2022年6月14日火曜日

地元紙から

 今朝の地元紙文化欄に「色川大吉さんの追悼文集めた本」、「『民衆史』確立した生涯伝える」の見出し記事がある。横には8年前に撮られた90歳の色川の優しそうな写真もある。昨年、色川が亡くなった、と新聞報道でこの人を知り、関心を抱くようになった。それ以降、色川の本を何冊か読んでいる。生涯独身だったのか今朝の記事に色川の最期を看取ったのは上野千鶴子と知って驚く。と同時にほほえましく思えた。記事には次のように書いてある。

★3年半にわたる車いすでの要介護生活を支え、最期をみとったのは、色川さんを「好きな男性」だと公言していた社会学者上野千鶴子さん。巻末の特別寄稿で「この人の晩年に、共に時間を過ごすことができたことは、わたしにとっては得がたい幸運でした」「家族をつくらなかったわたしが、これほどの深さで受け止めた思いを遺してくれたのは、色川さん、あなたです」と明かしている。

 色川の本を読んでいてこんな立派な人がなぜ独身?と思ったことがあった。自分史を広めた人だけあって日記をつけておられた。その日記から自身の自分史を書いておられる。4月4日の我がブログに「色川大吉の『わたしの世界辺境周遊記フーテン老人ふたたび』を読んで以降、『フーテン老人世界遊び歩き記』、『色川大吉人物論集 めぐりあったひとびと』、そして『追憶のひとびとー同時代を生きた友とわたしー』と最近、個人的に色川大吉にハマっている」と書いている。これらの本以外にも『カチューシャの青春』などを読むと戦争が人生を狂わせた、と思えてくる。色川大吉の人生も戦争に翻弄されたに違いない。

 色川の辺境の国へ出かけた旅の本や青春時代のことを書いた本を読むと周りにはいつも女性がいる。婚約寸前で別れた人もいたようだ。記事にある『民衆史の狼煙(のろし)を』、読みたい!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月13日月曜日

紫陽花

 梅雨入りまじかに咲く紫陽花。我が家の狭い庭にも今が盛りとばかりに満開だ。そばにある水路にはこれまたドクダミ草が所狭しと我が物顔で陣取っている。庭に目をやると先日、種を撒いたコスモスが20本ほど芽を出して日に日に大きくなる。他にも先日、種を撒いたヒマワリは3本だけ大きくなった。
紫陽花
 ふと目をやると青じそが2本、芽を出している。すぐには青じそと気づかず草だと思って抜いていた。買ってでも食べる青じそ。虫に食われないように大きくなるといいけど……。紫陽花のそばにはカラーが4本、今年も芽を出した。が、今年のカラーはピンクの花をつけるかどうかは怪しい限り。ただ葉っぱだけはどんどん生えていく。

 狭い庭に生える花が変化してゆくのを見るのは楽しい。きれいに花を咲かせるには手入れが肝心なのだろう。が、そこまで丁寧さがないのでさてさてこれからどんな花を咲かせるやら。
ドクダミ草
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月12日日曜日

「神様の木に会う にっぽん巨樹の旅第5弾」を見る

 「神様の木に会う にっぽん巨樹の旅第5弾」を見る。初めに樹齢1900年の「本庄の大楠」が映し出される。この大楠に魅せられた少女は「本庄大楠」として歌にしている。作詞した少女は今や93歳の梶屋邦子さんだ。子供の頃、この大楠を見てすぐに詩が生まれたそうだ。おぐらりょう作曲、鈴木英明編曲で「本庄大楠」として東京混声合唱団が歌っている。

 三重県にある樹齢1500年の「引作(ひきつくり)の大クス」。この大クスはかつて伐採の危機が訪れていた。それを南方熊楠らの尽力でその危機を乗り超えている。

 和歌山県の田辺市の熊野古道・継桜神社に樹齢800年の「野中の一方杉」がある。90本あった内9本が残った。そのうちの南にある熊野那智大社を慕うように枝を伸ばしている杉があり、一方杉と呼んでいる。南方熊楠は生態系(エコロジー)からも巨樹は自然の中で生かされている、巨樹はその象徴と著している。

