2024年2月29日木曜日

キャリーケース

 2021年4月に五島列島へ出かけた。近いうち、多分、それ以来となるような旅に出かける。それにはリュックではなくキャリーケースが出番となる。久しぶりにキャリーケースを出してみる。これにはリュックで持って行くには無理と思える量の荷物が入る。一人旅をすると最低限の持物で行く。その癖がついたのかキャリーケースにいれるものまで減らそうとする。我ながらこれがおかしい。

 40年近く前に初めて海外の旅をして以降、これまでキャリーケースを4個買った。いずれもすべてソフトケースでハードなものはない。一般的には海外だとソフトケースは切られる恐れがあるからとハードケースを利用する人がほとんどだ。しかし一度もそういった目に遭ったことはない。なぜソフトケースを利用するのかと問われればすべてはケースの重さを考慮してのことであり、ソフトケースはハードに比べて軽い。一番大きなのは海外旅行の行き初めのころに買ったサムソナイトのケース。今は小さいケースを主に利用している。

 キャリーケースを出すとこれからいよいよ旅が始まる気がする。と言っても海外旅行はコロナ禍前のようには簡単に利用できない。これも住んでいる場所による!?もしも関西や関東に住んでいれば旅行社も多くあり、旅の情報も多いに違いない。ところが広島は以前あった大手の旅行社が撤退し海外旅行に至ってはほとんど募集がない。たとえ募集があっても以前のような辺境の地などはまったくない。と言ってもこの年になって辺境の地へ行くにも大変な気がしてくる。と、何やかや言い訳をして海外に行こうとしない自分がいる。今日は一日中雨のようだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月28日水曜日

電話から

 ネット記事によると若者の電話離れがあるようだ。スマホは終日、お休みタイムに設定し、かかってくる電話にはでないとか。別に電話で話さなくても用が足りるそうだ。これを読んで仕事でかかってくる電話に恐怖感を感じる若者がいる意味がよくわかる。

 どの人もスマホや携帯を持ち、家の固定電話はまるで詐欺師だけがかけてくる電話のように思える。自分自身は老いた身で決して若者ではないが、それでも電話で話すのが面倒なこともある。先日、久しぶりに昔の友だちから家の電話に電話がかかってきた。開口一番、鬱になりそう、という。四六時中、食事をつくるのが嫌なようだ。とはいってもお金はたまるらしい。

 そのころ奈良から帰ったばかりだったので旅行をして楽しんでいる旨、話した。嫌な気持ちが起きる前に行動すれば考えも変わってくる。これは自分にとって一番大事なことなのでなるべく行動するようにして楽しみを見つけている。しかし、人によっては身軽に行動できず、動きに制限がかかる人もいる。気の毒といえば気の毒だがこれも人それぞれの人生。どうやって慰めていいかがわからない。それでなくても人の言葉に影響されやすい面がある。そのためかなるべく嫌な話は聞かないようにしている。が、電話ではそうもいっていられない。

 今朝、メールを見ると姪は今度は台湾へパンダを見に行ったという。仕事で休みができるとあちこちに出かけている。動いている限り気分が落ち込む暇はない。そう思っているので姪のようにあちこちでかけると楽しいに違いない。

 友だちもあちこちでかければ、と思うがそれも言えない。ここまで生きてくると今更悩んでどうする!?残りの人生には限りがある。悩む前に楽しむ、今はそれしか思い浮かばない。せいぜい自分の人生を楽しく過ごしたいものだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月27日火曜日

人からのことば

 地元紙「文化欄」に村木嵐の記事がある。この人は司馬遼太郎のお手伝いをしていたそうだが、司馬が亡くなると奥さんの秘書となっている。村木は生前、司馬から「(君は)才能があるから」、とことばをかけられたそうだ。作品に行き詰ると週に一度はその言葉を思いだすという。

 ウイキペディアでこの人を探すと1995年から司馬家に出入りしている。司馬遼太郎はその翌年の2月に亡くなっている。短い期間であってもいい言葉をかけてもらったようだ。人にとってはことばひとつであっても何が幸いするかわからない。

 話は変わって1週間余り前に日帰り旅で光市や下松市辺りに出かけた。出かけてすぐに最近完成したサッカースタジアムが目に入る。バスの車窓から見ただけだが立派なスタジアムだ。先日の日本画教室に行く際、降車したJR駅はここからサッカースタジアムに歩いて行けるようだ。そのためかサンフレッチェ色の紫で駅改札口やその周辺を飾っている。

 新スタジアムができるまでは同じくこの駅からピストン輸送のバスが広域公園まで通っていた。いずれにしても新旧どちらのスタジアムもこの駅が重要な駅となるに違いない。

 昨日午後3時過ぎ、本を読んでいると地震が発生。日中はほぼ台所にいる。とっさに冷蔵庫に手が行く。大きな地震に思えたが震度3だった。とはいっても隣町が震度4だから4に近い3かもしれない。それにしても地震は怖い。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月26日月曜日

日本画教室へ

 土曜日の日本画教室は先生を入れて3人だった。他の3人はそれぞれ用があってお休み。3時間の教室が始まった。生徒の1人はお昼を食べてこなかったそうで二重焼を買ってきたという。まだ温かい二重焼を絵を描く前に食べようとなった。しかし、お昼を食べてすぐなのでもらって帰る。2人は二重焼を食べながら話が弾む。そのなかに入ってさらに話が弾む。しばし話した後で絵の準備となる。

 不染鉄の絵を見に奈良へ行ったと話すと1人が絵を検索する。描いているのは蓮の絵だ。先生は描く絵が不染鉄の絵とはだいぶ違うと言って笑われる。確かに描く絵は不染鉄の絵とは趣が異なる。が、気に入った人の絵のようにはどういっても描けない。

 蓮の花を白く塗る。白い色は胡粉。前回に何度も胡粉を膠で溶いて塗っている。しかしもっと白さを出すために何度も胡粉を重ねる。胡粉を膠で溶くとき膠が多すぎると発色が悪くなるそうだ。膠を薄く水で薄めて塗ってゆく。

 3人の教室は手よりも口の方がよく動く。人数が少なくても描くのは1人だから休む人がいても関係ない、と先生。そのとおりだがなぜか描く気が起こらない。1時間半が経過してティータイムとなった。奈良のお土産でティータイム。またも話が弾む。

 結局この日は蓮に胡粉を塗るだけで終わった。と言ってもまだまだ胡粉を塗って白くしないといけない。そういえばいただいた二重焼は抹茶入りでこれは初めて知った。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月25日日曜日

奈良の旅その3

 奈良の旅その2から続く。

 2日目 2月22日(木)

 8時、贅沢な気持ちで朝食を美味しくいただく。外に出ると傘をさすほどではないがお天気は良くない。昨夜、バスを降りてホテルに向かう途中、ぐるっとバスのバス停を見つけた。これに乗って奈良県庁前で降りれば奈良県立美術館で開催中の不染鉄の絵が見られる。ホテル近くの奈良市庁舎前のバス停で9時58分発のぐるっとバスに乗ったのはよかった。が、このバスの終点は大和西大寺駅と車内アナウンスがある。ぐるっとバスは循環すると思った。ところが運転手さんに聞くとそうではなく同じバスが10分後に出るという。そしてとなりのバス停で待つようにと言われる。10分後にバスが来た。運転手さんは顔を見て料金はいらない、という。ぐるっとバスの区間内はどこまで乗っても100円。しかし、バスがぐるっと回り続けず、今回のように停車して発車しなおすこともある。それにしても親切な運転手さんだった。

特別展  漂泊の画家 不染鉄~理想郷を求めて
 
 ぐるっとバスに戸惑っていると時間はあっという間に過ぎてゆく。なんとか奈良県庁前バス停についた。奈良県立美術館は奈良県庁の裏側にある。奈良県庁のバス停で2人、降りた。県庁裏に美術館があっても、さてどちらへ、と地理がわからない。一緒に降りた人に聞くと同じく他所から来た人らしくわからないようだ。人が歩く方向について行くと美術館についた。

 入り口で入館料1200円を払って中に入る。が、リュックを預けるロッカーがいっぱいで受付の人が預かってくれた。やっとたどり着いた不染鉄の展覧会には多くの人が来ていた。この人の絵を見るのが旅の目的なので時間を気にせずにゆっくり絵を見て回る。さいわい不染鉄本人に関する解説や絵に関する説明も自分の眼の高さに表示されており、目が悪くても今回はすべての解説文が理解できた。

