2021年6月30日水曜日
旅で知り合った人たちは……。
2021年6月29日火曜日
見逃し配信
下関まで講演を聞きに行ったのは1995年放送とあるから今から26年前のことになる。講演で立花は『私のシベリア』は自分が書いた、と話した。いわゆる香月のゴーストライターが立花だった。ゴーストライターという言葉はこの時、初めて知った。再度、見逃し配信で見ると過酷なシベリアへ立花も出かけて追体験している。
昨夜、民間のBSを見ていると立花隆の特集を保坂正康などの出演で放送していた。立花隆、半藤一利、保阪正康はともに講演会をした仲らしい。8月に立花の遺稿集が出版されるとか。その一員に保阪が名を連ねている。この放送でも立花が書物に著したモノ・コト・ヒトなどは実際に会ったり、また実際に体験して文にしている。これはすごい。立花隆の見逃し配信はすべてをまだ見ていない。
話は変わって、昨日はプールへ、と気が向く。(待てよ)、と気持ちが揺らぐ。一昨日、地元の区民文化センターで開催されるはずのコンサートが会場につくと8月に延期となっている。プールの開館も怪しい。電話で確かめると7月2日からオープンで毎日の開館ではないとのこと。自転車で行くか、バスで行くか迷っていたにもかかわらず、休館とは残念。
暑くなりコロナ禍も重なるとプールへ行くだけでも大変。ましてや、しばらく泳いでいない。1度泳げば体力的にも大丈夫と思えるはず。それまでに気合を入れなくてはいけない。頑張れ!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月28日月曜日
「サーカス一家の世界への挑戦を追う!」を見た
一昨夜のNHK・BS「サーカス一家の世界への挑戦を追う!」を見た。番組HPを見ると<サーカス家族 世界一への挑戦 サーカス国際大会「日本人少年の超絶美技!」>とあり、次のように続く。「嵐君は、日本全国を興行して回るサーカス一家の4男坊。私たちは、嵐君一家を3年間にわたって取材してきた。家族が暮らすのは、サーカステント脇に置かれたトレーラーハウス。2か月の公演ごとに移動を続け、子供たちはその度に転校を繰り返す。波乱万丈の日々の中で、嵐君は技を磨いてきた。そしてついに世界最高峰の大会への出場を果たした。最高のサーカスの技とともに、嵐君一家の世界への挑戦を追う。笑いと涙の物語である」と。
嵐君は6歳の頃に見たサーカスの第一人者が演じた芸を見て、13歳の兄とタッグを組んで練習を始める。それから6年後の2020年、13歳の誕生日前夜にモンテカルロで開催されたサーカス・フェスティバルで金賞を受賞した。モンテカルロまでの道のりは厳しく、テレビを見ても子供の演技とは思えないほど圧巻だった。モンテカルロの前にスペインで全世界的なサーカスのコンテストがある。そこで選ばれたものしかモンテカルロへの道はない。
テレビ・クルーは2019年から嵐君一家を追いかける。嵐君は大家族で毎年のように子供が誕生する。父は南米出身のサーカス団員。母は日本人。母が違う嵐君の兄3人と日本人との間に生まれた子供が10人近くいる。まずはスペインへの挑戦。演技する「イカリオス(足芸)」がある。それは兄が下に寝転がって足を上げ、その兄の足の平に嵐君が立って演技する。スペインでの優勝を機にモンテカルロへ行く。母は誕生したばかりの子を日本において嵐君たちとモンテカルロへ。モンテカルロへ行く前、嵐君一家はサーカス団から解雇される。
モンテカルロ滞在中の嵐君は成長期にあり、成長痛と左足の肉離れで出場が危ぶまれる。宙返りなどもあり、足の痛みに耐えられない。大会5日前、医師は嵐君の足の痛みをなくすためテーピングと鎮痛薬を塗りまくる。本番はモナコ大公や王妃の前で上出来の演技を行い優勝した。圧巻だったのは普通は舞台上で「イカリオス(足芸)」の40回の宙返りをこの日は舞台上に10数m高い台を置いてその上で演技をした。それも60回に増やして。ひやひやドキドキのうちに最高のパフォーマンスで演技は終わる。
2時間の番組もあっという間だった。モンテカルロの大会は深夜に及び、午前零時をもって嵐君の誕生日と重なる。13歳だ。2020年2月、モンテカルロでの優勝から凱旋帰国の幸せな絶頂期に襲ったコロナ禍。一家はその前に和歌山県に自分たちのサーカスを立ち上げるため土地を購入していた。そこで、凱旋帰国のサーカスをお披露目しようとしたがコロナ禍でその夢は潰えた。その時、事件が起きた。父が幼い娘を革バンドで殴ったのだ。警察沙汰になった。娘は起訴になった父の事件を取り下げて不起訴にした。このことがあって以降、父は是が非でもサーカス団員に、ではなく、子供が好きな人生を歩ませるという。他の兄弟姉妹はサーカスの演技をするが事件のあった娘は舞台上でなく観客側にいた。将来はサーカス団の社長になると幼い娘は語る。
特殊な世界でなく平凡なサラリーマン家庭に育った。一流と呼ばれる人になるには人にはわからない苦労があるようだ。それにしてもあの嵐君の笑顔は誰が見ても癒されるだろうこと、間違いない!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月27日日曜日
陶芸家から連絡があった!
