2024年2月9日金曜日

『尻啖(しりくら)え孫市』(下)

 『尻啖(しりくら)え孫市』(下)(司馬遼太郎 角川書店、平成二十年改版初版)を読んだ。いつもの如く気になる箇所を記そう!

★こんにちの本願寺は、ながい歴史をもちすぎた。全国に、なお二万の末寺がある。それらの多くは、他の宗旨とともに「寺に僧の形をした者がいる」というだけの形ばかりのものになった。しかし、小みちと孫市のころはちがう。これほど新鮮な、これほど刺戟的な、これほど深い教えはなかったし、人々もこの教えによって生気を持ち、この教えのために殉じた。強烈な思想だったのである。むろん、いまでもこの親鸞の思想はいささかも古びてはいない。ただ、説く教職者がこんにちの人に訴えるだけの力をもっていないだけのことである。(88p)

★秀吉が天下をとったとき、信長とはがらりとちがった態度で本願寺を保護し、京都に広大な土地をあたえて本山を誘致している。秀吉の次に天下をとった家康はもっとずるかった。本願寺は眠れる獅子でいつ反乱を起こすかもしれぬと思い、真二つに割って東西両本願寺を対立させ、互いに相反目させ、それをもって勢力を殺(そ)いだ。この政策は徳川家安泰というためにはみごとに図にあたり、徳川三百年を通じて両本願寺は仲がわるく、幕末にも「お西様」が勤王なら「お東様」は佐幕というぐあいに対立し、現在でさえ、家康の「奸謀」が生きいきと生きつづけて互いに仲がよろしくない。二つの朝鮮、二つの中国のような 悲劇である。(130p)

★いま孫市は、門徒としてえりがみをつかまれている。(人間、来るべきでない場所がある。それは心が欲せぬ場所だ)そう思うと、自分が自分で情けなくてぼろぼろ涙がこぼれてきた。(場ちがいな場所におれは来ている)感情過多なほうだから、こうなるととめどもなく涙が出てしまう。孫市が現今(いま)の世の日本語の語彙をつかえるとすれば――俺は自由を愛した。たれにもおさえられず、たれにも命令されずに生きてきた。信長が仕えよ、といったのに従わなかったのも自分の自由をうしなうのがいやだったからだ。それが本願寺に味方した。意外にもここに僧侶という命令者がいた。孫市は涙をぬぐった。(134p)

★そんな孫市を法専坊信照はよくわかっているつもりであった。(あの男はときどき独りになりたいのだ)けものにたとえると、群れで歩く羊や鹿のような男ではない。人に懐くいぬのようでもない。人間のくせに、人間と群れて暮らすのがいやなたちらしいのである。そのはずだ。紀州雑賀郷七万国の御曹司にうまれていながら、女選びと称して他郷をウロウロ歩いていた男だ。なるほど女は好きかもしれないが、それは半ば口実で、一人っきりで生きてゆくのがすきな男にちがいない。(163p)

★孫市には信長の歴史的使命など理解できない。信長は戦国型の英雄豪傑というよりも、むしろ革命家といったほうがいい。なぜならば、単に領土的野心で征服事業に驀進(ばくしん)しているのではなく、この男は、前時代的な権威を徹底的にぶちこわそうとしていたことだ。信長よりもすぐれた戦術家だった上杉謙信、武田信玄は、この点ではただの人にすぎない。むろん信長のあとであらわれた秀吉、家康などもこの点で信長にははるかに及ばない。信長は「近世」を開こうとした。そのために「中世」の亡霊ともいうべき神仏を退治することからはじめた。神仏どもがその宗教的権威のうえにあぐらをかき、富を貯え、軍事力を養い、大名以上の暴威を地上にふるっていることが信長にはゆるせなかった。この憎悪が叡山の僧俗三千に対する虐殺になってあらわれ、伊勢長島の本願寺門徒二万余に対する焼き殺しになってあらわれている。「魔王」としか見えなかった。信長に対し、革命児、合理主義者、とはたれも見てやらず、信長自身も、自分の歴史的地位をそれほどにまで思わなかったであろう。(240-241p)

★毛利氏は、家祖元就以来、瀬戸内海の海賊を手なずけ、能島(のしま)、因島(いんのしま)、来島(くるしま)の海賊どもは毛利を主家とし、信長といえども海上に対しては何の支配権もなかった。この毛利水軍、雑賀水軍が協力した。いっぽう、織田方の水軍は、やはり瀬戸内海の塩飽(しあく)列島に根拠地をもつ塩飽海賊で、この海賊衆の特徴は船がひどく大きい。唐船(からぶね)様式なのである。(258-259p)

★「あっはははは」孫市は、星空を吹きとばすほどに笑った。「信長めに、とうとうわが尻を啖(くら)わしたぞ」啖わしたところで信長から一寸の土地を奪ったわけではないが、ただ天下の織田信長に痛撃をくらわしたことだけが、孫市という男の快事なのである。(374p)

 朝から日差しがまぶしい。いいお天気になりそうだ。元気を出して泳ぎに行く!?

 十あれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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