2011年7月4日月曜日

『スペインひるね暮らし』

中村明の『スペインひるね暮らし』(文藝春秋、1997年)を読んだ。彼の著作を読んだのはこれで2冊目。前回のあの読後の悪さに比べて今回の本は彼の作家デビューのひたむきさが伝わってくる。

読んだ後、ネットで彼について検索すると3年前に亡くなっている。もうこれを知ってびっくり!スペインで暮らし始めて13,4年。それも66,7歳の若さで…。本のはしばしに飲む話が出てくる。酒におぼれてしまったのだろうか。

ネットでの検索結果、中丸の本の内容の下品さは私だけでなく皆に追及されている。それでも2冊目に読んだ今回の本はいやらしさもあるが、サラリーマンをやめ作家生活に至るまでの話を読むと応援したくもなる。その矢先に亡くなっているとは…。

中丸はクリスチャンの家系に生まれ彼自身もクリスチャンだ。彼は「安保」闘争のデモ隊に駆り出された日の京都でカルロス・モントーヤのポスターを見て入った店でフラメンコとの出会いが始まる。初めて聞いたフラメンコについて「演奏が終わったとき、僕は立てなかった。強烈な音色に腰がぬけてしまっていたのだ」と。彼はこのようにして神さまが教えてくれたフラメンコを知ったとたん、神さまに背を向けてしまう(16p)。

大学を卒業し出版社に入り、53歳で退職しスペインに渡る。ここから話は始まる。

スペインについての本を紹介している。齋藤孝『スペイン戦争』(中公文庫)、清水幾太郎『昨日の旅』(文藝春秋)。この2冊の本はいずれ読むとしよう。

そういえば清水幾太郎の孫は清水〇木という。社会人大学生の頃、この先生から専門科目の哲学を学ぶ。そのゼミは2名だけ。あるときのゼミ前、清水幾太郎のお孫さん?とたずねると私の質問を含めてこれまで2人にそういわれたことがあると喜んでおられた。

先生は東大で学ばれ、当時から専門の科目は1対1で学ばれたとか。小さいときからラテン語を学ばれていたらしく、ドイツ語、フランス語も教えておられた。そこには祖父の教育方針があったのかもしれない。相当な年齢まで共に過ごしたといわれた。見るからに賢い坊ちゃんという風貌が感じられた先生だった。

変わった授業であった。いっさいの無駄話はなく、ゼミ生はただ聞くのみ。質問とかはなし。配布されるプリントは原稿用紙に書かれた文章のコピーを渡される。30代半ばと思われる若い先生なのにパソコンは苦手だとか。試験のときはあらかじめ用意された課題を時間内に書くのだが、これがとてもおかしい。2名しかいないゼミ室で速さを競うように文字を埋めていく。この作業は年齢、性別関係なし。しゃべるのは早口だが走るのは遅い。それでも字を書くのは結構若者に負けないから助かるのだが…。

これが教養科目となると人数も多い。字を書くときのスピード感ある音は経験者しかわからない。社会人大学生となるものはまず字を早く書くことから学ばねばならないと知った。

その先生の私以外のゼミ生はその後、京都大学の大学院に進学し、哲学を研究している。とても聡明な女性であった。まだ最近のことなのに今となっては懐かしい!

話は中丸に戻る。スペインが今のように落ち着いたのはフランコが亡くなってからだという。彼はそれを「フランコはスペインに中産階級を生んで死んだ」(35P)と表現している。

スペインでの生活に対して中丸はまず「親愛なる君よ」と我が身に言い聞かせる。そして「きみは食べなくてはいけない。まず、食うことだ。それから散歩、計画だった読書、そして、よーく考えて書くのだ。酒は慎まなくてはいけない。いいね、わかったね」(48P)と。

中丸の奥さんはスペインに行った夫に会いに行くために団子屋のパートで時給650円で週に3日働いている(71P)。

パエーリャについて一躍有名になったのはサマセット・モームの『ドン・フェルナンド』というスペイン紀行(1935年)の中で絶賛したからだとか(74P)。

イスラム教徒のモーロ人によってスペインは711年から1492年までの800年の長きにわたってイスラム支配が続いた。砂漠からの民は水をふんだんに利用した建築を作った。それは中庭の噴水に見られる。その最たるものがグラナダのアルハンブラ宮殿だとか。ちなみにアルハンブラのようにALで始まる言葉はほとんどがアラビア語から来ているという(76-77P)。

スペインと玉ねぎについては切っても切れない関係とか。日本のことわざにある「お前とならば手鍋さげても」は「お前とならばパンと玉ねぎ(Contigo、Pan y Cebolla)」に。

ひるねについて「ぼくは読書なども摂取しようと思い、スペインでひるね暮らしをするにあたってあれこれ取捨選択した本のうち、『檀流クッキング』を手にした」と述べる。中丸はこの中の「いつの日にも、自分に拭き募ってくる天然の旅情にだけは、忠実でありたい」という一節に強く惹かれるという(221P)。

彼がスペインへ来た理由を「駐在員の日本人夫婦の顔は、いつも本社に向いている。それが嫌なのだ。僕はサラリーマンを捨てて、ひるねをしにきた男だ…」と(253P)。

8ヵ月後の新年に中丸は一時帰国する。スペインの人と別れるとき「ぼくも身を立て、少しは名を上げ、ちょっとは売れる物書きにならなくては、団子屋勤めの女房がかわいそうである」といって「昴」を歌い皆で「蛍の光」歌って再会を祈る(291P)。

中丸は物書きとして売れなかったなら憧憬する「乞食」を職業にしようとした。そこには私淑する結城昌治の影響があった。「結城さんは、検察事務官時代、勤めに嫌気がさし、いっそ乞食になろうとおもったことがある…」。それも母の嘆きから断念されたとか(297P)。

日本に帰って結城と再会後の一年後、結城は亡くなる。「六十九歳の空の高みにのぼって行かれた。白布を上げ、たった二行の簡潔な遺言を拝見し、涙がとまらなかった。弟の死以来たまっていた涙が、堰をきった。チャンドラーの薫陶も全く役に立たなかった」(299P)。

その後「翼よ、あれがスペインの灯だよ」(299P)とスペインに戻った中丸は「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きていく資格がない」(Si no fuese duro、no estaria vivo.Si no pudiera ser dulce、no mereceria estarlo.)「ぼくはそういうふうに残りの人生を生きてみたいとおもっている」(301P)と自己を戒める。

そう思った彼は本の最後にこう記す。「アニモ!」頑張って、元気を出していけ!アニモ!アニモ!アニモ!」(302P)。

どんなに著名な人もそれなりに自分を奮い立たせて頑張っているのだとこの本で知った。最後の言葉は特にそう思う。皆にあてはまるのだ…と。

0 件のコメント:

コメントを投稿