作ろう。

以下は1年以上前に読んだ澤地久枝の本。またいつものように気になるところを抜粋しよう。それにしてもここに記した文章はすばらしい!生きる勇気を与えてくれる。

『心の海へ』(澤地久枝 講談社、1996年)を読んだ。

★人が一生かけてできること。それはごくごくささやかなことだと思うようになった。五十代にはここまで突き詰めて考えたことはない。ささやかになにをするか。なにができるかが問われている。小さな役割。人生を終わるとき、悔いのないなにかをしたい。そう思う人の数がふえていったら、それは確かな力になる。生きるって素晴らしいと無理にも思いたい人間として、わたしは心の落ちつき場所をやっとみつけようとしている。六十五歳とはそういう年齢であったのだ。ここまで生きてきたわがいのちに、「ようこそ、わが人生」と手をさしのべよう。16p

★学生時代からずっと一人暮らしをしている若い女性にいわれた。その一人暮らしと、人生の坂を下りはじめての一人暮らしは異質であると思う。結婚か恋愛によっていつか終わる日もある一人暮らしと、おそらく死ぬまで誰ともともに暮らすことのないひとり暮らし。その差。それに、もしももしも、誰かが一緒に住もうと言ったとして、長い一人暮らしの自由を知り、人生の果てが見えているわたしは、ねんごろに辞退すること間違いなし。荷物を背負っている人生などあり得ず、それが重いか軽いかの違いだけがある。二人で暮らして荷物を互いに軽くし合えるということはあろう。しかし、重すぎる荷物にあえいでも、わたしは営々とそれを一人でになってゆく。そのほうがわたしにとっては快適でありいい人生に思える――。そう思える過去の暦を持ち、長い一人暮らしをすでに体験してしまって、変われないし変わる気持ちがないのだ。23p

★長寿社会になり、家族に埋没するよりわが人生を生きたい意志を持つ女たちがふえ、一人暮らしをする女性は老若を問わず多くなってゆく。行きつくところが一人暮らしであったとしても、怖れも寂しさも感じる必要はない。26p

★好奇心が薄れ、外出したり人に会うことがいやになってきたら、一人暮らしに赤信号がともったと警戒しようと思っている。友人たちと刺戟的な交歓のあと、一人きりになっての深夜の静寂に、わたしの心も脳もリフレッシュされ再生してゆくのを感じる。寂しさには縁はない(あれ、ちょっとヤセガマン!と思いますか?)。生きている実感を溢れさせて一人で暮らす。これがわたしの人生。…いい死に方をしたいと思っているが、よく死ぬことは即ちよく生きること。存分によりよく生きることが、よき死を運んでくると信じようとしている。25-26p

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