 不染鉄は僧侶の家で生まれた。もらったチラシによると「郷愁漂う村落風景に始まり、悠然とたたずむ富士の眺望や幻想的な夜の情景へと、遍歴を重ね、深まりを見せるその画境には、過去の思い出とともに、静穏な日々の営みを慈しむ、不染の理想郷的世界が投影されています」とある。

 どの絵を見ても哀愁が感じられ、また心に沁みる絵でゆっくりと見た。この人の生き方は同時代の田中一村や高島野十郎を想起させるとか。この3人の絵は今回の展覧会ですべて見たことになる。田中一村の絵は三次の美術館で、また高島野十郎の絵は数年前に海外旅行の帰りに福岡市立美術館に立ち寄って見ている。近いうち、田中一村の絵を見に離島へ行く予定。

 絵は見るのも描くのも大の苦手だった。それが10年前にひょんなきっかけで日本画を習い始めた。まさか自分が絵を描くことになるとは我ながら驚いている。それが描くだけでなく見るのも好きになるとは……。それも不染鉄、田中一村、高島野十郎という同じような生き方の絵に惹かれるとは、これまた驚き。

 年老いて気に入った画家3人に巡り合えたことは何かのご縁でこれも幸いと思う。
奈良県立美術館不染鉄展覧会チラシ
東大寺
 
 絵を堪能した後は東大寺に向かう。とっくにお昼は過ぎているが、ホテルの朝食をしっかり食べている。あらかじめ東大寺ミュージアムのカフェをネットで調べていた。人に聞きながらもなんとか東大寺についた。東大寺ミュージアムでチケットを買おうとすると東大寺総合文化センター内にあるカフェは自由に入られるという。カフェは茶廊・葉風泰夢でなんともロマンあふれる名前だ。ここで珈琲と菓子のセット(日餅セットあんずホットコーヒー 800円)をいただく。ミュージアムに入る前、受付の人と話した際の親切な応対にも感動した。

 ツアーなどに参加して美術館に入ったとする。その際、そこのカフェに入るのが夢と話した人がいた。確かにミュージアムショップやカフェは洗練されていて夢がある。今回、東大寺ミュージアム内のカフェでゆっくりできてよかった。どういっても前日、17000歩とよく歩いている。少々、足も疲れてきた。カフェで気持ちを充電してその後、鹿たちのそばに行く。

 東大寺へは母たちと出かけたことがある。今回はそれ以来になる。大仏様は覚えていても他はよく覚えていない。大仏殿内は多くの観光客でごった返していた。海外の観光客も多く見られた。

 東大寺南大門を通り抜けようとしたら、足が短くてすぐには出られない。これには我ながらちょっとびっくり。足の疲れもピークに達し、バスに乗ってJR奈良駅を目指す。しかし、バス乗り場がわからない。掃除をしていた人に尋ねてバス乗り場を教えてもらう。ぐるっとバスの標識を見ていると若い兄ちゃんに声をかけられる。どこへ行くのかと聞かれてJR奈良駅、と話すと止まっているバスに乗るようにすすめられる。後でわかったのだが平日はこのあたりのぐるっとバスは休みで祝祭日に動くようだ。そのこともあって止まっているバスをすすめられたようだ。

 JR奈良駅に着いた。旅のガイドブックで知った白玉屋栄壽奈良店の名物みむろ最中を買いに行く。1箱12個入りを買ったはいいが家に帰ってみると個別包装でなかった。日本画教室へのおみやげはサランラップ持参で行こう。旧奈良駅舎内に観光案内所やスターバックスが入っている。予定の列車発車までスターバックスで珈琲タイム。しばし足の疲れを冷ます。

大仏殿(東大寺金堂)(国宝)

東大寺盧舎那大仏大仏(本尊)(国宝)

横からの大仏様

テレビで見て知った東大寺の柱の穴くぐりを若者たちがやっていた
大仏殿の庭に咲く梅

東大寺八角灯籠(国宝)
多くの鹿を見た

東大寺南大門
東大寺鏡池
 今回の旅は一人旅の楽しさをかなり実感した旅となった。出かける前、ネットで調べて出かけた。一人旅のお陰で旅の楽しさと同時に勇気と自信がついた。小さいころから大人になるまでバス酔いが激しかった。その頃は一人でどこへでも行く自分が想像できなかった。そう考えると年は取ってしまったが、これから先の旅も楽しく行けるに違いない。元気と勇気をもってこれから先も楽しい旅を続けよう!なお2日目は13000歩と2日間よく歩いた。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月24日土曜日

奈良の旅その2

 奈良の旅その1から続く。今回、なぜ奈良へ行こうと思ったのか、その目的は奈良県立美術館で開催中の日本画家、不染鉄の絵を見に行くことにあった。そして昨年4月、吉野へ出かけた際、新大阪駅から奈良駅まで乗車したおおさか東線で見た広大な景色である。JR奈良駅で旅の道連れと合流した際、そこは平城宮跡と教えてもらった。恥ずかしながらこれまでそんなことすら知らずにいた。それからというものその場所をYOU TUBEで見たりするうち、機会があれば行こうと思った。それが今回の旅である。

 不染鉄の展覧会を知って11月には宿を予約した。その際、平城宮跡に近い奈良ロイヤルホテルを予約。その近くには法華寺がある。旅の最初は法華寺から始まった。しかし、法華寺から東院庭園は近道を教えてもらって辿り着いたが平城京跡全体を見て回るには時間がない。そこで初日は東院庭園辺りを見学してホテルへ。翌日、不染鉄の絵を見て、その近くを見学して広島へ帰る予定で旅を計画した。ところが不染鉄の絵を見て想像以上に感動してしまい、時間を取られてしまった。そのためその後は東大寺だけの観光となった。

東院庭園
 
 法華寺で東院庭園までの近道を教えてもらって無事到着。中の展示室だけを見る、と思った。ところがそこにいたガイドさんからいろいろと聞かれて広島から来たと話すうち、傘を持って出て来られた。そして室内の外が東院庭園と知って雨の中、説明を受けながら見て回る。見て回るといっても広い庭園で滑らないようにと気をつけながら進んでいく。
広い東院庭園

旅の前夜、動画で梅が咲いていると知る

説明を受けながら急いで写真を撮る
柱に注目!?2階はなかったそうだが偉い人が遊び心で梯子を置いた?


東院庭園の館内は展示室となっている
 ガイドさんから説明を聞いていると素朴なことが気になりだす。誰がこの地を平城京跡と決めたのか、とか、どうして遺跡発掘をしようとしたのかなどである。ここに着く途中に宇奈多理神社があった。この神社の周りは山である。そのためか、この山だけは発掘調査ができないらしい。生憎の雨で出かける前にYOU TUBEで見た庭園の梅の花は今一歩、かすんでいた。東院庭園のボランティアガイドさんに朱雀門までの道を教えてもらって雨の中をとぼとぼと歩いて行く。広い平城京跡を歩くがだれ一人として出会わない。が、途中、雨の中、傘もささずに歩くグループとすれ違う。東院庭園は近いか、と問われてすぐそこ、と教えてあげた。スペインからの旅行者だった。

朱雀門広場

 国営平城宮跡歴史公園は東西が4.3キロ、南北は4.8キロもあるという。これだけ広いと一日の観光は到底無理だ。次はゆっくり日程を組んで「平城宮跡」を見学しよう。朱雀門まで行く途中で近鉄電車が通過した。朱雀門広場に着くと辺りにりっぱな建物が建っている。それはみはらし館、つどい館、みつき館、うまし館、いざない館だ。

 朱雀門の外を見学するにも係が眼を凝らしている。気を遣いながらの見学となった。その係に周囲の建物を聞くといざない館だという。中に入ると立派な博物館だ。しかし、これまでずっと歩いていたので足が棒のようになる。どこかで休憩を、と思ってもカフェなどうまし館まで行かないとない。この館内で休憩しながら見学する。見学後、係に朱雀門からホテルまでのバス便を教えてもらう。ところがこれだけ広いとすぐにはバス停がわからない。この近くからはぐるっとバスが100円で走っている。しかし、わかりづらいので大宮通りまで出て市内バスに乗った。

