先日来から読んでいる『大盗禅師』(司馬遼太郎 文藝春秋、2003年第4刷)をやっと読み終えた。読み始めは読むと言っても字面を追っている感じで意味もよく分からずにいた。ところが読み進むにつれて面白くなる。以下は、気になる箇所をメモしたもの。これを読み終えて次は司馬遼太郎が直木賞を受賞した『梟の城』を読む予定でいる。その本は今、図書館に予約中。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★「廻国者」(かいこくもの)という、そういう言葉が、肉声でひびいてくる。そのことばは、かつて金井半兵衛が仙八に教えた。幕府は、廻国者という諜者(ちょうじゃ)を諸国にまわらせているという。(あれは、半兵衛のいう廻国者ではないか)ちなみに徳川幕府の一性格は、密偵政治であったということがいえるであろう。鎌倉幕府にも織豊政権にもこの性格はなかった。徳川家とその官僚が創始した。時代によってそのやり方はさまざまにちがう。この仙八が生きた時代である徳川初期よりも以後の、将軍吉宗の代にこの方法がしきりにつかわれ、吉宗自身がその諜報組織を掌握して諸大名の内情をさぐらせ、統御上の資料にした。吉宗以後はこの制度が衰え、多少の消息を経て幕末までつづく。(84p)
★人間は、人間関係で生かされている。妙なやつにかかわりあうな、かかわりあえば、その妙なやつの妙な活力に禍されておそるべき運命に堕ちてしまう。それを予知してひらひらと避けて生きるのが兵法というものだ、という意味のことを亡父が仙八におしえ遺したが、その遺訓でいう妙なやつというのが、(この眼前の折助のような男ではあるまいか)とおもわれた。……この由比正雪と名乗る折助は視線をゆるゆると遊ばせたまま、さほどのことをいうわけでもない。が、たまになにかいうと、半兵衛も仙八も電光に撃たれたようにびくりとしてしまう。たとえば、「世の中のことはすべて気の迷いさ。徳川幕府がえらく見えるというのも人間の気の迷い、錯覚。正気にもどれば、そのあたりの野小屋でもあるかのようにわずかの風に吹かれて飛ぶ。からからと飛ぶ。あとは芒(すすき)の原」……要するに権力というのは世間の錯覚から成立している、と折助は説く。徳川権力というのは、関ヶ原盆地におけるわずか五、六時間のたたかいの結果、あっという間に成立したが、「その徳川家康が、関ヶ原において絶対の強であったか。そうおもうか」――どうだ。(100p-101p)
★折助の銀平。という名称は、この稿以後、この物語では消してしまわねばならない。「由比正雪」ということにしよう。(128p)
★禅師の足もとに、犬が絡みつつ歩いている。「人間の利口より、犬の愚の方がはるかにましさ。仙八」とよび、「おまえは正雪の道具になると約束したそうだが、その料簡はまちがっている。わしの犬になれ。孔子は忠(まじめ)を尊ばれた。しかし人間は忠ならず、天がうんだいきもののなかで、忠にして実なる魂をもつものは犬だけだ」という。……「考えてもみろ」と、禅師はいった。「天下をくつがえしてまるまる盗みとろうという仕事をやるのには、みなが犬のような忠実さでわしに仕えぬかぎり、できぬことだ」「すると正雪は?」「あれは猫の性(しょう)らしい。飼い主につくすよりも身のほうが可愛いというやつだ。……そこへゆくと、仙八は」「犬ですか」仙八は、闇のなかで苦笑した。(246p)
★日中の熱気は、堪えられたものではない。このながすぎる航海が、仙八の意識をひどく単純にした。――鄭成功に会う。という、ただそれだけのことしか自分の生存の目的が考えられぬ人間になってしまった。それが蘇一官のねらいでもあったのだろう。(298p)
★隆(たかい)鼻、するどい目、赤樫の材をみがきあげたような頬の色、仙八はこれほど精悍な容貌をみたことがない。それが、顔いっぱいで笑っており、やがて仙八の前にきて手拱(こまね)き、儒礼による敬礼をした。「鄭成功でござる」おどろいたことに日本語である。(304p)