 青森県に樹齢1000年の「関の甕杉」がある。巨樹のふもとで人骨が見つかったことから元々は菩提樹として安藤氏一族を守っていたようだ。そのそばに供養塔が42あり安藤氏一族の供養塔では、と言われている。

 岐阜県の大湫町に「神明神社の大杉」がある。幹回り11m、高さ60mほどある巨樹。この巨樹が2020年の災害で倒木した。この木を救う運動が始まり700万円ほど集まる。地域の人々の協力で高さ5mに幹を切って注連縄を飾ってご神木とした。なんとその重量は35t。倒木後に専門家によって樹齢650年と判明。倒れた根を見てそれがわかったそうだ。巨樹の年輪から長年の気候変動もわかかるという。

 長野県には樹齢300年以上、幹回り1.3m以上の「大鹿村のブナ」2本がある。ところがリニアの鉄塔工事で伐採の憂き目に遭った。が、辺り一帯は伐採されて何とかこの2本だけは残された。とはいっても洪水になれば根元の土が流れる心配があると専門家はいう。

 長崎県山王神社には幹回り6mと8m、高さはそれぞれ20m以上もある樹齢600年の大クスがある。先の戦争で長崎は原爆した。ただ、この2本の木は幸いにも幹だけを残した。被爆から2か月後、新芽を出す。生き延びたクスノキを被爆50年後に調査するとかなり木は弱っていた。被爆であいた幹の穴を見ると釘や石が入っている。それを取りだして調べると放射能が検出され、幹から腐生根が出てきたが今では元気になっている。

 日本には各地に巨樹が見られる。その巨樹にさわると神が宿っている気がするし元気になる気がするとか。どの巨樹でもいいから会いに行ってみたい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月11日土曜日

球団名

  明け方4時ごろ、大きなモーター音がして目が覚める。冷蔵庫が壊れた?と思って近づくと変な音は聞こえない。外から聞こえる音かも、と思って外を見ると我が家の近くに車が止まっている。爆音の犯人は車、と思い直して再度眠る。次に目が覚めたときはバケツをひっくり返したような雨が降っている。音を気にしながらも起きるには早いと思い直す。この様子だと近いうちに梅雨入りしそうだ。

 「街道をゆく」シリーズのテレビ再放送が始まって以降、放送に並行して放送回の『街道をゆく』を読んでいる。一週間に500頁余りある『街道をゆく』を1冊読み終えようとすると読むことで毎日が忙しい。そこで思いつく。カープの試合があるときはカープが攻めているときにテレビを見て、守りはミュートにし、その間、本を読む。結構、これでも本に集中できる。ずっとテレビを見続けるのは草臥れる。2日ほどこのやり方で野球を見ている。

 プロ野球は明日まで交流戦の試合がある。セリーグの野球ではBS12 で野球を見ることがない。ましてやパリーグの試合は見ない。が、交流戦のパリーグとの試合はBS12で見た。見ながら余計なことが頭をかすめる。それは古葉監督の時代にカープが優勝したとき闘っていた阪急ブレーブスである。このブレーブスの意味は何?と突然思いつく。電子辞書で調べるとフランス、イタリア、スペイン語の”brabo”より、とあり、勇敢な、凶暴な、が原義とある。

 球団名は動物の名が多いがブレーブスは違っている。球団にとって強そうな名をつけていたのだろう。ファイターズも動物ではなさそうだ。さらに千葉ロッテはマリーンズ。千葉が海に面しているから海兵隊!?