 市庁舎前で下車してホテルへ。しかし、辺りが工事中で高い塀しか見えない。工事の人に聞いて数分でホテルに着いた。ホテルは奈良ロイヤルホテル。今回のホテルはいつもとはちょっと贅沢な感じで一泊二食付き。夕飯を5時半に予約していた。ホテル内の和食竹の家でいただく。懐石料理で御品書を見ると季節の豆腐に始まって12種の料理が次々と出てくる。何とも贅沢な気持ちになる。飲みものはビールでなく赤ワインを注文。旅の気分も最高潮に達し、このホテルが気に入る。そして部屋に戻ると自販機でビールをゲット。旅の楽しさを思いっきり味わった。

 ホテルの室内は2人用のようだ。いつもより少し高めのホテル代だが、それなりの良さがある。どういっても係が親切。また一人の食事も楽しい。食事後、大きなお風呂に入る。これもよかった。
 
朱雀門広場

東院広場から朱雀門への道でスペイン人とすれ違う

平城宮跡を近鉄奈良線が走る


朱雀門

 朱雀門広場にみはらし館、つどい館、みつき館、
うまし館、いざない館
が建っている 

いざない館入り口

屋外に展示された大きな復元遣唐使船

朱雀門広場は雨で人はいない

 この続きはまた後日。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月23日金曜日

奈良の旅その1

 2024年2月21日(水)と22日(木)の2日間、奈良へ出かけた。出かける前から一番の気がかりはお天気だった。というのも今回は一人旅なので雨が降ると旅の全財産の入ったリュックを背負って傘をさして歩くのは大変。出かける前、リュックをスーパーにあるレジ袋で覆ってみた。これで雨が防げる、と思って気を良くして出かけた。

 我が家を出る前までは100%雨の予報だった。ところが家を出ると傘がなくても大丈夫そうだ。どこへ行くにも雨の日はなくお天気に恵まれれていた。今回はそれもダメ、と思っていたら2日間を通して雨が降ったのは30分ほど。それ以外は傘もささずに観光できた。

1日目 2月21日(水) 

 広島駅9時7分発ののぞみ10号の14号車8番D席に乗車する。後で気づいたのだが帰りののぞみ41号も号車、座席番号ともに前日と同じだった。こういうこともある、とびっくり。新大阪駅10時28分着でおおさか東線に乗り換える。ここから久宝寺で乗り換え11時48分着でJR奈良駅到着。すぐに観光案内所へ出かけて地図を貰い、JR奈良駅から法華寺行のバス便を聞く。

 バスに乗る前、軽くお昼を食べる。そしてバスが来るまで、この日が誕生日の友だちに電話をかける。友だちは旅どころの状態ではないがそれでも旅を楽しむようにと言ってくれた。バス乗車後、10数分で法華寺到着。ところがバス停は法華寺、となっていても目の前にあるのは海龍王寺だ。まずはこのお寺から見て歩く。受付を済ませると他にも観光客がいる。東京から来た男性で一人旅をしているという。入館料500円を払って境内へ。室内に小さい塔がある。これは奈良時代の国宝、五重小塔でこの1基のみが現存しているそうだ。

海龍王寺

重文の一切経蔵

室内にある五重小塔
法華寺

 海龍王寺を見学後、法華寺を探す。目の前に大きな家がある。これだと早合点して入ると誰もいない。間違えたようだ。さらに歩くと法華寺があった。受付で700円也を払って見学。

法華寺
 法華寺は光明皇后ゆかりの門跡尼寺らしく、名勝庭園修復事業として東宮殿下ご使用の御椅子を特別公開していた。しかし庭園は4月1日からの公開で今回は見られなかった。公開中の椅子を見たが写真はNG。このころから小粒の雨になる。それでも砂利を敷いた庭に膝まづく人がいる。見るとゴミ入れを手にして何やら取っている。声をかけると砂利の間に生える小さな草を丁寧に抜いている。これは大変な作業である。

 旅のガイドに法華寺から裏道を通って東院庭園に抜けられるとあった。JR駅の案内所ではそのやり方は無理みたいに言われたが法華寺の受付で聞くとご丁寧に外に出て詳しく道順を教えてくださった。その通りに進むと道の角あたりに案内板があちこちに立ててある。お陰で迷わずに東院庭園にたどり着けた。

法華寺

法華寺から東院庭園への案内標識
 途中、宇奈多理神社がある。神社の名前がわからず中へ入ろうとすると誰かいる。すぐに出て元の道を歩く。うっそうとした道を進むと道が開けてきた。東院庭園だ。このころから雨が強まる。建物の中に人がいる。なんとガイドさんだ。話をするとたった一人の観光客なのにガイドをしてくださるという。そしてこの後、朱雀門を見学してホテルに入ると話すと時間は充分あると丁寧に案内してくださった。どこへ行ってもいつも思う。それはたとえ一人の旅であっても旅の道連れは皆さんいい人だ、ということ。今回もそうだった。
ひっそりとした法華寺から東院庭園に続く道

途中にある宇奈多理神社

奥が東院庭園

  この続きはまた後日に。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月21日水曜日

『司馬遼太郎を読む』

 天気予報では100%雨と出ているが今のところ雨は降らず曇り空である。『司馬遼太郎を読む』(松本健一 新潮社、平成二十一年)を読んだ。またいつものように気になる箇所を記そう。

★つまり「私を見てくれ」ではなく「彼を見てくれ」という小説であります。ですから、彼の物語り、つまり「his-story」は「history」、すなわち「歴史」の小説が多い。多いというよりも、それが司馬文学の本質である、ということができるだろうと思います。(13p)

★日本人はいざとなったら神風が吹いてくれるのではないかと思う。もちろん「神風」は元寇の役のときに博多湾で吹いて、元軍と朝鮮軍の船がほとんど沈んでしまい、危ういところで日本は侵略から助かったという歴史があります。そこで「神風」という言葉はいつから流行っているのか、ということを調べる。昔から日本人は使っていたのか?われながら奇妙な関心をもつ者だと思っていますが、元寇の時に吹いた風を「神風」と呼ぶようになったのは、じつは昭和九年からなのです。(18p)

★司馬さんが描いた物語は、日本人がみんな知っている、徳川幕府と言えば家康、明治国家といえば維新三傑、それとは別なものです。それは日露戦争においてもいえます。日露戦争は日本の国家意識、ナショナリズム、天皇の威信が発揮されたものでした。軍人の乃木、東郷。そういう歴史を明治政府。またその後の政府も国民に伝えています。しかし、司馬さんは、日露戦争を名も知られないような国民一人一人が重荷をになって『坂の上の雲』を目ざして登る、そういう国民の物語なのだとしました。司馬さんが国民作家と呼ばれるようになったのは、そういう国民の歴史を描いたからです。(30-31p)

★歴史学者たちは、そのときにどのような文献があったか、どの文献とどの文献を比べてみたらどこが矛盾するか、そのようなことは詳しく調べていますが、そういう古い時代の文献が国民の中にどういうふうに物語り(story)として受け継がれていくか、ということを研究する人は誰もいないわけなのです。ましてや空海から日露戦争までを書くなんてことは、ありえない。とくにマルクス主義が流行っていたころは「歴史は事実である」という考え方が非常に強く、「事実」を徹底的に推し進め、「誰がどこで何時」しか残らないことになった。だからいま中学の歴史の教科書でもそういうことが多くなって、高校入試でも大学入試でも、これは「何年か」、「それはどこの土地か」、そしてそれは「誰がやったか」、つまり人名とか地名とか年号とか、それしか試験で問わなくなっています。(32p)

★織田信長の軍隊と武田勝頼の軍隊が戦ったとき、織田信長軍と徳川軍は織田や徳川の旗を掲げたりしていますが、連合軍を組んで二の丸も掲げているわけです。武田軍も日の丸を掲げている、われこそ=日本を担うのだという意味です。……とにかく日本の文化では、白旗を掲げているから降参するわけではない。日本では、白旗は源氏を象徴していました。ですから、ペリーが来たとき、白旗を掲げたら敗北というイメージが、初めて日本文化史の中に登場した、と私は当然考えました。しかし、ここで問題が発生するのです。……私がこの「白旗」の問題を相談してみようと思ったのは丸山真男さんと司馬遼太郎さんでした。丸山さんはそんなことは知りません。白旗のことは知っていますけれども、と答えてきました。……ただ学識の人ですから『日本書紀』に素旗(しらはた)は出てくるという別の例を出してきたのです。白い旗は敗北の旗ではなくて、何者にも所属しないという意味ですね。古代の人間はみんな自分たちの色や印を決めたのです。……そういう色に染まっていないのが白旗なのです。……ところが、司馬さんからの手紙も負けず劣らず多いわけでして、私の世代で司馬さんから、たくさんの手紙をもらった人間はあまりいなのではないでしょうか。司馬記念館から「松本さんが一人だけ持っていないで、記念館に納めてください」といわれているわけでありますが、もったいないという気持ちもありまして(笑)。……戦争のときの笠は鉄の陣笠、要するに日本風のヘルメットですね。それを載せて左右に振る。馬の上で振るのですから、六メートルくらいのところで陣笠が振られるわけです。そんなところに人間の首があるわけないのです。そうすると当然、相手がいいたいことがあるのだな、ということが敵に伝わります。これが降参や使者を出すときの「見えるしるし」です。そう教えてくれました。(35-38p)

★司馬さんは「私のことを見てくれ」という「look at me」ではなくて、歴史の裏側に隠されていた、そしてじつはその時代そのものを支えていた私ではない「彼」、高田屋嘉兵衛とか土方歳三とか、軍人の乃木、東郷ではなくて秋山兄弟とか正岡子規、そういう人々、「彼」の物語りを書きつづけていたのです。それは”無私の精神”というべきかもしれない。私は司馬さんの文学を読みながらそう思うのであります。(40-41p)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月20日火曜日

雨は止んだ!