立花隆の講演会を通じて知り合った陶芸家から電話があった!嬉しかった!ありがとうございます。ここ数年、ご無沙汰気味だったがお互い元気でよかった。そごうデパートでの個展が5年くらい前だとか。その時に会って以来、久しぶりに電話で盛り上がる。
立花の話以外にもコロナの話題がある。コロナ禍さえなければすぐにでも工房へ伺いたい。が、今はそれも自粛!?広島の昨日のコロナ新規感染者は5人と一けた台に下がった。このまま感染者が減り続けることを願わずにはおれない。
コロナ禍が収まれば以前の生活を取り戻せる。と言っても年月だけは過ぎ去り、元通りの自分になれるかどうか怪しい限り。今のところ、気力と体力はまだ大丈夫。秋になったら工房へ伺う!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月26日土曜日
『老いの孤独は冒険の時間』
昨日、<NHK・BS「400年後の真実 慶長遣欧使節の謎に迫る」>がBSで放送されたため、このブログの閲覧数が急に増えた。テレビの影響は本当に大きい。
緊急事態宣言解除後、図書館の閲覧室に入ると、本を読んでいる人は数人もいない。しばし雑誌を眺めて予約の本を借りて帰る。そのうちの1冊が『老いの孤独は冒険の時間』(石川恭三、河出書房新社、2021年)である。母が健在だった頃、著者はお昼の番組に出演していた。みのもんたの番組だった気がする。健康に気をつけていた母は石川先生が出演のその番組を好んで見ていた。
本の裏書を見ると書き下ろしとある。文章が仕上がることを書き上げるという。寝る前になって書き上げた文章をなぜ書き下ろし、というのか気になりだす。今朝、電子辞書で検索する始末。
ともあれ昨日、この本を読み終えた。御年85歳の著者はお元気そうだ。本に頻繁に出てくる話題が週3度通うというスポーツジムの水泳。(水泳……)の文字を見る度、今はコロナ禍でご無沙汰気味の我が水泳を顧みる。来週から日本画教室が始まる。ついでに、というわけではないが体を本来の動きモードにするためにも水泳を再開しよう。以下は気になる箇所からの抜粋。
★目的達成までは前途遼遠だが、何とかしてやってみたいと思って実行していることがある。それは、本当なら『昭和文学全集』(小学館)全三十五巻を読破することなのだが、今の時点ではもはや不可能と思えたので、せめて一人の作家につき一つの作品を読むことに目標を切り替えた。……これから先も、やってみたいことがぽつぽつと出てくるだろう。目前の時間だけはたっぷりとあるので、やってみたいことが出てきたら果敢にチャレンジしようと息巻いている。(30-31p)
(これから先、元気なうちは司馬遼太郎全作品の読破を目指している。読み始めて2年7か月。まだ当分は元気、と思う。長く生きて、これほど一人の作品にハマったことはない。元気を出して全作品を読み終えよう。これが今のささやかな幸せ!?)
