2021年12月27日月曜日

『新装版 播磨灘物語』(三)

 今朝は薄っすらと雪が降っている。雪が積もるほど降ることはあまりないので雪を見るだけで寒くなる。こんな日は家でおとなしく本を読む、と思いたい。が、今日はこれから友だちとランチを楽しむ。

 以前に読んだ『新装版 播磨灘物語』(三)(司馬遼太郎 講談社、2014年第36刷)。以下は気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★官兵衛は少年のころから藤兵衛に仕え、骨を砕いて尽くしてきた。日常、主家のために良かれとのみ思い、強引に説いて織田家に属したのも毛利についていれば亡びを待つのみだと思ったからである。人の主たるものが、人間の情としてそういう家来を殺すということがありうるだろうか。官兵衛はふとそういうことを想いつつも、まさかと打ち消した。官兵衛を殺す者があるとすれば、それは荒木村重である。村重は自分の意志でやる。まさか藤兵衛が村重に、官兵衛があなたの許に行ったらどうか殺してくれ、と要請するとは思えない。官兵衛はこのあたり、小寺藤兵衛という男を見誤っていたであろう。(32-33p)

★「これは摂津守の言葉でござるが」と、加藤が告げたことは、悪く思ってくれるな、御着の小寺藤兵衛どのから、官兵衛を伊丹で殺してくれ、という使者が来た、村重としては殺すに忍びず、このように入牢(じゅろう)してもらった、精一杯の行為と思ってもらいたい、ということであった。……(藤兵衛というお人はそこまでに。……)という思いである。(46p)

★官兵衛は、さとりはじめていた。自然死を村重が待っているとすれば、官兵衛は自分のいのちを励まし励まして、生きつづけてゆかねばならない。堪えがたい環境であったが、(しらみでさえ、生きているのだ)と、官兵衛は思うようになった。……三木城のことも、小寺氏のことも、秀吉のことも、信長のことも考えまい、と思った。生きることのみを思え、と官兵衛は自分に言いきかせた。(108^109p)

★後年、官兵衛はこの時期、藤の花に花占いをしたという話を、家の者に語った。このことはやがて黒田家の草創の神話になり、家臣団の共通の知識になって語り継がれた。けものの檻のようなこの独房にあって、天から降ってきたような藤の蔓に花占いをしている男、という光景は、人間の光景としていかにも凄愴の気がただよう。やがてその藤に鈴のように花房のむれがさがったとき、官兵衛は天が自分を捨てていないことを心から知った。(おれは、生きるるだろう)と、静かにそう思うことができたし、ふたたび娑婆に出て人交わりができることに確信をもった。(135-146p)

★栗山善助にふと洩らして、「自分に似た者が、この世に一人はいる。わしの場合はそれがささえだった」と、いった。竹中半兵衛の才能は、栄達への野心を捨てたところに息づいていた。錯綜した敵味方の物理的状勢や心理状況を考えつづけて、ついに一点の結論を見出すには、水のように澄明(ちょうめい)な心事をつねに持っていなければならない、と官兵衛はつねに考えている。囚われることは物の判断にとって最悪のことであり、さらに囚われることの最大のものは私念といっていい。それを捨ててかかることは、領土慾や栄達欲が活動のばねになっている小領主あがりの武士にはなしがたいことなのである。しかし半兵衛は奇跡のように、その心事をつねに、平然と保っていた。……(こういう変物は、この世で自分だけではない)ということで、ときに淋しさからまぬがれ、また安堵のような気持も持ち、あるいは支えのようなものにもなってきた。半兵衛とは、そういう存在だった。その男が死んだ。(188-189p)

★(天下は、信長を慕うか)慕わないであろう。信長は徳をもって化せねばならない段階にきているのに、逆に満天下の反感を買うようなことをやった。(信長の世は、長くはない)と、官兵衛はおもった。(207p)

★晩年の秀吉は、そのおいの関白秀次の妻子を公開虐殺するというふうに、信長に似た所行をする。もっとも信長の虐殺はかれの思想的もしくは倫理感覚の表現という強烈な側面があったが、秀吉がやった秀次の家族への虐殺は、単に精神の衰弱による物狂いのようなところがあるにすぎない。秀吉においては、そういう晩年の変化があるにせよ、かれは若いころから無用に人を殺すことがきらいで、人間に対して思いやりが深いという定評が、かれを知るひとびとのあいだにあった。(260p)

★播州人としての官兵衛は、秀吉の播州政治をよろこばざるをえない。(さほどの男ではないとも思うが、しかし地下(じげ)の者からよろこばれるという人間は織田家には他にいないのではないか)官兵衛はそう思ったりした。さらにはふと、信長において専制的な苛烈さが前面に出て生きている。そうなれば信長の世はながくつづくはずがないと官兵衛は思い、(あとは、ひょっとするとこの陽気な小男に思わぬ運がめぐってくるのではないか)とも思ったりした。(276-277p)

★平素大声を出さない官兵衛の言動が、黒田家にながく言いつたえられた逸話になり、さらには黒田家の政治哲学になった。官兵衛は盗人に言いわたしたのは罪の量刑だけであり、執行するとはいっていない。また奉行に対して怒ったおは、奉行たる者は赦してやってほしいと頼みにくるのが本筋であるべきなのに、逆に刑の執行をせまるとは何事か、ということであった。戦国期の高名な大名というのは一般に人を殺すことがすくなかったが、人命は尊い、と積極的に、思想として言ったのは官兵衛ぐらいのものかと思える。(304-305p)

0 件のコメント:

コメントを投稿