 起床後に降っていた雨は上がった。年齢を経るにつれて天気に左右されるようになった。それはなぜ?雨が降ったから、また晴れているから、といって体の部位がどうこう言うわけではない。ただ、晴れていると気分が晴れる。その点が歳を経るにつれて敏感になるのだろうか。

 天気の良しあしは旅にも関係する。旅には雨はいらない。が、これも自然現象なので旅に出るときだけ雨を降らせないようにはできない。旅といえばほかにもある。昨年5月8日までの旅は旅に出かける3日前にPCR検査を受けていた。それもすべてはコロナワクチンを打たないことによる。今は旅をしようと思えば何の検査も受けずに出かけられる。わずか半年余り前のことなのになぜか遠い過去に思える。大雪の中を検査のために出かけたことも遠い過去!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月19日月曜日

「冠山の梅まつりと笠戸島の河津桜」の日帰り旅

 雨の一日が始まった。今週は天気予報によるとこれから一週間ずっと雨のようだ。昨日、今年初めてのバスツアーに参加する。昨日は今日と違って気温も高く好天に恵まれた。旅の良しあしはお天気によって80パーセント左右されるという。その点でもいい旅だった。コロナ禍のときはバス旅の一人参加は相席ではなかった。ところが今回は久しぶりに相席となる。が、相席の人は感じがいい人でいろいろとお話が聞けて楽しい旅となった。バス旅のタイトルは「冠山の梅まつりと笠戸島の河津桜」と銘打ってある。

 出かけた場所は初めてのところだ。まずは山口県光市にある冠山総合公園の梅まつり、次に下松市にある栽培漁業センターで養殖している魚類への餌やり体験、そしてお昼は国民宿舎大城でミ二ひらめ会席をいただいた。午後は笠戸島の河津桜を愛でて広島へ。いい旅だった。

 昨日の冠山総合公園は梅まつり開催中で着物姿も見られた。この公園は梅林を主とした公園でなだらかな斜面の道や階段があってぐるっと歩いて回れる。幸い昨日は好天のため、足元も悪くなく公園全体をゆっくり歩いて回った。

冠山総合公園


標識に雲竜梅とある 向こうに見える鉄塔まで行った
鉄塔付近から見下ろす
絵になりそうな梅の木
この辺りは日本庭園となっている
斜面を利用して梅の木が植えてある
 冠山総合公園で梅の花を愛でたあと、下松市栽培漁業センターで養殖されている魚類の餌やり体験があった。養殖場は部屋が暗くなっており、数個の生け簀がある。各自、紙コップに入った餌をもらって生け簀に餌を撒く。ここは水産資源の維持拡大を図るため、昭和58年から種苗生産、栽培漁業の推進、さらには下松市の代表的な観光資源である「笠戸ひらめ」、「笠戸ふぐ」の養殖に取り組んでいるという。
国民宿舎大城から眺める瀬戸内海 海が綺麗
笠戸島の河津桜

 お昼はひらめの刺身などの贅沢な食事だった。その後、笠戸島の河津桜が咲いている辺りでバスを下車。まだ満開とまではいかないがそれでも空と海の青さに加えて黄色に咲き誇った菜の花が咲き、ピンクの河津桜が彩りを添えていた。


 光市や下松市は広島から近い距離にある。ところが今回初めて出かけた。まだまだ近くにもいいところがたくさんある。せいぜい元気なうちはでかける!?
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月17日土曜日

『司馬遼太郎が考えたこと12』から

  昨日投稿の山村雄一については今、読んでいる『司馬遼太郎が考えたこと12』の(「あとがき『人間について』)に収めてある。以下にその中の一部を記すと「九州にいるころ、『朝日賞』(昭和三十四年)を受賞し、やがてこの人にとって意外なことだったが、大阪大学の内科の教授の席が空いたためによばれるというはめになった。基礎医学の教授が臨床の教授になるというのは、破天荒なことであったろう。人事などは、いわば俗事にちかい。こういうことも触れておかねば、山村雄一というひとの成立を理解する上で、十分なカードではないとおもったためにふれた。このひとの理解のために、必要な一枚をぬきとるとすれば、この人が生活者としての人間を愛し、生体としての人間にあたらしい洞察をもち、さらにはこの地球上に棲みあわせている人間の仲間たちのゆくすえを、少年のころの母君が幾人かのお子さんに対してそうであったように、ほとんど等質の遺伝的気質で憂いつづけているというカードだけである。こんにち、たれもが、人間が意外な段階に置かれているためにさまざまに憂えている。しかし、生命の科学という行方も知らぬ場所に立っているこのひとの場合、私どもとはちがった情景を見つづけているに相違なく、そのことについて沈黙させていることは人間への義務に欠けているかと私どもは思ったりする。じつのところ、私などはそのことについての適当な話し相手ではなかった。しかし私一個人としては毎度の対談の席でこの人の風韻に接するだけで楽しかった。」(56p-57p)とある。

 これは昭和58年7月に書いている。これを読んで司馬遼太郎の『人間について』にひどく惹かれる。早速、これが収めてある本をネットで調べると『司馬遼太郎対話選集4』にあった。昨日、すぐに図書館へこの選集を予約した。さきほど、この本の予約確保のメールが入る。

 図書館へ予約する際、とくにこのような選集ではどの巻に読みたい本があるのかすぐにはわからず、ネットで予約するだけでかなりの時間を要した。しかし、いったん予約すると古い本なので借りて読む人は少ない。お陰ですぐに借りられる。

 司馬遼太郎の長編小説や短編小説はほとんど読んでいる。が、司馬作品には紀行やエッセイ、さらには講演収録や対話選集といったように著作だけではなく話したことなどもたくさんある。対話選集も1巻ではなくシリーズ化していて、それも1巻に収めてあるのは一人ではない。

 司馬作品ひとつをみても今回のように次々と関連することが出てくる。というかどんどん読みたくなる本が出てくる。これも生きる楽しみ!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月16日金曜日

お笑い芸人

 司馬遼太郎の本を読み始めて5年と2か月余りが過ぎた。この間、多くの知らない文字や人名を知った。今は「街道をゆく」や「司馬遼太郎が考えたこと」を読んでいる。「街道……」は紀行で後者はエッセイである。昨日読んだなかに山村雄一の名がある。が、この人を知らない。知らない名やワード、さらには文字が出ると読んでいるときであってもその都度調べる。山村雄一を調べると「白い巨塔」のモデルとなった人、とある。その孫に吉本新喜劇の信濃岳夫がいる。

 お笑い番組が好きだ。信濃岳夫の名は知っていても詳しくは知らない。ネットで画像を見ると上品な顔だ。この頃のお笑い界は芸人といっても医師や弁護士などどんなジャンルからも芸人になっている。そのことでいえば祖父が立派な人であっても孫がお笑いを目指してもおかしくはない。

 2か月くらい前からある漫才師の片方にハマっている。なぜハマるようになったのかは思いつかないが何かのはずみでこの人を知ったのだろう。このごろはテレビに出ないようだが昨夜は出たそうだ。この情報はツイッターなどのリアルタイム検索で知る。推し芸人が活躍するとこちらまで気分がいい。さらにはその芸人のYOU TUBEを見て笑いを誘われる。スマホで夜、YOU TUBEを見て独り笑っている自分は時に変!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月15日木曜日