★私の根気強さは、長年続いているスポーツジム通い、ベジタリアンに近い食生活、稚拙を承知で続けている執筆、今なおしている語学の勉強、早寝早起きの習慣などに今も細々ながら息づいている。こうして振り返ってみると、私の人生はまさに「運・鈍・根」が鼎となって支えてくれたのだと思われてくる。(101p)
(これをもじっていえば、自分自身も細々と続けていることがある。水泳は10回ほどコーチについて習ったが後は勝手にプールに通って泳いでいる。途中、何年かままならない期間もあったが、何とか続けている。フルートも長い。今はYOU TUBE先生について気ままに吹いている。執筆までとは言えないがブログは13年目に突入した。語学は最近ご無沙汰気味だが司馬作品を読みながら、また別の著者の本もそうだが、わからない文字をノートに書きだしている。他には、日本画。これも習い始めて丸8年になろうとしている。まさか、自分が絵を描く、とは夢にも思わなかった。何でもやってみるに限る。小学低学年の頃、担任の先生から与えられた課題を1年間観察し続けたことから根気がある、と言われた。運動は全くできなくて鈍かった。が、根気はあった)
★私は「言葉」に関心がある。本や新聞や雑誌を読んでいるときや、テレビやラジオなど見聞きしているときなどで、いい感触の言葉に出会うと、いつかその言葉を自分でも使ってみたい思う。……新型コロナウイルスのパンデミックで外国へ出かける状況が大きく変化してしまったし、いつ何が起きてもおかしくない高齢の身であることを考えると、海外旅行に出かけて英語を使う機会はもうないかもしれない。そうはわかっていても、毎朝、英会話のラジオ放送を聴いていて、知らない言葉や気の利いた表現に出会うと、いつか使ってみよう、などと思っている。そんなときは、無意識のうちにマハトマ・ガンジーの言う「永遠に生きるかのように学べ」を実践しているのかもしれない。(188-189p)
(「言葉」というか文章や文字に関心がある。気に入った文や言葉をブログ開始前まではノートに書いていた。今でもそのノートはある。今はブログに投稿する。知らない文字もノートに書き留めている。古い作家の本を読むと(司馬作品もそうだが)知らない漢字が頻繁に出てくる。その都度、読むのをやめてノートに書きだす。その時がちょうどよい眠気防止になるのか本を読んでいても眠くなることはほとんどない)
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月25日金曜日
立花隆の訃報を聞いて
長く生きているとこれまで読んだ本や講演会、そしてメディアなどを通して著名人を知る機会が多くなる。昨日、報道で立花隆の訃報を聞いた。立花隆といえば2度、講演を聞いている。1度目は立花が飛ぶ鳥を落とす勢いがあったころに出かけた下関での講演会。30年くらい前になるだろうか。青春18きっぷで下関まで聞きに行った。行くのはいいが、話が盛り上がりすぎて4時間くらいの講演会になった。NHKのEテレ主催の講演会はシベリア抑留での体験をした画家香月泰男の話だった。
青春18きっぷ利用のため、JRは在来線しか利用できない。広島まで帰るには講演が長引いてその日のうちに戻れない。仕方なく新幹線を利用して帰った。その時、隣に座った人が講演会でもらった同じ袋を持っていた。話しかけると立花隆の講演会を東広島から聞きに来たという。講演会も盛り上がったが帰りの新幹線でも立花隆の話題で盛り上がった。その人は東広島の陶芸家で互いに連絡先を交換してその日は別れた。
後日、陶芸家の工房を訪問した。その当時、陶芸、絵画といった芸術には全く疎く、工房という場所に初めて足を踏み入れた。しばし、立花隆の話で再度盛り上がる。2度目の立花の講演会は今から10年前になる。広島市内の平和公園内にある国際会議場での講演会だった。その時は陶芸家と一緒に話を聞きに行った。当時の立花は立教大学でメディア関係の仕事をしていた。講演会に出かけて、それも同じ人の講演を2度聞く機会は多くない。そのどちらも講演の内容を今でも覚えている。それくらい熱心に話された。
