2024年2月12日月曜日

『ビジネスエリートの新論語論』

  『ビジネスエリートの新論語論』(司馬遼太郎 文藝春秋、2016年第1刷)を読んだ。この書は福田定一名から司馬遼太郎になる頃に書かれている。本の後半に「あるサラリーマン記者」というテーマで「私は、新聞記者(産業経済新聞社)である。職歴はほぼ十年。その間に、社を三つ変わり取材の狩場を六つばかり遍歴した」とある。ということはこの本が書かれたのは司馬遼太郎がサラリーマンとなって10年目くらいのことになる。

 司馬がサラリーマンになったのは「昭和二十年の春、私はスリ切れた復員外套のポケットに手を入れて、大阪の鶴橋から今里の方向にむかって進んでいた。目的はたしか、わずかな復員手当の中から、靴を購(もと)めたいと闇市を物色して歩いていたのだ。めっぽう、ハラが減っていたのを覚えている。屋台をのぞいて、ふた切ればかり、焼イモを買いもとめ、一切れを二分ばかりで嚥下した。そして靴である。……今里の闇市をひとまわり物色してから、猪飼野闇市の方角に転針しようとしたはずみに、私は一本の焼け電柱に気づいた。いや、電柱にではなく、その電柱に貼ってあるビラにである。……注目すべき二字は『募集』という文字なのである。……そのとき、私の肩ごしに顔をのぞかして、とつじょ、声を発した男がある『記者募集――』驚いてふりむくと、冬も近いというのに、海軍士官の夏服を着ている。一眼見て。私と同じ復員学生とみてとれた。」(177p-178p)

 この二人は採用条件に見合わなかったにもかかわらず強引に話を決めて記者として採用される。しかし、その後すぐに社を辞める。ところが二人してまたも京都の新興新聞に手づるを求めて採用試験を受けて二人とも採用された。この時代、活字のない真っ白な新聞紙を読者は欲していた。その矢先、新聞用紙の配給を廻ってもめていた。「当時、新聞用紙の配給権をニギッっていた日本新聞協会事務局へ『オソレながら』と例の用紙横流しのヒミツを訴え出たのである。当然、用紙の配給は止まった。」(186p-187p)

 活字の新聞紙よりもトイレの紙になる真っ白な用紙を国民は求めていた。そのため真っ白な用紙は4割増しの値になった。

 用紙がなくては記事は書けない。おのずと会社はつぶれた。しかし、当時の新聞記者採用は現在の新卒一本やりでなく「働けそうな他社の記者を引き抜くという採用制度と不可抗力な理由で失職した記者を拾い上げるという美習」(188p)があった。「時代は、新聞記者に対して良き意味でのサラリーマン記者たるよう要請している。野武士記者あがりの私なども、昭和二十三年春現在の社に入って以来、記者修行よりもむしろその点にアタマを痛めることが多かった。しかし、スジメ卑しき野武士上がりの悲しさ、どうも無意味な叛骨がもたげてくる。そいつを抑えるのに苦しみ、苦しんだあげく、宮仕えとは、サラリーマンとはいったい何であろうかと考えることが多くなった。その苦しみのアブラ汗が本書であるといえばいえるのである。」(189p)

 この後に「司馬遼太郎」が誕生する。が、これについてはこの書の最後に「『司馬遼太郎』誕生のころ」として司馬遼太郎記念館館長の上村洋行が書いている。

 ほかにも気になる箇所を以下に記そう。

★老化をふせぐためには、常にコンニチの世界に生きることが必要だ。老先輩の話を聞いてその体験から知恵をひきだすのはたしかに大事なことだが、前時代の余香の匂いまで移り香されてはこまる。先輩の知恵を厳密に選鉱するとともに、いつも二十代の社員の世界に感覚の足場を置いておくことを忘れてはなるまい。「人生の真の喜びは、目下の者と共に住むことである」――サッカレー(109p-110p)

 この本は司馬遼太郎のエッセイである。司馬遼太郎の本はほぼ小説や「街道をゆく」シリーズを読んでいる。が、この本をきっかけにさっそくエッセイである『司馬遼太郎が考えたこと』シリーズを予約した。これは15巻ある。なぜかその12巻が予約できた。まだまだ読まねばならない司馬作品は多い。まるでライフワーク!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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