共感疲労

 地元紙記者が「共感疲労」なる旨の記事を書いている。能登半島の巨大地震の警報音をテレビで聞いて涙が止まらなくなったがテレビを消せずにいたそうだ。この「共感疲労」のキーワードはこの記事で初めて知った。「共感疲労」をネットで調べると「自分以外の人たちの苦難や困難の状態に対して、思いやりや共感をすることによりあたかも自分が経験しているかのように心が疲れてしまったり、ストレスを引き起こされる現象をいう」そうだ。この傾向がある人として感受性が豊か、周囲に気を使いすぎる傾向のある人、好奇心が旺盛で情報収集を熱心にする人などがあてっはまるらしい。

 感受性が強く、人に気兼ねをし、好奇心旺盛な人、とは自分もそうだ。嫌な話は会社勤めの頃から言わざる、見ざる、聞かざる、を徹底していた。それが昂じて最近では嫌な事件やニュースなどのテレビは見ないようにした。見たい番組はテレビではなくNHKプラスやTVERで見ている。その点、新聞は映像と違って個人の想像力を働かせばいいので読んでいる。

 なぜテレビを見なくなったのか、が共感疲労に関係あると知って妙に納得した。これはテレビだけでなく、習いものに行って嫌な話題や病気などの話を聞くのも同じく共感疲労になるようだ。嫌なことを聞いてそれを吐き出す人がいればいい。ところが聞いた後で嫌な気持ちを引きずったままでいるとこちらまで病気になりそうだ。その思いは以前から持っていた。それが共感疲労、だったとは。

 話題は楽しく、会話も楽しく。その意味でも嫌なことはなるべくブログに取り上げないようにしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月14日水曜日

『胡桃に酒』

  『胡桃に酒』(司馬遼太郎 文藝春秋、2012年新装版第12刷『故郷忘れじがたく候』に収められている)を読んだ。たまはキリシタンの細川ガラシャ。またいつものように気になる箇所を記そう。

★たまは、つねに「罪は私にある」といった。自分がもし他の容貌をもった自分であったとすれば忠興はああも物狂いにならず、忠興によって殺された多くの男女もその悲運を見ずに済み、彼女自身もこのような苛酷な運命のなかに身を置かずとも済んだにちがいない。罪は、この容姿にある。戦陣の忠興から、彼女をよろこばせるための品がしばしばとどけられた。そのなかに、忠興が博多から送らせたらしい南蛮製の胡桃割と珍陀酒(葡萄酒)一瓶があった。胡桃そのものを送って来ないのは、毎年細川家では加賀前田家からの胡桃の実をもらう習慣になっているのを、忠興は当然知っていたからである。たまは、前田領の能登の胡桃がとりわけ好物であった。……たまは仰臥している。「ちがう」といった。食いあわせは胡桃と酒ではない、といった。そのあとなにもいわず、ながい沈黙のあと、やがてはげしく落涙した。……忠興はついにたまへの加害者でありつづけ、たまはたまで忠興の加害心を煽りつづけるのみの存在として当家に居る。小侍従には地獄としかおもえなかった。たまが地獄からのがれるには忠興の妻であることから昇華して天主(てうす)を唯一のあるじとして仕えまつる以外に救いはなく、その道をたまのためにひらくことができた自分を、神に感謝した。しかし、たまの死が近づいている。(214p-215p)

 春の陽気になるとか。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月13日火曜日

ベートーベン:ロマンス ヘ長調 NO.50

sを横にした感じの転回ターン

 ブログの閲覧履歴を見ていると10年余り前にさらったベートーベンの「ロマンス ヘ長調 NO.50」がある。最近は同じ曲ばかりを吹いている。この曲を聞くと懐かしさと共にもう一度吹きたくなった。Wordにさらったフルート曲一覧を作っている。この曲を探すとフルート曲集26選に入っていた。楽譜を出して吹いてみるがすぐにはうまく吹けない。せっかくこの曲に行き着いたのだからと再度練習しようとなった。ところがいきなり出てくる音楽記号の名がわからない。2を横にした感じの「ターン」とSを横にしたような「転回ターン」がある。この楽譜では転回ターンだ。これは音
符を装飾する。

 この曲のYOU TUBEを探すと同じ楽譜で吹いている。これからしばらくはこの曲が吹けるようになるまで練習しよう。温かくなりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月12日月曜日

『ビジネスエリートの新論語論』

  『ビジネスエリートの新論語論』(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第1刷)を読んだ。この書は福田定一名から司馬遼太郎になる頃に書かれている。本の後半に「あるサラリーマン記者」というテーマで「私は、新聞記者(産業経済新聞社)である。職歴はほぼ十年。その間に、社を三つ変わり取材の狩場を六つばかり遍歴した」とある。ということはこの本が書かれたのは司馬遼太郎がサラリーマンとなって10年目くらいのことになる。

 司馬がサラリーマンになったのは「昭和二十年の春、私はスリ切れた復員外套のポケットに手を入れて、大阪の鶴橋から今里の方向にむかって進んでいた。目的はたしか、わずかな復員手当の中から、靴を購(もと)めたいと闇市を物色して歩いていたのだ。めっぽう、ハラが減っていたのを覚えている。屋台をのぞいて、ふた切ればかり、焼イモを買いもとめ、一切れを二分ばかりで嚥下した。そして靴である。……今里の闇市をひとまわり物色してから、猪飼野闇市の方角に転針しようとしたはずみに、私は一本の焼け電柱に気づいた。いや、電柱にではなく、その電柱に貼ってあるビラにである。……注目すべき二字は『募集』という文字なのである。……そのとき、私の肩ごしに顔をのぞかして、とつじょ、声を発した男がある『記者募集――』驚いてふりむくと、冬も近いというのに、海軍士官の夏服を着ている。一眼見て。私と同じ復員学生とみてとれた。」(177p-178p)

 この二人は採用条件に見合わなかったにもかかわらず強引に話を決めて記者として採用される。しかし、その後すぐに社を辞める。ところが二人してまたも京都の新興新聞に手づるを求めて採用試験を受けて二人とも採用された。この時代、活字のない真っ白な新聞紙を読者は欲していた。その矢先、新聞用紙の配給を廻ってもめていた。「当時、新聞用紙の配給権をニギッっていた日本新聞協会事務局へ『オソレながら』と例の用紙横流しのヒミツを訴え出たのである。当然、用紙の配給は止まった。」(186p-187p)

 活字の新聞紙よりもトイレの紙になる真っ白な用紙を国民は求めていた。そのため真っ白な用紙は4割増しの値になった。

 用紙がなくては記事は書けない。おのずと会社はつぶれた。しかし、当時の新聞記者採用は現在の新卒一本やりでなく「働けそうな他社の記者を引き抜くという採用制度と不可抗力な理由で失職した記者を拾い上げるという美習」(188p)があった。「時代は、新聞記者に対して良き意味でのサラリーマン記者たるよう要請している。野武士記者あがりの私なども、昭和二十三年春現在の社に入って以来、記者修行よりもむしろその点にアタマを痛めることが多かった。しかし、スジメ卑しき野武士上がりの悲しさ、どうも無意味な叛骨がもたげてくる。そいつを抑えるのに苦しみ、苦しんだあげく、宮仕えとは、サラリーマンとはいったい何であろうかと考えることが多くなった。その苦しみのアブラ汗が本書であるといえばいえるのである。」(189p)

 この後に「司馬遼太郎」が誕生する。が、これについてはこの書の最後に「『司馬遼太郎』誕生のころ」として司馬遼太郎記念館館長の上村洋行が書いている。

 ほかにも気になる箇所を以下に記そう。

★老化をふせぐためには、常にコンニチの世界に生きることが必要だ。老先輩の話を聞いてその体験から知恵をひきだすのはたしかに大事なことだが、前時代の余香の匂いまで移り香されてはこまる。先輩の知恵を厳密に選鉱するとともに、いつも二十代の社員の世界に感覚の足場を置いておくことを忘れてはなるまい。「人生の真の喜びは、目下の者と共に住むことである」――サッカレー(109p-110p)

 この本は司馬遼太郎のエッセイである。司馬遼太郎の本はほぼ小説や「街道をゆく」シリーズを読んでいる。が、この本をきっかけにさっそくエッセイである『司馬遼太郎が考えたこと』シリーズを予約した。これは15巻ある。なぜかその12巻が予約できた。まだまだ読まねばならない司馬作品は多い。まるでライフワーク!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月11日日曜日