 いずれにしてもカープが一番かわいい。鯉!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月10日金曜日

『司馬遼太郎について』

 この本は「司馬遼太郎」がずっしり詰まった一冊の本である。司馬遼太郎に携わった人々との対談やその人たちの執筆、なかでも「街道をゆく」を共にした人たちの言葉が多い。読み始めから読み終えるまで感動し、時に涙を流して読んだ。

 最後に記したツエベクマさんのくだりは本当にそうである。司馬作品にハマったのは3年半前に出かけた大連の旅からである。ところが家にある司馬作品を探しているとツエベクマさんの『草原の記』や『街道をゆく』など10冊以上司馬作品を買って持っていた。が、買った当時は今ほど作品にハマっていなかったのか、『草原の記』以外は読んでいないようだ。先日、「街道をゆく」のモンゴル紀行を見てツエベクマさんを思い出す。すぐに図書館で借りて『草原の記』を読むと、文庫で発売された当時の『草原の記』を買って読んでいた、と気づく。それくらいツエベクマさんのことは覚えていた。が、今回、再度読み返すと以前とは読みごたえが全く違う。人生の機微が年老いてわかってきたのかもしれない。そして一連のツエベクマさんの本を読んで改めて司馬遼太郎とツエベクマさんの素晴らしい関係を知る。

 以下は『司馬遼太郎について』サブタイトル「裸眼の思索者」(編者NHK出版 1998年第3刷)から気になる箇所をメモしたもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★歴史の中に、ほんとうに惚れ込める人間像を見いだす。これが司馬さんの小説のそもそもの出発点になるわけですから。(尾崎秀樹)(22p)

★人間的な魅力というのは、もう司馬さんの小説の中にも、その面白さ、魅力というのは溶け込んでいますけれどもほんとうに私たちを相手にしても話を逸らさないで、わかりやすく、いろいろなことを語ってくれました。……私は、その歴史の中の人間の魅力というのは、同時に司馬さんの人間的な魅力でもあったというように重ねて思っているのです。(尾崎秀樹)(24p)

★その大尉の「戦場での体験は、彼を一人の夢想家に変えた。いや正しくは、歴史という使者の国の旅人にかえた」(傍点は発言者)(注:傍点が打てないので下線で入力)とあります。私は、この修辞は、司馬先生ご自身を指しているかのように思えるのです。その後の小説作法を暗示しているように思われるのです。これは、司馬先生という「歴史の旅人」の一貫した姿勢であり、メッセージではなかったでしょうか。そして、『草原の記』という詩のような、絵のような、司馬先生の”美学と心”を籠めた小説で終わることになります。私は妙な読み取り方をしているかもしれませんが、この感動的な作品は、虚空の国(司馬先生のことばです)に旅立って行った司馬先生が、私たちに遺してくださったラスト・メッセージではないかとさえ思うのです。「希望だけの人生」「希望の人生」は、この本の主役のツエベクマさんのものであり、ひょっとしたら司馬先生のものでもあり、そして日本人を勇気づける”人生の書”ではなかったでしょうか。そんなことを思っています。(道川文男 NHK出版)(81-82p)

2022年6月9日木曜日

オホーツク人

 BSの『街道をゆく』から「オホーツク街道」選を見る。オホーツクにはかつて狩猟民族であるオホーツク人が500年間住んでいたが今は姿がなくなる。オホーツク人の存在はこの番組で初めて知った。司馬が訪れたのは秋。サンゴ草で一面真っ赤に染まった海原が見える。一度はサンゴ草を見てみたい、と思いながらテレビを見る。網走川の沿岸でモヨロ貝塚が発見された。この人骨を発見した人は米村喜男衛という21歳の理髪店主で昭和59年、89歳で亡くなる。米村氏は終生をオホーツク人の発見に費やした。人骨の発見はアイヌ人とは違って背が高く、オホーツク人の存在が明らかになる。また貝塚から見つかったものにオホーツク人が持っていたと思われる銛や牙偶から着ていた服などがわかってきた。
 
 一行は常呂(ところ)町へ向かう。オホーツク海はオホーツク人の海と言われる。海のそばには雑木林がありオホーツク海沿岸に住む熊像とアイヌによるイヨマンテの関係がわかるとか。樺太アイヌは北海道常呂町に移住。ここには藤山ハルというアイヌ語を話す人がいた。ハルさん亡き後、アイヌ語は廃れた。が、ハルさんの話すアイヌ語のテープが残っている。

 次に一行は冬のオホーツクである枝幸(えさし)を目指す。枝幸の雪の下にある雪原にはオホーツク人の遺跡がある。この遺跡からは蕨手刀や帯金具などが見つかった。これらはオホーツク人がアザラシと引き換えに手に入れていたものだった。

