2013年8月26日月曜日

『言葉が立ち上がる時』

広島県観光キャンペーンのJR車両

先日、居酒屋風に思えた車両に乗る。だが、写真に収められず残念だった。ところが、一昨日乗った車両が同じ車両だった。前回は呉線上りで今回は山陽本線上り。乗車前、携帯で写す。4両編成の車両か8両編成かは覚えていない。それでも、車両のすべては異なるアートで施されている。全体を写せなくて残念。

今朝は明け方まで降り続いた雨もあがり、とても涼しい。現在の部屋の気温26度、湿度65%で電波時計は快適を示す。まるで台風が通り過ぎたような気候だ。だが、日中は気温も上がるのか、それともこのまま秋に突入するのか。さてさて・・・。
居酒屋風!?
柳田邦男『言葉が立ち上がる時』(平凡社、2013年)を読んだ。筆者は「はじめに」で書いている。

言葉への旅に出よう。心に決めた。
いのちの息づかいを映す言葉は、どこから生まれてくるのか。
その言葉が沸き出てくる源は、どこにあるのか。
・・・その泉を探し出して、畔(ほとり)に立つ事ができたなら、生きることと死ぬことについてより深く理解することができるようになり、自分自身の生の証を立てるうえで確かな文脈をつかむことができるようになるに違いない。・・・これは、言葉によるルポルタージュであり、書々周遊の旅であり、生と死をめぐる人生哲学の旅でもある。

この底辺には筆者の次男、洋二郎の25歳の若すぎる自死がある。彼には心の病があり、傍で見ていた筆者は息子に手を差しのべることも出来ず、機の熟する時をひたすら待つ。だが、その熟し柿も落ちていく。そう、自死である。13~15p
またいつものように気になるところを記そう。

・もしある人が、すばらしい感受性を持っているとか、他者に対する思いやりが深いとか、あるいは失敗にくじけないねばり強い感性を持っているなど、何らかの秀でた面の持ち主だったなら、そのような感性や性格を育んだ原点は、記憶の古層に刻まれた幼少期の体験にあるに違いないと、私はとらえている。・・・人格形成の原点になるような体験の記憶というものは、意識されようがされまいが、記憶の古層の中で生き続けるものなのだ。28p

・いのちの精神性は、死で終わるものではない。肉体や社会生活の面だけで見ると、人生は死で終わるというのは当然の帰結だろうが、ひとりの人間がどのような生き方をし、どのような言葉を遺したのか、とりわけ重い病気のなかで迫り来る死を前に、どのように生き、何を残したのかといった事柄は、生活と人生を共有した人の心のなかで生き続け、後を生きる人の人生を膨らませる種になることも少なくない。そういう他者の心のなかで生き続けるいのちを、私は「死後生」と呼んでいるのだ。125p

・時折私に向かって、「おやじは作家なら、ほんとうに苦しんでいる人間の心のなかをしっかりと見ているのか」「この家で何が起きているのかを、ちゃんと見ているのか」といった言葉をぶつけてきた。深い水底に沈潜しているような日々を過ごしているがゆえに、人間の本質的な問題ばかりを考えている。純粋さゆえに、彼から投げられる言葉は、手裏剣のように私の心にぐさりと突き刺さってきた。「洋二郎の気持ちはわかるよ」などといった言葉は私から出せない日々だった。生涯かけて考えなければならない課題をもらったに等しかった。127p

・心のなかにあるものを「書く」という行為は、そうしないとカオス(混沌)のままになってしまうものを、一筋の脈絡をつけて整理し、自分も客観的に視るという効果をもたらすことになる。それは、心を前向きにし、次なるステップを踏むきっかけとなる。226p

・血流の脈動する言葉は、ナチスドイツの強制収容所のような特異な状況下に置かれた人でなくても、様々な場で生と死の狭間で苦悩する人々の心に共感をもって受け容れられるのだ。ただ。その前提として、「読む」という行為が、「心の習慣」になっているかどうかが、問われるだろう。231p

・人が限界状況の中に放り込まれたり、死の危機に直面したりした時に生み出す言葉の、何と豊かで素晴らしいことか。そういう感銘を数え切れないほど経験した。豊穣なる言葉の海を生み出したのは、人が人生の中で避けがたく遭遇する喪失体験であり、とりわけ死だ。言葉への旅に一区切りをつけた今、私は確信をもって、そう言い切れるようになった。(あとがき)236p

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