2022年6月7日火曜日

「風景画のはじまり コローから印象派へ」を見に行く

 ひろしま美術館で開催中のランス美術館コレクション「風景画のはじまり コローから印象派へ」を見に行く。美術館へはお天気の良い日よりも雨の日がいいとか。それは雨の日は見に行く人が少ないからだ。雨の日、といっても朝にはほぼ雨も止んでいた。コロナ禍の今、どこへ行くにもそのことが気になる。

 日本画教室で風景を描いている。その始まりの展覧会、とあっては見に行かざるを得ない。久しぶりのひろしま美術館だった。が、相変わらず雰囲気がいい美術館で気持ちも落ち着く。コローはジャン=バディスト・カミーュ・コローと長い名前だ。眼をひく絵は「湖畔の木々の下のふたりの姉妹」とタイトルがつく絵である。大きな木の間にたたずむ姉妹が小さく描かれている。

 もらったチラシによると西洋における風景画は19世紀以降に認められるようになった、とか。それまでは歴史や神話の場面に背景として風景が描かれたそうだ。今回の展示では主に各地を旅して風景を描いたコローとモネに戸外制作を教えたことで知られるブーダン、他にコローの師の世代や自然に魅了されたバルビゾン派の画家たち、そしてモネ・ピサロ・ルノワールの作品が展示されている。

 特別展を堪能後、コレクション展を見る。ひろしま美術館が今回の特別展とは違って美術館が所蔵するモネの「アムステルダムの眺め」、そしてゴッホの「ドービニーの庭」などの展示がある。ゴッホは好きな画家なので展示の絵は目を見張るものがあった。

 ひろしま美術館は市内のど真ん中に位置する。が、一歩、美術館内に入ると静かな佇まいで落ち着く。お昼はさてどこで、と思った。が、美術館内のカフェは人も少なく居心地よさそうだ。さらには期間特別メニューの「2種のタルティーヌ」などがある。これがどんなものかわけもわからずメニューに惹かれてカフェに入る。説明書きを見ると「フランス式のオープンサンドと近代フランス料理の父・オーギュスト・エスコフィエが考案した桃とアイスのデザートをお楽しみくださいとある」。これと珈琲でお昼となった。

 カフェから外を眺めると新緑に映える木々がとてもきれい。どういっても美術館の中庭は俗世間から遮断されたつくりになっている。これがこの美術館の建物の特徴かもしれない。美術館横には中央図書館がある。この場所も最高の環境にある。ところが今、図書館の移転問題でもめている。個人的には中央公園内にある美術館と図書館はここに置くべきと思うがさてさて行政の考えは!?

 自宅最寄り駅に着くとJRの高架化でバリケードが張り巡らされている。バリケードは広島駅から自宅最寄り駅までの区間、張り巡らせている。仮設線路をつくって高架化にそなえるようだ。これは長年の計画で自分が生きているうちに完成するかどうかは怪しい。ともかく、広島駅も建て替わっているし、図書館も移転先云々でもめている。さらには広島駅から東方面の高架化で辺りを見渡すと工事だらけだ。

 帰宅後、『文藝春秋』4月号を読む。石原慎太郎が65年前に芥川賞を受賞した『太陽の季節』を読んだ。当時のままで掲載されている。文字は旧字体で慣れぬ文字を読んでいく。読めない文字もある。が、その時は電子辞書で調べて読む始末。65年前の恵まれた若者たちの生きざまがこの本でよくわかる。古さを感じさせない内容だった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月6日月曜日

講演会に思う

 月遅れの『文藝春秋』4月号を読んでいる。先日亡くなられた石原慎太郎の絶筆「死への道程」などの特集がある。また石原慎太郎が芥川賞を受賞した『太陽の季節』の掲載もある。それは受賞当時そのままでの再掲だ。もちろん印字もそのままである。興味深いのは受賞した『太陽の季節』の再掲と同じくらい、当時の状況がうかがえる「昭和三十一年度文化講演會開催について」がある。頁の下部には小見出しで「講演會創始の頃」として当初の講演会の様子がよくわかる。

 それによると文化講演会は大正十二年に旗揚げしたらしく講演者の一覧がすごすぎる。3組に分けて19名の文化人の名がある。そのうち数人は初めて聞く名前だが他の人は有名な作家たちである。