★秋から冬にかけて、仙八は鄭成功とともに各地に転戦した。清軍は、日に日に南下している。かれら北方の騎馬人はかつて自分の種族の名前を、「女真(じょるちん)」とよんでいたが、征服事業がすすむにつれて、「われわれはマンジュである」と改称した。漢民族はその発音に満州という文字をあてるようになった。改称の理由は、政治的なものであろう。かれらは長城のむこうの東北地方(満州)で半農半牧をいとなみ、ときに集団をくんで長城のむこうを侵し、そのため漢民族からきらわれ、怖れられ、「女真」という種族名はあたかも強盗、悪人、無法者という印象(海からやってくる倭寇もおなじ印象だが)をあたえつづけてきたが、いまこの中国に大帝国をたてようとするにあたり、その悪印象をぬぐうために「マンジュ」に変えたのである。この種族は、むかしからどういうわけか文殊菩薩を信仰していた。文殊とは知恵のホトケであり、かれらにすれば侵略者でなく平和をもたらすホトケの軍隊であることを印象づけたかったのであろう。もっとも漢民族は底意地がわるく、これに文殊をあてず、満州の文字をあてた。(327pー328p)
★「父上はどこに在(おわ)す」「清軍の陣営に」と、崑崙奴は答えた。清軍の陣営で鄭重に遇されているという。しかも、鄭成功にも自分に同ぜよ、清軍に降(くだ)ってここへ来よ、と言い、そのための自分は使いにきたのです、とこの男はいった。「殺父報国(さっぷほうこく)」という旗幟(きし)を鄭成功がかかげたのはこのときからであり、彼の盛名が日本はおろか、遠く南蛮ににまできこえるにいたるのもこのころからであった。彼は国姓の朱姓を賜っている。みなそれを尊んで「国姓爺(こくせんや)」といった。爺は年齢とは関係のない敬称である。が、鄭成功とその艦隊は、基地をうしなった。(335p-336p)
★武人鄭成功は、この厦門・金門の両島の占領後、「国姓爺(こくせんや)」というそういう通称で日本はおろか世界にその存在を知られるにいたる。日本では「和唐内」という名前でその事歴が近松門左衛門によって脚色された。「国姓爺合戦」がそれである。余談だが、この鄭成功という人物ほど、その死後の歴史のうえで幸福な存在はない。……なまみの人間としてはありうべからざるほどに無私なその義心と、その民族独立の戦いへの強烈な持続精神と、武将としての天才性という三つが、歴史のなかでのかれの名声の鮮度をこうも長くもちつづけさせている要件であるにちがいない。(350p-351p)
★「謀叛も軍学のひとつ」というのが、正雪の持説である。もっとも正雪は謀叛ということばをつかわず、すこしばかり気取って、「易姓革命」ということばをつかった。人民の支配者は天によってえらばれた有徳のものである、もし王に徳がなくなれば天はたちどころに命(めい)を革(あらた)め、他の有徳者に命ずる、というのが古代中国の革命思想だが、正雪はこのことばをこのみ、「殷の湯(とう)王も周の武王も、ともに悪王であるであるその主君を伐ってこれにかわったが、いずれもこれはむほんではない。天命が革まったのである。漢ノ高祖劉邦もおなじで、沛(はい)の田舎町から身をおこして兵をあつめ、関中を攻め入って秦帝国の大軍をやぶり、それをほろぼした。すべてむほんではない」――むほんこそ。と、かれはいう。最高の軍学である、と。正雪の戦争学によれば、最高の戦争とは革命戦であるということになる。(417p-418p)
★先頭を、禅師が歩いている。――おれは天下を盗む大盗だ。……禅師はもはや日本謀叛にとって無用のがらくただし、もし正雪の乱がおこれば幕府もすてておかないであろう。(497p)
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