お墓参り

 お天気がいい日を見計らってお墓へ参る。土曜日のお昼前の墓地は誰も参っていない。このごろはお墓へ参るにもお天気が優先する。雨の日などお天気が良くないと足元が悪く滑ったりすると大ごとになりかねない。怪我だけはしないようにと気をつけてお墓へ参る。 

 先日、ちょっとだけ片付けていると1年半前に買ったスマホの箱が出て来た。中にトリセツが入っている。購入時はトリセツがない時代になった、と思っていた。ところがしっかりした紙箱を捨てようとして中をよく見ると厚底になっている。その中に小さい紙箱があり、さらに中を見るとトリセツが出て来た。これにはびっくり。初めてのスマホなのに何もない、とばかり思っていたが、それは間違いだった。とはいえ、この小さいトリセツはただスマホの機種本体の説明であって取り扱い方法ではない。詳細なトリセツはネットで調べるようになっている。そしてドコモへの問い合わせなどの番号記載があった。

 ドコモでの購入時、最低限の設定をしてくれた。しかし、買ってすぐには電話の切り方や受け方に手こずる。他のわからないことに関してはその都度ネットで調べているので今ではそのやり方もわかってきた。

 今朝の目覚めはよくない。旅に出かけた先のトイレの夢だ。眼が覚めてもこの夢を覚えている。きれいな夢でなくトイレの汚さの夢だ。この頃は何処へ出かけてもトイレはきれいだ。ところが以前出かけた国によってはトイレの汚さに閉口した。それが今になって夢となって出るのだろうか。変な夢だった。なぜこんな夢を見るんだろう?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月10日土曜日

プールへGO~

 午後から暖かくなり、急遽プールで泳ぐ。金曜日の午後のプールは水中歩行のグループがいないためか空いている。ほぼ背泳ぎで400m泳ぐ。2度ほどクロールで泳いだが、以前ほどクロールで泳いでもきつくなくなった。少しずつクロールを増やそう。

 地元紙に桜の季節の日帰り旅の掲載がある。同じ行くなら出かけていないところを、と思って探す。が、今一歩気が進まない。泳ぎ終えて帰宅後、再度、募集案内を見る。以前出かけたことがある場所に加えてもう一か所、桜の時季に出かけていない場所がある。この日帰り旅をネットで申し込む。この頃は電話でなくネットで申し込むようになった。とはいってもネットでの申し込みはまだ2回目だ。

 夜、遠くに住む友だちから電話がある。体の調子がよくない友だちだが電話の声は元気そうだ。新年になってあちこちの神社やお寺に参拝したとか。お御籤は全部大吉で元気になる、と書いてあったという。一つずつの声が聞いていてもなぜか切ない。

 そう思うとどこへでも遊びに行けることは幸せなことと思ったり。元気なうちにせっせと遊びに行こう。そのためにも泳いで元気を貯える!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月9日金曜日

『尻啖(しりくら)え孫市』(下)

 『尻啖(しりくら)え孫市』(下)(司馬遼太郎 角川書店、平成二十年改版初版)を読んだ。いつもの如く気になる箇所を記そう!

★こんにちの本願寺は、ながい歴史をもちすぎた。全国に、なお二万の末寺がある。それらの多くは、他の宗旨とともに「寺に僧の形をした者がいる」というだけの形ばかりのものになった。しかし、小みちと孫市のころはちがう。これほど新鮮な、これほど刺戟的な、これほど深い教えはなかったし、人々もこの教えによって生気を持ち、この教えのために殉じた。強烈な思想だったのである。むろん、いまでもこの親鸞の思想はいささかも古びてはいない。ただ、説く教職者がこんにちの人に訴えるだけの力をもっていないだけのことである。(88p)

★秀吉が天下をとったとき、信長とはがらりとちがった態度で本願寺を保護し、京都に広大な土地をあたえて本山を誘致している。秀吉の次に天下をとった家康はもっとずるかった。本願寺は眠れる獅子でいつ反乱を起こすかもしれぬと思い、真二つに割って東西両本願寺を対立させ、互いに相反目させ、それをもって勢力を殺(そ)いだ。この政策は徳川家安泰というためにはみごとに図にあたり、徳川三百年を通じて両本願寺は仲がわるく、幕末にも「お西様」が勤王なら「お東様」は佐幕というぐあいに対立し、現在でさえ、家康の「奸謀」が生きいきと生きつづけて互いに仲がよろしくない。二つの朝鮮、二つの中国のような 悲劇である。(130p)

★いま孫市は、門徒としてえりがみをつかまれている。(人間、来るべきでない場所がある。それは心が欲せぬ場所だ)そう思うと、自分が自分で情けなくてぼろぼろ涙がこぼれてきた。(場ちがいな場所におれは来ている)感情過多なほうだから、こうなるととめどもなく涙が出てしまう。孫市が現今(いま)の世の日本語の語彙をつかえるとすれば――俺は自由を愛した。たれにもおさえられず、たれにも命令されずに生きてきた。信長が仕えよ、といったのに従わなかったのも自分の自由をうしなうのがいやだったからだ。それが本願寺に味方した。意外にもここに僧侶という命令者がいた。孫市は涙をぬぐった。(134p)

★そんな孫市を法専坊信照はよくわかっているつもりであった。(あの男はときどき独りになりたいのだ)けものにたとえると、群れで歩く羊や鹿のような男ではない。人に懐くいぬのようでもない。人間のくせに、人間と群れて暮らすのがいやなたちらしいのである。そのはずだ。紀州雑賀郷七万国の御曹司にうまれていながら、女選びと称して他郷をウロウロ歩いていた男だ。なるほど女は好きかもしれないが、それは半ば口実で、一人っきりで生きてゆくのがすきな男にちがいない。(163p)

★孫市には信長の歴史的使命など理解できない。信長は戦国型の英雄豪傑というよりも、むしろ革命家といったほうがいい。なぜならば、単に領土的野心で征服事業に驀進(ばくしん)しているのではなく、この男は、前時代的な権威を徹底的にぶちこわそうとしていたことだ。信長よりもすぐれた戦術家だった上杉謙信、武田信玄は、この点ではただの人にすぎない。むろん信長のあとであらわれた秀吉、家康などもこの点で信長にははるかに及ばない。信長は「近世」を開こうとした。そのために「中世」の亡霊ともいうべき神仏を退治することからはじめた。神仏どもがその宗教的権威のうえにあぐらをかき、富を貯え、軍事力を養い、大名以上の暴威を地上にふるっていることが信長にはゆるせなかった。この憎悪が叡山の僧俗三千に対する虐殺になってあらわれ、伊勢長島の本願寺門徒二万余に対する焼き殺しになってあらわれている。「魔王」としか見えなかった。信長に対し、革命児、合理主義者、とはたれも見てやらず、信長自身も、自分の歴史的地位をそれほどにまで思わなかったであろう。(240-241p)

★毛利氏は、家祖元就以来、瀬戸内海の海賊を手なずけ、能島(のしま)、因島(いんのしま)、来島(くるしま)の海賊どもは毛利を主家とし、信長といえども海上に対しては何の支配権もなかった。この毛利水軍、雑賀水軍が協力した。いっぽう、織田方の水軍は、やはり瀬戸内海の塩飽(しあく)列島に根拠地をもつ塩飽海賊で、この海賊衆の特徴は船がひどく大きい。唐船(からぶね)様式なのである。(258-259p)

★「あっはははは」孫市は、星空を吹きとばすほどに笑った。「信長めに、とうとうわが尻を啖(くら)わしたぞ」啖わしたところで信長から一寸の土地を奪ったわけではないが、ただ天下の織田信長に痛撃をくらわしたことだけが、孫市という男の快事なのである。(374p)

 朝から日差しがまぶしい。いいお天気になりそうだ。元気を出して泳ぎに行く!?