 文化講演会と言って思い出す。若い頃は著名人の講演会、それも無料で開催される講演会をよく聞きに行った。その中に文藝春秋の講演会があったかもしれない。無料であっても著名な作家たちの講演であり、聞きに行くのが好きだった。五木寛之、瀬戸内晴美など何度も聞きに行った。初めて聞いた著名人はたぶん20代前半の頃に出かけた五味康祐氏の講演だったと思う。出版関係でない講演会としては人に誘われて某金庫メーカー主催の講演会にもよく出かけた。この主催の講演会は一流ホテルでの講演の後、講演者も含めた立食パーティがあり、それは豪華そのものだった。これも無料である。もしかしたらバブル全盛期の頃だったかもしれない。その時は留学生の支援が目的の講演会だった。

 当時の留学生は国を背負ってきている人たちである。その点で言えば今の留学生とは少し趣が違うかもしれない。その時の講演者として一番に思い出すのは森本哲郎氏である。写真を一緒に撮っていただき本にサインをしてもらった。その頃の講演者は作家というよりも思想家というか外国通の専門家の先生方が多かった。

 いまどきの講演会は世知辛い世の中になったのか、無料の講演会が少なくなった。時によってはネットでの開催であっても費用がかかる。

 今思い出した。最近は先の某大手金庫メーカー主催の講演会が年に1度ある。これは以前の講演会とは趣が異なりコロナ禍での開催は中止となっている。が、養老孟司氏や清水寺などの管長の講演などがあった。

 ほかにも思い出す。それは万博公園内にある民博の講演会である。アジアに目覚めたころ、民博の友の会会員になっていた。その主催の記念事業で泊りがけで大阪の講演会に出席。当時、すでに眼はご不自由になられていたけれどもお元気だった梅棹忠夫氏の講演を聞いたこともあった。フットワーク宜しくあちこちとよく出かけたものである。

 近年では美術館内での講演会を思い出す。池内紀氏の講演会に2度ほど出かけた。市内の某美術館の開催だ。この方にもサインをいただいている。

 今日は小雨が降ってパッとしないお天気だ。ひろしま美術館で「風景画のはじまり コローから印象派へ」が開催中。期間中に絵を見に行こうと思っている。さてさてそれはいつ!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月5日日曜日

「中国王朝『悪女』たちの素顔」を見る

 久しぶりにBSで興味深い番組を見た。それは「中国王朝『悪女』たちの素顔」である。そこには「 中国王朝 英雄たちの伝説『悪女たちの裏切り』」があった。番組HPによると「中国で相次ぐ新発見から探る『悪女』たちの素顔。漢王朝を建てた劉邦(りゅうほう)の妻呂后は、夫の愛妾(あいしょう)の手足を斬り目と耳を潰し『人豚』とする残虐で知られる。だが、近年発掘された法律文書は社会への貢献を伝える。実は良妻? ラストエンペラー溥儀の二人の妻。婉容(えんよう)はあへんに溺れ不義の子を出産、文繍(ぶんしゅう)は皇帝に対し初の離婚訴訟を起こす。なぜ夫を裏切ったのか? 溥儀の側近の新証言から意外な真相が。戦争の時代に翻弄された哀切な人生が浮かぶ」とある。

 1968年、中国で民間人によって「呂后之爾」の印が発見された。漢の皇帝劉邦の皇后である呂后。それから2000年後に中国文化大革命が起き、毛沢東夫人の江青は陝西省博物館に保管されていたこの印を持ちだして8年間も持っていた。そこには江青が呂后の権力にあやかろうとしたことがうかがえるという。

 呂后は謀略を劉邦に知らせずに進めた。劉邦の死後、皇帝に恵帝がつく。呂后は腹違いの子、趙王を毒殺によって死に追いやった。恵帝も呂后のやり方に参って死ぬ。この後、呂后は2年半人質になる。劉邦は戚夫人(せきふじん)を愛した。劉邦の死後、呂后は戚夫人を人豚と呼ばせて残酷に扱った。

 1984年、漢の時代の墓が発見され、二年律令が見つかる。これは呂后が発令した。それは「民に優しく官に厳しい」ものだった。漢の時代は漢字や漢民族など漢で表し、劉邦ができなかったことを呂后は行った。呂后は劉邦が死ぬと次はだれ?と問い詰めた。呂后は二年律令にもあるように「国を安定させようとした人」だった。それなのになぜ悪女となったのか。そこには女性が権力を持つことは国を乱すとの考えがあり、また儒教の教えがあった。