 一行はクッチャロ湖へ。ここは白鳥の日本での最初の中継地である。山内昇氏は営林署勤務の傍ら水鳥に餌をやる。餌を与えすぎると水鳥は長くここにとどまるという。一行は宗谷岬へも行く。間宮林蔵がたどった道を訪ねる。間宮林蔵のたどった道は司馬に言わせると「韃靼人街道」とか。宗谷岬からは少数民族が暮らすサハリンが見える。オホーツク人はこのサハリンからやってきた。

 そして知床半島へ。日本は縄文文化の国。だが、北海道は縄文文化とともにオホーツク文化も入っていた。

 番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化! 5世紀から数百年間、北海道の沿岸に暮らしていたオホーツク人とは?謎の海洋民族の痕跡を訪ねて網走から稚内、サハリンへ」とあり、さらに昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた「街道をゆく」▽サンゴ草で赤く染まる湿原!実りの秋▽重要な遺跡『モヨロ』を発見した理髪店主▽牙偶『オホーツクのヴィーナス』▽アイヌ文化への影響は?手がかりを求めて▽残された樺太アイヌ語の音声テープ▽本州や大陸との交流を示す出土品の数々▽サハリンで暮らす北方少数民族▽消えたオホーツク人の正体は?▽1999年放送の番組がよみがえる」ともある。

 図書館で早速『街道をゆく』(三十八)「オホーツク街道」を借りる。この本もせっせと読まねば……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月8日水曜日

『街道をゆく』(三十五)「オランダ紀行」

 BSで再放送されている「街道をゆく」シリーズは今夜もある。今夜は「オホーツク街道」。番組と並行して司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んでいる。「街道~」のテレビを見るは、本を読むは、で忙しく過ごす日々だが、これもリズムに乗った生活になるので体にとってはいいことに思える。日中はテレビを見ないで本を読み、夜は本を読まずにテレビを見る。が、プロ野球で推しメンが出場しない試合では夜であっても本を読む。昨夜はそんな夜でかなりの頁数を読んでいた。

 以下は先日読んだ『街道をゆく』(三十五)「オランダ紀行」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1993年第3刷)から気になる箇所を抜粋した。オランダといえばゴッホ。この本によると司馬遼太郎夫妻もゴッホが好きだったようだ。このなかに「自分自身に正直であれば、言葉は沸くように出てくるものである。ゴッホの場合、どのことばも、いきた自分の皮膚や被膜や内臓を切りとったものであり、ついにことばを言うことがもどかしいあまり、現実に耳を――生の肉体を――切りとるまでのことをした。(365p)」とある。

 なかでも「自分自身に正直であれば、言葉は沸くように出てくるものである」に惹かれる。これはゴッホだけでなく司馬遼太郎自身にもいえるのかもしれない。どういっても莫大な量の本を書いている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★オランダの国としての正称はネーデルランド王国で、オランダというのは、低地の一部であるホーラント(Holland)州からきた通称である。日本語のオランダは、当時日本に来ていたポルトガル人が、ホーラントを訛ってオランダとよんでいたことに由来する。(30p)

★オランダでは、ニシンという食べものは、儀礼の対象でさえあった。春一番に獲れたニシンを、江戸っ子の初鰹のように縁起物として食べ、その食べかたも、古式(?)にのっとり、シッポをつまんで、大口をあけて、ほとんど生で賞味するのである。春一番のニシンは女王陛下にも献上する。(119-120p)

★敷石の上を歩きながら、ティルさんに、”この敷石(ブロック)のことを「赤ちゃんの頭」というそうですね”ときくと、はい、そうです、キンダーコップです、と教えてくれた。(144p)

★私は、フランスの小説で、観念がすきならサルトルを読めばよく、人間の普遍的課題がすきならカミュがよく、いっそ人間そのものが丸まるごと好きならシムノンがいい、と思っている。(215p)

★オランダが百敗するのは当然で、人口が少なすぎたのである。それに平地がほとんどで、スイスのような天嶮がないため、寡をもって衆にあたることの不可能な国だった。(299p)