 十あれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月8日木曜日

満開のシクラメン

満開のシクラメン
 久々に日差しがまぶしい朝を迎える。ゴミ出しに出ると部屋よりも外が温かい。ゴミの集荷は終わっていたが道路向かいのゴミ置き場はまだのようでここに置く。この様子を見ていた近所の人から木曜日の集荷は早いと教えられる。

 1月中旬に一輪花を咲かせたシクラメン。1か月近く経つとシクラメンは満開だ。が、まだしばらくは花は咲きそうだ。年を越したシクラメンだが今年も花が終わると外に出そう。そして来年もシクラメンを咲かせよう。

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2024年2月7日水曜日

はつかいち美術ギャラリーへ行く

  出かける前は雨は上がった、と思った。スッキリしないお天気のまま、はつかいち美術ギャラリーの「第30回記念ウッドワン美術館収蔵名品展」を見に行く。この美術館へは久しぶりに出かけるので出かける前に美術館までのアクセスを確認する。JR五日市駅で下車し、広電に乗り換えて廿日市市役所前で下車するが止んだと思っていた雨は降り出す。傘を持参せず小雨の中を美術館まで歩いた。

 美術館についた。久しぶりに入る文化センター内をしばし物色。その後ギャラリーへ。会場入り口に宇田荻邨(てきそん)の「嵐山の秋」が展示されている。同じ姓の人がいる、と思い、親しみを感じて絵に見入る。嵐山の秋を描いている。昔の嵐山はこの絵のように何もなかったのだろう、そう思いながら絵を見る。目次を貰ったがこの絵に関しては描いた年月は不詳とある。いずれにしても古い絵に違いない。後でこの人について調べると1896年に生まれて1980年に亡くなっている。最後は日展の顧問だった。

 このほかに高松秀和「生命Ⅳ」の絵に惹かれる。木の根っこの部分を細密に描いている。まるで本物のような絵だ。そして見に行った目的の画家である上村松園の「春」を見る。上村松園は先日読んだ『二人の美術記者……』を読む前は男の人だと思っていた。ところが女性の作家と知った。きれいな絵、という感じで絵を見た。その他にも日本を代表する画家の日本画や油絵が展示されていた。いい展覧会だった。

 お昼になった。館内のコンビニに立ち寄って何か食べものを、と思った。しかし、雨模様の日でかなり気温が低い。なにか温かい食べ物を、と歩いていると大きな複合施設があった。中に入るとパン屋に併設されたカフェのリトルマーメードがある。ここに入ってパンを買って食べようとした。ところが席が空いていない。仕方なくパンだけを買って奥へと歩いて行くとインド料理のガネーシュがあった。ここに入ってナンとカレーのランチをいただく。3,4か月前に友だちとセンター街のインド料理屋で食べた味と似ている。しかし、お店は違っていた。

 駕籠に入ったナンを見て左手でその大きさを測ってみた。何と左手の2倍もの長さがある。そしてカレーも別のお皿いっぱいに入って出て来た。見ただけで全部は食べられないと思った。案の定、ナンは半分も食べられず、残りは持って帰った。

 見知らぬ土地や久しぶりに出かける土地へ行くと気持ちはまるで旅気分。ましてや外での食事は特にそんな感じになる。ついでに旅を味わおうと先日ネットで予約した「おとなび」のチケットを自宅最寄り駅でなくJR五日市駅のみどりの券売機で発券した。

 外に出歩いてウロチョロしてわが家にもどると気分が爽快になる。やっぱり外へ出ないといけない気持になってくる。今はまだ寒い時季で動きも鈍い。しかし、これから温かくなれば外へ出かけよう。昨日、大阪のJTBから分厚い旅のカタログが届いた。いつもながらカタログを見ても海外の旅ならまだしも国内の旅はわざわざ関西から出かけなくても、と思ってしまう。広島に営業所があったころが懐かしい。海外旅行を見ると円安のためかアフリカなどの辺境の旅はほとんどが百万円単位だ。そしてこの頃はビジネス席をすすめるのかこれがまたエコノミーの旅費以上もする。そのためビジネスの旅費は2百万円は優に超える。とはいえそれもそうかもしれないと思ったり。というのも南アフリカへはもう20数年前に出かけたがその当時の旅費もエコノミーで60万円くらいした。

 今となってはその当時はまだ若さがあった。よい時代に辺境の地へ出かけている。今もまだ元気はあるがさてさて。コロナ禍前までの元気はどう!?

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2024年2月6日火曜日

「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」

  地元紙文化欄「緑地帯」に「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」がある。読み始めて「夢は枯野……」に目が留まる。よく読むと「旅に病んで夢は枯野を駆け廻る」が一つの文だ。聞いたことがあると思って調べると芭蕉の句だった。旅先で病に倒れても枯野を廻る夢をみるとは何ともある意味で羨ましい。こういう最期を迎えるのも芭蕉らしい!?

 この何日かシトシトと冷たい雨が降り続いたがやっと上がったようだ。雨が降ったと言って家にくすぶっていると体に良くない。枯野を駆け廻るとまではいかなくてもちょっとばかり外を駆け巡る!?

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2024年2月5日月曜日

クレジットカード解約

 ゴミを出そうとして外に出るとシトシトと雨が降り、強風も吹いて冷たい朝だ。今日は家に閉じこもる日となりそうだ。小学校の生け垣の道に面した側は石垣で囲ってある。この石垣の高さは腰掛けくらいの高さがある。お天気が良い日はだれかれとなくそこに腰掛けて一休みしている。 昨日午前中も歩行器を持った人がひとり腰掛けていた。 歩行器を利用してスーパーで買い物をした帰りらしい。

 歩行器が気になって声をかけた。2年前に外で尻もちをついて右足の大腿骨を骨折したという。年齢を聞くと1歳下だ。いろいろと話していると家が近くらしい。 母も骨折が原因で歩行困難を来たして7年後に亡くなった。歳を取ると一番の致命傷は骨折らしい。骨折には気をつけよう。

 午後になって急遽、大型電気店のクレジットカードの解約を、となった。この頃は解約もフリーダイヤルに電話してガイダンス通りに番号を押すと解約となる。それでも不安なので最後のガイダンスで流れた(一週間後に届く確認のハガキ……)で解約に応じた。これでクレジットカードはドコモのゴールドカードのみとなった。今もまだあやしいお天気だ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月4日日曜日

二百三高地の絵完成!

 先日読んだ『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』のなかに上村松園の絵についての記載がある。上村松園の絵もそうだがどんな絵でも絵を見て深く思ったことがない。ところが、美術記者たちは一枚の絵についてあれこれと思考を巡らす。昨日の地元紙にこの上村松園の絵や他の人の絵の展示会の知らせがある。ウッドワン美術館所蔵の絵を廿日市美術ギャラリーで展示している。期間は12日まで。ウッドワンは交通の便が悪いので簡単には行けそうにない。以前に2度出かけているがいずれも車に乗せてもらって出かけた。ところが冬季の間、ウッドワン美術館は閉鎖されるためか廿日市美術ギャラリーで展示される。何日間もさっぱりしないお天気が続く。が、天気のいい日を見計らって絵を見に行こう。

 昨日は日本画教室の日。描いていた二百三高地の絵を完成させた。この二百三高地には乃木大将の2人の息子がまつられている。そのため二百三高地から爾霊山(にれいさん)と乃木大将は命名した。描きながら意味深いこの山を思いながら絵を描いた。次回は完成させたサムホールの前に描いていた蓮の花を描く予定でいる。

 二百三高地といえば雪山を思いだす。中国東北部の大連の12月の気温はマイナス19度の日もあった。4日間の観光地はどこも雪景色。なかでも二百三高地は203mの高地にある。観光中、通常は途中からシャトルバスで山道を登るが旅行中は大雪のためシャトルバスが運行されず、歩いて山に登った。幸い、トレッキングシューズを履いていた。8人のツアーのうち半分はリタイアしたが二百三高地までの雪道を滑らないように恐る恐る登った。50回近く海外旅行をしているが旅の厳しさでいえば高山病にかかった数カ国を除いてこの二百三高地が一番厳しい体験だった。まるで修行!?たった5年前のことなのにコロナ禍をはさんだためか遠い過去のように思えてくる。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月3日土曜日

『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』

  『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』(ホンダ・アキノ 平凡社、2023年初版第一刷)を読んだ。この本は最近、地元紙の書評欄で目にして以降、是非とも読まねばと思った。この数年は司馬遼太郎にハマっているが、もっと若い頃は井上靖の西域モノに興味があった。その頃はシルクロードブームでそれにちなんだ本にハマっていた。井上と司馬とは元は共に美術記者出身で後に作家となる。著者であるホンダ・アキノも同じく美術記者出身で二人の美術記者出身の作家に関心を抱いてこの本を書いている。井上と司馬の美術記者時代の記事やそれ以降の作品を引用した著はまるで論文のように思えた。