 時は過ぎて溥儀の時代である。溥儀には2人の后、婉容と文繍がいた。この2人の死はどこでいつ亡くなったかさえ不明である。ともに夫への裏切りだけが残った。王慶祥氏の研究によると溥儀と2人の妻は世界へつながる皇室が希望だったという。北京政変で紫禁城を追放された溥儀は天津へ向かう。その7年後、まだ23歳と若い文繍は溥儀に離婚を要求し、家を出る。天津時代、3人は同じ家に住んでいたが家を出て50日後に離婚は成立。文繍の最大の夢は「自由」になることだった。婉容はアヘンにおぼれ、側近との密通で転落の道へ。溥儀は文繍がいなくなった原因を婉容のせいだと思い、婉容を遠ざけた。その矢先に信頼していた側近2人による密通があった。溥儀は次々と年若い第二夫人を迎えるが後継ぎはのぞめなかった。原因は溥儀にあった。

 溥儀は1964年に『わが半生』を出版。その中には婉容と文繍を悪女と書いている。本は売れて2人の悪女は世間に広まった。その後、溥儀と離婚した文繍はお店を営んでいたらしく40代の若さで極貧の生涯を終える。が、生涯、溥儀の眼鏡を肌身離さず持っていたという。その眼鏡は今、博物館にある。2009年6月の調査によると「本当は強く優しい女性たちの姿があった」という。

 何事も理由なく当事者のその一方だけが悪いことはない。「女性が権力を持つことは国を乱すとの考えがあり、また儒教の教えがあった」ようだが、この考えは今も少しはあるように思えるがどうなんだろう。

 話は変わって昨日は日本画教室の日。テレビに夢中になってすっかり絵の話題をわすれていた。相変わらず樹木を描いている。いつもは60色ある水干絵具を使用している。が、教室にある岩絵の具で彩色を、との先生の言葉で岩絵の具を使う。岩絵の具の方が水干絵具よりもいいらしい。とはいっても初めに購入した水干絵具をこれから先ずっと使い続けても使い切れないくらいある。ただ、数少ないが数本だけ少なくなる色もある。それは皆さんも同じらしい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月4日土曜日

『街道をゆく』(三)「肥薩のみち」

 一週間ぶりに図書館へ行く。向かう場所は司馬遼太郎の紀行の書架だ。先日、発行年を書き忘れていた「南蛮の道」(一)を見る。次に一昨日放送の「街道をゆく」選から「白河・会津のみち」を借りる。ふと『街道をゆく』シリーズの横に目をやると『司馬遼太郎の風景』のタイトルで、これまたシリーズがある。これらの本はテレビで再放送されている「街道をゆく」取材班の書いた本のようだ。これも番組にあわせて読みたい。と、思うが、まずは司馬の『街道をゆく』シリーズを読むことにした。

 このシリーズを読んでもそうだが、司馬作品には引用や参考文献がいたるところで見られる。この中から時に読みたくなる本も出てくる。限りある人生の時間、読みたい本が次々とあってはボケる暇がない!?そうなれば本のお陰で元気といえるのかもしれない。司馬作品をせっせと読もう!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『街道をゆく』(三)「肥薩のみち」(司馬遼太郎 朝日新聞社、1997年第20刷)から気になる箇所をメモしたもの。

★要するに熊襲(くまそ)の国から隼人の国へゆくのである。(139p)

