2024年2月3日土曜日

『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』

  『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』(ホンダ・アキノ 平凡社、2023年初版第一刷)を読んだ。この本は最近、地元紙の書評欄で目にして以降、是非とも読まねばと思った。この数年は司馬遼太郎にハマっているが、もっと若い頃は井上靖の西域モノに興味があった。その頃はシルクロードブームでそれにちなんだ本にハマっていた。井上と司馬とは元は共に美術記者出身で後に作家となる。著者であるホンダ・アキノも同じく美術記者出身で二人の美術記者出身の作家に関心を抱いてこの本を書いている。井上と司馬の美術記者時代の記事やそれ以降の作品を引用した著はまるで論文のように思えた。

 読後感は清々しく、二人の辿った場所へ行きたくなる。以下はこの本から気になる箇所を記したものである

★司馬が好んだ「倜儻不羈(てきとうふき)」(独立して拘束されぬこと)の態度を思わせるが、井上についてもっとも言いたかったのは次のことかもしれない。「孔子が『詩経』についていったことばがあります。「思無邪(おもいよこしまなし)」ということでした。井上さんの生涯は、その三つの文字に尽きます」思無邪」とは、単に『詩』とも称される『詩経』三百詩の、私心なく公平で偽ったり、飾ったりすることのない性質を、孔子が一言で評した言葉である。井上が最晩年、『孔子』に取り組んだことにからめての表現であるとしても、司馬自身の美意識と照らして腑に落ちる。井上が司馬に感じ取った「狂気」「憑依」といった、美であれ何であれ、自身がこれと決めた対象への、尋常でないほど無私で無心な向き合い方は、邪念など入る余地はない。まさに「思無邪」そのものだったからである。司馬は自身の井上靖観、あるいは”井上靖物語”の総括のようにこうしるした。「煮つめれば詩になってしまう人でした。それも、晦渋な詩でも厭世的な詩でもなく、人間の連続を信じ、人間の美しさを感じ、生きることの価値を、結晶体にして見つめる詩でありました」(64p)

★井上が感電したように憑りつかれたのはゴヤであった。かたや司馬が自身でも収まりがつかないほど惹かれたのはゴッホであった。ただ井上が惹かれたのはゴヤの成した仕事であり、司馬が惹かれたのはゴッホという人間であった。いずれにしろ自分が放っておけない対象を二人はそれぞれの表現で”再創作”したといえるかもしれない。(114p)

★「日本でただ一人と呼んでもよい本質的な製作者」と美術評論家の坂崎乙郎が鴨居を評したという。その言葉を読むたびに司馬は涙をこぼしながら、以下のように綴った。「煮つめきるということは、結局は自分の体をすこしずつすこしずつ破壊してゆくことにちがいない。鴨居玲、真の意味で自分自身を抽象化――空に昇華――させつづけた。当然、一作ごとに自分破壊がともなう。肉体のほうはたまったものではなかった。かれは心臓をすこしずつ破壊させてゆき、ついに停止させてしまった。かれの全作品は、その生命そのものなのである」

 文学が、人がいかに生きるか。を問うものであれば、司馬にとっての文学は、それ以上に「その人がいかにしか生きられなかったか」であった。意思をさしおいて、時代や狂気は人をそれぞれ、そのようにしか生きられなくする。かなしみを背負ったその姿に司馬は憑りつかれつづけたのではなかったか。(「鴨居玲の芸術」(119-120p)

★歴史上に限らず人間を書くときの、それは司馬の性(さが)といえるかもしれない。昭和三十五年、直木賞受賞後の「週刊文春」のインタビューでこう話している。「結局、人生は自分の心の中にある美意識の完成だと思います」

 『竜馬がゆく』の人間像の造形について、半藤一利氏が「司馬さんは、その美学によって、事実の取捨選択を上手にするのです」(『清張さんと司馬さん』)と指摘しているが、集めた事実や観察から自身の美学(ここでは美意識とほぼ同じ意味合いと考えられる。いわば生きるうえでの哲学といえようか。自分が心から信じられるもの、譲れないものごとを譲らない、許せないことを許さない姿勢であり、その人にしかない価値観や価値基準というように私は解釈している。司馬の場合、自身のことを事々しく述べたてることを嫌う感覚などもその一つ。彼は「自分の心の中にある美意識」に非常に敏感な人であったと思う)にかなう取捨選択は自ずとなされ、人物が造形されてゆく。そして「司馬遼太郎の人物」がうまれる。それがもし自己主張や技術の誇示になれば読み手を疲れさせてしまう。そうならなかったのは、対象への畏敬と愛がつねに真摯にはたらいたからではなかろうか。井上靖に対してももちろん例外ではない。(「おわりにー回り道の恩寵」235-236p

★思えば長い時間をかけて断続的に書いているうちに、シンプルだった二人の美術記者への興味は、二人の生き方への興味へと移っていった感がある。 人はつねに選択と決断と行為をしつづけなければならない。 一度きりの人生をどう生きるか。 それはそのまま、自分の問題としてつきつけられる。 二人の足跡をたどることで、自分はどう生きるのか、結局それを考えたくて書いてきたように思う。 井上靖も司馬遼太郎も、多かれ少なかれ与えられた境遇に縛られ、それぞれの葛藤をへて次の一歩を踏み出したのだ。 やみくもではあったけれど懸命には違いなかったあの頃の自分が少し懐かしくなった。 思いだせばほろ苦いあがきも、無駄ではなかったのだろうか。 (「あとがき」243-244p

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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