 読後感は清々しく、二人の辿った場所へ行きたくなる。以下はこの本から気になる箇所を記したものである

★司馬が好んだ「倜儻不羈(てきとうふき)」(独立して拘束されぬこと)の態度を思わせるが、井上についてもっとも言いたかったのは次のことかもしれない。「孔子が『詩経』についていったことばがあります。「思無邪(おもいよこしまなし)」ということでした。井上さんの生涯は、その三つの文字に尽きます」思無邪」とは、単に『詩』とも称される『詩経』三百詩の、私心なく公平で偽ったり、飾ったりすることのない性質を、孔子が一言で評した言葉である。井上が最晩年、『孔子』に取り組んだことにからめての表現であるとしても、司馬自身の美意識と照らして腑に落ちる。井上が司馬に感じ取った「狂気」「憑依」といった、美であれ何であれ、自身がこれと決めた対象への、尋常でないほど無私で無心な向き合い方は、邪念など入る余地はない。まさに「思無邪」そのものだったからである。司馬は自身の井上靖観、あるいは”井上靖物語”の総括のようにこうしるした。「煮つめれば詩になってしまう人でした。それも、晦渋な詩でも厭世的な詩でもなく、人間の連続を信じ、人間の美しさを感じ、生きることの価値を、結晶体にして見つめる詩でありました」(64p)

★井上が感電したように憑りつかれたのはゴヤであった。かたや司馬が自身でも収まりがつかないほど惹かれたのはゴッホであった。ただ井上が惹かれたのはゴヤの成した仕事であり、司馬が惹かれたのはゴッホという人間であった。いずれにしろ自分が放っておけない対象を二人はそれぞれの表現で”再創作”したといえるかもしれない。(114p)

★「日本でただ一人と呼んでもよい本質的な製作者」と美術評論家の坂崎乙郎が鴨居を評したという。その言葉を読むたびに司馬は涙をこぼしながら、以下のように綴った。「煮つめきるということは、結局は自分の体をすこしずつすこしずつ破壊してゆくことにちがいない。鴨居玲、真の意味で自分自身を抽象化――空に昇華――させつづけた。当然、一作ごとに自分破壊がともなう。肉体のほうはたまったものではなかった。かれは心臓をすこしずつ破壊させてゆき、ついに停止させてしまった。かれの全作品は、その生命そのものなのである」

 文学が、人がいかに生きるか。を問うものであれば、司馬にとっての文学は、それ以上に「その人がいかにしか生きられなかったか」であった。意思をさしおいて、時代や狂気は人をそれぞれ、そのようにしか生きられなくする。かなしみを背負ったその姿に司馬は憑りつかれつづけたのではなかったか。(「鴨居玲の芸術」(119-120p)

★歴史上に限らず人間を書くときの、それは司馬の性(さが)といえるかもしれない。昭和三十五年、直木賞受賞後の「週刊文春」のインタビューでこう話している。「結局、人生は自分の心の中にある美意識の完成だと思います」

 『竜馬がゆく』の人間像の造形について、半藤一利氏が「司馬さんは、その美学によって、事実の取捨選択を上手にするのです」(『清張さんと司馬さん』)と指摘しているが、集めた事実や観察から自身の美学(ここでは美意識とほぼ同じ意味合いと考えられる。いわば生きるうえでの哲学といえようか。自分が心から信じられるもの、譲れないものごとを譲らない、許せないことを許さない姿勢であり、その人にしかない価値観や価値基準というように私は解釈している。司馬の場合、自身のことを事々しく述べたてることを嫌う感覚などもその一つ。彼は「自分の心の中にある美意識」に非常に敏感な人であったと思う)にかなう取捨選択は自ずとなされ、人物が造形されてゆく。そして「司馬遼太郎の人物」がうまれる。それがもし自己主張や技術の誇示になれば読み手を疲れさせてしまう。そうならなかったのは、対象への畏敬と愛がつねに真摯にはたらいたからではなかろうか。井上靖に対してももちろん例外ではない。(「おわりにー回り道の恩寵」235-236p

★思えば長い時間をかけて断続的に書いているうちに、シンプルだった二人の美術記者への興味は、二人の生き方への興味へと移っていった感がある。 人はつねに選択と決断と行為をしつづけなければならない。 一度きりの人生をどう生きるか。 それはそのまま、自分の問題としてつきつけられる。 二人の足跡をたどることで、自分はどう生きるのか、結局それを考えたくて書いてきたように思う。 井上靖も司馬遼太郎も、多かれ少なかれ与えられた境遇に縛られ、それぞれの葛藤をへて次の一歩を踏み出したのだ。 やみくもではあったけれど懸命には違いなかったあの頃の自分が少し懐かしくなった。 思いだせばほろ苦いあがきも、無駄ではなかったのだろうか。 (「あとがき」243-244p

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月2日金曜日

「犀の角の如く、ただ一人歩め」

  2,3日、ハッキリしないお天気が続いている。今日は12度の最高気温の予報だ。晴れのマークも出ている。先日、某金庫から届いた「抜粋のつゞり その八十三」を読むと興味ある話がある。その一部をここに記そう。

 「世界遺産をめぐらない旅」と題して佐々木閑が書いている。「仏教には、『犀の角の如く、ただ一人歩め』という言葉がある。多くの動物が群れをつくって暮らすのに対して、犀(特に雄の犀)は一頭だけで暮らすことが多い。林の中を、角を立てながら真っ直ぐに歩いて行く犀の姿は、外界の余計な情報に左右されることなく、ひたすら自己鍛錬に打ち込む修行者の姿を彷彿とさせる。古代インドの修業者たちは、犀の暮らしを手本として、ぶれない真っ直ぐな生き方を目指したのである。」

 「2500年前のインド人修行者たちと現代の私たちを比べてみると、現代の方がはるかに、犀の角のように生きることが難しい。『ただ一人歩もう』と思っても、暮らしの隅々にまで外界からの情報が入り込んできて、なんでもかんでも教えてくれるものだから、一人きりで考え、一人きりで判断することができないのである。」(116-117p)

 これを読んで犀の角が一本とか、よく知らずにいた。というか外国旅行で動物園に行ったことがあっても日本の動物園には全くと言っていいほど行ったことがない。ましてや犀がどんな角を生やしているかなど知らずにいた。この記事を読んでネットで犀を調べると確かに鼻先に角が一本生えている。

 それにしても「犀の角の如く、ただ一人歩め」はすごいことだ。ネットでさらにこの言葉について調べると大谷大学のHPにもこの言葉の詳細があった。

 これを取り上げた佐々木閑は「犀の角の如く、ただ一人歩め」と考えた結果、インドへ「世界遺産をめぐらない旅」のツアーを組んで出かけている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2024年2月1日木曜日

電気炊飯器

 ご飯を炊くのは月に3度くらいしかない。1度にお米4合を炊き、炊きあがると冷凍保存している。昨日お昼前、炊飯器でご飯を炊こうとして電源コードをコンセントに差し込んだ。その時、変な音がした。(壊れた)、と思って炊飯器の電源を見ると案の定、点灯していない。(コンセントが悪い?)と思って他のコンセントで試すもやはり同じだ。

 (さてどこで炊飯器を買おう)、と一瞬迷ったが近くの電気屋でお世話になるしかないと決めてすぐに駆け込む。カタログで注文するのかと思ったら店内の展示品を見せられる。今まで1升炊きの電気がまを使っていた。が、新たな炊飯器は5合炊きでいい。幸い展示品は5合炊きだった。すぐに買うことに決めて家に持ち帰る。

 お米を研いで炊こうとしていた。帰宅後、説明書も読まずに炊飯器に研いだ米を入れてスイッチを入れた。後で説明書を見るとスイッチを入れる前に炊き方がいろいろとある。ただスイッチを押して炊いてしまった。それでも何とかご飯は炊きあがった。

 壊れたタイガーの炊飯器は何年使ったのだろうか。多分20年以上は使ったはず。それにしてもこの近年、近くの電気屋に何度駆け込んだことか。この1,2か月を思いだしても玄関の鍵が外れなくなったり、電気ストーブを買い替えたり、トイレの水が流せなくなったりと何かあれば電気屋に駆け込んでいる。そして今回の炊飯器だ。

 壊れた電気がまを市の大型ごみに出そうと電話で予約すると250円とのこと。昨日は一日中、雨の日で運動不足になっている。すぐにコンビニに行って大型ごみのチケットを購入する。ついでに日本画用にと写真1枚をA3にカラーコピーした。

 何もない穏やかな日々に起きるちょっとしたハプニング。何もない毎日がどれほど幸せな事か。改めて気付かされる。それにしても電気炊飯器、高くなった!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!