★「肥後モッコス」と、よくいわれる。……肥後人のモッコスには、中世の肥後の地侍たちが中央の掣肘をうけたがらない気分が濃厚であったように、自前の美田をかかえこんで誰に頭をさげる必要もないという自信が裏付けになっているようにおもえる。美田が江戸期以降は教養になった。自説をあくまでも曲げないというのが細川侍・肥後武士の一徹さで、明治初年の神風連の乱から自由民権運動の最盛期にかけての一時期に、「肥後はなにぶん一人一党だから」などといわれたりした。モッコスは要するに空っつね(注:肉月偏に当。漢字入力できない)でなく、蜂の巣の城主のように田畑山林があるか、それとも明治期に大量に排出したジャーナリストたちのように教養があるか、いずれにしてもそういう肉の厚さが重要な組織要素になっているらしい。一徹型で有名な土佐のイゴッソウともニュアンスがちがうのである。(140-141p)
                                                                                                                                                 ★西郷とその麾下の意外な敗北によって一挙に拠りどころをうしない、その敗北は日本国に史上類がないほどに強力な官権政府を成立させるもとになった。あるいは西郷の敗北は田原坂にとどまらず、こんにちにいたるまで日本の政治に健康で強力な批判勢力を成立せしめない原因をなしているのではないかとさえおもえるのだが、あるいはそうではなく、律令時代もさらには徳川体制下においてさえ無言の批判勢力でありつづけた薩摩という独立圏が、明治政府という中央集権権力の出現によってついに消滅せざるをえなくなった、ただそれだけのことであるともおもえるのである(158p)

★日本歴史というものは国内統一する場合に英雄が出る。源頼朝、織田信長、前期の豊臣秀吉、そして徳川家康、あるいは倒幕革命政略における西郷隆盛といったような、他の国の歴史の類型のすくない人物が出るが、この民族の歴史にまれにあらわれる海外への膨張気運のおこる時期には、その時期の好戦的指導者はかならず凡庸なお調子者にすぎなかったという実にふしぎな法則をもっている。戦後の日本の社会科教科書はヒトラーやムッソリーニを呪い嘲るが、しかし、ヒトラーやムッソリーニにすら持たずにそれとそっくりの似たまねをした昭和前期の日本というもののふしぎさを解明した教科書があるだろうか。(194p)

2022年6月3日金曜日

CD処分

 夕方、網戸の張替が終わって業者が来られた。網を張り替えただけでなく枠のサッシもきれいにしてくださっている。きれいになった網戸を見るとなぜ早く張り替えなかったのかと悔やまれる。今回の張替は電気屋に頼まず、自分で業者に依頼した。変な業者に関わるのも嫌だし……、との思いが張替を遅らせた。今回の業者は近くに古くからお店を構えておられる。自分では初めて利用した業者だが元は畳屋さん。今は襖や網戸の張替、サッシ、そして水道関係などの仕事もしているという。網戸の張替は網によって価格が変わるとか。

 今回、張り替えた網戸は日差しが強い窓で網が朽ちて交換となった。外壁をリフォームした際の網戸なのでそれほど古くはない。料金は普通よりも倍と高くなるがプレミアムでお願いした。何ごとも終わってみれば一安心。生きている限り人間もガタがくるが家の周りも修理が必要となってくる。安心して頼める業者を知ってよかったと別の意味で安心する。

 一昨日、ゴールウェイのCDを探しているとすぐに見つかった。これはいいのだが他にもたくさんCDがある。今朝はその他のプラスチックのゴミの日。CDを買った当初は気に入って買ったはずなのにこの頃はCDを聴ことはなかった。これを機会に、と要る、要らないを分ける。今朝30枚くらいゴミとして出した。ゴミにするにもそのままでは?と思い直して鋏を入れる。

 手元に残したCDはゴールウェイや今でも聞きたいものと母が最期まで聞いていたものである。これもいつかは処分となるが今は母の思い出にと置いている。

 CDを保管していた棚にアジア塾で学んでいた当時のレポートも保管していた。これも自分が書いた歴史と思って持っていたのだと思う。が、思い切って処分した。塾でお世話になった先生方の添削もある。が、それも振り切っての処分となった。別に終活というわけではないが思い出は残しておいても物は処分するしかない。

 これ等の思い出はすべてブログにアップできれば最高。どういってもブログはモノではないしかさばらない。が、それも古い思い出は簡単にアップできない。せめて日々の生活や思いはここに書き留めて、と思っている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月2日木曜日

「風儀」

 水曜日の夜はBSの再放送「街道をゆく」選を見る。昨夜は「奥州白河・会津のみち」だった。奥州は金の産地だった。この金を仏像に貼って権威とした。東大寺の廬舎那仏も金をメッキしているが時代を経て黒ずむ。白河を巡った司馬は会津若松を訪れる。幕末維新の際、会津藩は軍制改革を行って年齢別に青竜、白虎、朱雀、玄武の4神の名を持つ4隊を作った。少年兵である白虎隊は「風儀」を守り通した。ところがこれが悲劇を生む。

