2011年3月8日火曜日

『安楽に死にたい』

松田道雄の『安楽に死にたい』(岩波書店、1999年)を読んだ。この本はアサちゃん亡き後、ほとんど毎日のように出かけている図書館で読んだ。何といっても時間はたっぷりある。新聞、雑誌のみならず書架にある本も探しては読む。この本がそうである。

本の裏表紙には「どうせ死ぬなら楽に死にたい。それは年をとって弱った人間が、万人が万人願うところです・・・人間として尊厳ある最期を実現するために、『安楽死』についてじっくりと考え直してみる。高齢者医療の延命至上主義を批判しながら、『生きる』『死ぬ』の選択は誰のものかを問う、迫力に満ちたメッセージ」とある。

著者の松田はこの本を書いた時点では89歳である。その翌年90歳で亡くなっている。著者自ら体力の衰えを感じる日々を送るうち「安楽に死にたい」と思うようになった。年をとって弱っていく、万人が万人願うその気持ちを代弁し、今の医師会の現状に警鐘をならしたのが本書である。

松田は診療というものについて「使った薬代でもうけるようにしたものだから、わずかな『薬価差額』で稼ぐには数でこなさなければいけない。そのために三分診療というものがでてきた。三分診療では、人間をみることができなくて、症状しかみられない。看護婦に病人の主訴と既往症をたずねさせてカルテにかかせる。医者はそれをみて薬の検討をつける。自分でできないから病人の切実性をつかめない。また検査をすればいくらでも異常はみつかる。それぞれの異常に応じた薬があるから、その薬を渡すだけになってしまう。いわゆる薬漬けになってしまう。そういう矛盾をもった健康保険を基にして、今障害のある老人をあずかっている。・・・」という。(72-72P)全くその通りと思う。

また「自立した市民として生きているものに、いちばんいやなのは、医者が入院を命令した場合だ。かつて一国一城の主であったものは、大勢が敗北と決まったとき、城を枕に討死した。・・・いまの世の中ではすべての市民が自分の主人になっていいのに、家をでるようにいわれたとき、抵抗する人は、きわめて少ない。それは抵抗できないようになっている。家族にかこまれ、見なれた調度を眺め、好きな食べ物をつくらせ、時には音楽をきき、時には絵をみ、若い日のアルバムをもってこさせ、いまわのきわには、肉親に後事をたのんで死んでいく・・・死は厳粛な自分の営みであった。そんな死だけが尊厳死といえる」と述べる。(117P)

この点に関しては、アサちゃんを最期まで在宅で看取りたいと思っていたモノとしては大いに後悔するところである。特に自分の意思を表現できなくなっていたアサちゃんに対して格別そう思う。ヒトの余命がわかればきっと入院させはしなかった。3週間の命とわかっていれば入院させはしなかった。またアサちゃんも入院したくはなかったはずだ・・・。

松田は「病院での人権無視」について「『老人性疾患』として入院した患者となると、もはや自立した市民でありえなくなる。・・・医者と看護婦がやっと通れる通路をのこして病室につめこまれたベッド、医者がこしをかがめないでいいようにできた高いベッド、家族から切りはなされる基準介護と面会制限・・・」、「入院患者は、病院経営にただ器官だけを提供する素材であればいい。器官に異状をみつければ、病名がつく。病名がつけば、それに対応する薬が保険でみとめられている。・・・入院することは、このルーティンに身をまかせることである。患者の自由意思は問題にされない。患者に同情して不必要な検査や点滴をしない医者がいたら、病院長はノルマを達成しない人間としてやめさせる」、「病院のルーティンをこなすことを日常としている医者は患者の人間をみようとしない。病院にパートできている大学の医者は、異常のある器官のコレクターであることがおおく、心電図やCTにすこしでもかわったことがあると、大学病院にかわって精密検査をうけるようにいう。市民の自由、基本的人権が無視されているのに無神経なことで病院ほどひどいところはない」と入院患者として入る病院への非難は最高潮に達する。(120-123p)

結局老人が入院することは薬漬け、検査漬けとなり、人間としての尊厳はなく、「安楽死」は到底望めそうにないというのか。医者である松田でさえもそのように思っている。いずれにしても病院というところは好きではない。それでもいざとなったら助けを求める患者は何をされても弱い立場にあるのは間違いない!

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