★”あいつはベイラントのようなやつだ”というふうに、人間の一典型としても、この人名はつかえるのである。十六、十七世紀は人間の典型をさかんに生んだ時代であるらしく、たとえばセルバンテス(一五四七~一六一六)がドン・キホーテを生み、シェイクスピア(一五六四~一六一六)がハムレットを生み、芸術作品ではないにせよ、オランダの独立戦争はベイラントを生んだ。この三つの典型のなかで、ベイラントがもっともおそろしく、強くもあり、同情を寄せがたい。(337)-338p)

★資本主義は人類に、自由と個人という二つの贈りものをした。自由と個人は、経済活動のなかでは、前時代にはなかった高エネルギーをもっている。……いまは宗教の時代ではないが、資本主義には強烈な倫理性が必要があることにかわりがなく、”ベイラント現象”をふせぐことが市場原理をまもることの第一条件であることに変わりはない。(338p)

★ゴッホの絵は、楽しさとはべつのもののようである。と、いって、思わせぶりな陰鬱さはない。明暗とか躁鬱とかいった衣装で測れるものではなく、はね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、ついにじみ出てしまう人間の根源的な感情がある。それは「悲しみ」というほか、言いあらわしようがない。……どうもかれの悲しみは、人として生まれてきたことについての基本的なものである。むろん、厭世主義や悲観的なものではなく、いっそ聖書的といったほうがよく、このためかれの悲しみは、ほのかに荘厳さをもち、かがやかしくさえある。ゴッホの芸術の基本は、そういうあたりにあるらしい。(361p)

★「この世はこのように楽しい」と、黄金の十七世紀レンブラントは描きつづけたが、十九世紀のゴッホは、衰弱したオランダのように悲しいのである。むろん、ゴッホの悲しみは国家の盛衰と関係ない。(363p)

★わざわざ言うまでもないが、私はゴッホの絵がすきである。その絵が好きになる以前、むしろ書簡集に打たれた。……赤裸が――正直といってもいいが――かれの文章を生む核になっている。……自分自身に正直であれば、言葉は沸くように出てくるものである。ゴッホの場合、どのことばも、いきた自分の皮膚や被膜や内臓を切りとったものであり、ついにことばを言うことがもどかしいあまり、現実に耳を――生の肉体を――切りとるまでのことをした。(365p)

★最初に読んだのは、昭和二十七年(一九五二)刊、小林秀雄『ゴッホの手紙』(新潮社)で、つぎは硲(はざま)伊之助訳の『ゴッホの手紙』上・中・下(岩波文庫)であり、最後に圧倒的な感銘を受けたのは、『ファン・ゴッホ書簡全集』(みすゞ書房)全六巻であった。(370p)

★「私は、ゴッホになる」と、狂躁しておもったのが、青森市の裁判所の給仕をしていた十七歳の棟方志功(一九〇三~七五)だった。平凡社の『大百科事典』のみじかい記述のなかにも、「ゴッホの絵に感銘し、画家を志す」とあり、「ひまわり」一点が世界美術史のなかで、特異な位置を占める版画家をうんだのである(棟方志功伝については、長谷部日出雄氏の『鬼が来た』という精密な作品がある)。(442p)

★かれの生前、伯父のフィンセント・ファン・ゴッホは、――かれの絵は奇異だ。と、おもったろう。奇異さが理解をはばんだ。ところが死後、ひとびとの目からウロコがおちるように、ゴッホにおける”奇異さ”がはずれた。ゴッホの名声が死後において発生したのは、そういう理由による。くりかえしいうが、”奇異”が外れると、いきなりゴッホの絵が生命の哀しみの表現であることが、ひとびとによって理解された。(445p)

★木の名前というのはおかしなものである。マロニエといえばパリのにおいがし、馬栗(ホース・チェスナット)といえば英国の芝生を感じ、トチといえば、縄文のにおいを覚えたりする。私はシーボルトがもち帰ったという日本のトチの大樹を仰いで、旧知にであったおもいがした。(477p)