 白虎隊は官軍との戦いで自刃に追い込まれる。自刃は武器を持たない婦女子にも及ぶ。明治元年4月、戊辰戦争後の会津藩の戦死者は雪解けの日までそのままに放置されたという。孝明天皇は幕末の会津藩主松平容保にあてて宸翰(天皇との蜜話・約束)を渡した。もしもこれを容保が公開していれば立場は変わっていたかもしれなかった。が、容保は公開しなかった。今の松平の当主は容保が天皇から送られた宸翰を肌身離さず持っていたと語る。宸翰が画面に映し出される。そこには会津藩の「風儀」の精神が書かれていた。戦いに敗れた会津藩16,000余名は下北半島に移住して斗南藩となった。

 番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!幕末、なぜ会津藩の悲劇は起こったか?そのてん末は?奥州への愛着を抱きながら、歴史が繰り返す非情さを見つめる旅が始まる」とあり、さらに「昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』▽奥州の魅力を福島県白河の関に訪ねる▽『境の明神』にまつられているのは?▽『黄金花咲くみちのく』八溝山の金鉱跡で▽会津藩が守り通した崇高な精神『風儀』とは?▽戊辰戦争、白虎隊士の最期▽女性たちが詠んだ辞世の歌▽松平容保が生涯守り抜いた天皇との秘密▽下北半島で会津藩士の貧窮と屈辱を思う▽1998年放送の番組がよみがえる」ともある。

 明日は図書館が一週間ぶりに開館するので早速、「奥州白河・会津のみち」を借りて読もう。

 今朝は朝から慌ただしい。気になっていた網戸の張替をお願いした業者が先ほど来られた。1枚を、と思ったが気がよさそうな人なので、破れていない網戸もついでにお願いする。小さい事でも人が出入りすると草臥れる。夕方には張り替えた網戸が返ってくるので一件落着となりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年6月1日水曜日

ゴールウエイの動画


 ネット上でアルビノーニのアダージョの楽譜を写してフルートで吹いている。数年以上も前にさらった曲なのですぐに吹けた。が、♩=54とテンポが遅く、またスラーも多い。ゆっくりとスラーを息継ぎせずに吹こうとすれば練習が欠かせない。そんな矢先にフルートの神様であるゴールウエイの動画を見つけた。写譜したのとはアレンジが異なる。しばしこれを聴いていると自分が吹いている曲と同じとは思えないほど素晴らしい。さすがにフルートの神様である。

 まだパソコンがない時代、フルートのレッスンで新たな曲をさらう時、CDを買って曲のイメージをつかんでいた。その当時買ったゴールウエイのCDも家に何枚かあるはず。ところが今やそれすら聞こうとせず、もっぱらYOU TUBE頼みである。フルートの曲がCDに収めてない場合はバイオリンの曲のCDを買って参考にしていた。家にあるCDはどこにある!?全部合わせれば何十枚とあるはず。後で探そう!

 相変わらず司馬作品を読んでいる。ところが図書館で借りた本を読み終えそうだ。今、図書館は整理月間のため休館中。以前、買った司馬作品が家にあるはずと思って本箱を探す。が、書棚に入らない本も別の棚に置いてある。司馬遼太郎の『街道をゆく』は買ったことがある。そう思って探すと文庫本10冊ほど買っていた。『街道をゆく』は「愛蘭土紀行」の1、2は買った覚えがあった。他にも中国方面が3冊、モンゴル紀行が1冊、韓国1冊、耽羅1冊など中国を除いては出かけたことがない国ばかりを買っていた。よほど行きたい国だったに違いない。

 本を探したついでにとちょっとだけ整理する。文庫では「旅」に関する本が多い。シルクロード関係は井上靖、世界の旅は森本哲郎、そして司馬遼太郎の『街道をゆく』などである。今から30数年前後に買った本だ。そのころ如何に海外の旅に燃えていたかがこれらの本を見てよくわかる。

 自分自身、後悔しないことの一つに海外旅行がある。今やコロナ禍の時代、出かけようとしても思うように出かけられない。とはいってもコロナ禍が収まればまだ見ぬ国へ行きたい。この気持ちだけは失わずにさあ今日の行動開始!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!