その後も陶芸家とは工房にお邪魔したり、デパートでの個展開催に訪ねたりしていたが、最近はご無沙汰気味。ほぼ同世代を生きている2人。スペインの話でも盛り上がったことがある。その人は若いころスペインの知り合いのところに何か月か滞在されていた。自分自身、2度目の立花隆の講演を聞いた後に2週間、スペインの演奏旅行に同行させてもらった。そのこともあって会えば立花隆やスペインが話題になった。
さらに驚くことに陶芸家の中学・高校時代の同級生や社会人になってから知り合った方々と自分自身の知っている人たちがつながっていたことである。これは本当にびっくりした。世間は本当に狭い。
この何年、会う機会が少なくなった。立花隆の訃報を聞いて今より若かった頃を思い出す。何にでもすぐに夢中になる自分自身が愛おしい。元気が出てきた!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
追記
立花隆の2度目の講演会を聞いたその夜がスペイン旅行の説明会の日だった、と今になって思い出す。
2021年6月24日木曜日
ミニ薔薇が蕾をつけた
東京にいる姪からメールが入る。パンダ好きの姪は双子のパンダ誕生を喜び、上野動物園通いを楽しんでいる。ちょうど出かけた日が双子パンダ誕生の日だったらしく松坂屋でパンダ誕生シールをもらった、と嬉しそうな報告だ。公の職場に勤める姪はコロナ禍で自粛生活を強いられ、体を動かす目的もかねてパンダ通いをしているようだ。
我が家の狭い庭に咲くカラー。今朝見ると濃い赤になっている。そばに咲くガーベラは新たな花をつけた。カラーも3本目が芽を出す。そばに置く鉢植えのミニ薔薇は冬に日本画の人にもらった。一回り大きな鉢に植え替えたところ新たな葉をつけて2つほど蕾をつけている。赤い薔薇がどれほどの大きさで咲くのか楽しみだ。
昨日、日本画の先生からほかの先生の作品展案内葉書が送られてきた。今月末から来月初めにかけて市内の画廊で作品展が開催されるとある。絵の教室も来月から再開される。暑さとコロナ禍で体を動かす度合いが減っている。元のような生活に戻すためにも徐々に体をうごかすようにしよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月23日水曜日
紫陽花
ゴミを出しに行くと隣のいとこと久しぶりに出くわす。2年前にもらった紫陽花が花をつけたと話すと.いとこは今年は花をつけないという。庭を見ると紫陽花のまわりにハランが幅を利かせ、花が全く咲いていない。我が家の紫陽花を、と見せてあげる。玄関前に挿し木した鉢植えの紫陽花が2輪、青い咢をつけている。この青の色は紫陽花を植えている土が酸性のせいだろう。地植えの方の紫陽花は同じ紫陽花を挿し木したのにピンクの咢で咲いている。紫陽花の隣に咲くガーベラとピンクのカラー。カラーのピンク度は徐々に増して濃い赤になった。
今朝の地元紙によると市内でコロナクラスターが3か所発生している。にもかかわらず行政的には民間であるためか業者に休業を要請できないとのこと。食事をする店舗などでは時短要請やアルコーご法度などと厳しい。健康増進のために行くと思われるスポーツ施設でコロナが発生し、それも毎日のようにその3か所から新規感染者が出ている。公の施設では感染者が出ていなくても休館だった。民間施設ではコロナ発生があるにもかかわらず施設を利用する人がいる。これは不思議としか言いようがない。
隣町のプールを利用していた。利用再開はいかに?とネットで調べるとOKのようだ。ただ、前回利用したときもらった6月の利用スケジュール表を破棄してしまった。次に利用するときは電話で確かめよう。とはいっても、プールの再開は気力。体力ともに気合を入れなくては無理かもしれない。どういっても体がなまっている。徐々に水泳モードに気持ちを入れ替えよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月22日火曜日
「蟻の思いも天に登る」
地元紙に101歳の石井哲代さんの記事が掲載された。101歳で一人暮らしだった哲代さんは病気がちとなり、姪のもとに身を寄せていた。ところが、元気を取り戻して再度、一人暮らしを始められた。「パタンと倒れてもその時はその時。それまでは精一杯生きて行こうと思うとります」と哲代さん。この言葉、自分にも言い聞かせたい。「パタンと倒れてもその時はその時」、そう思っていないと楽しく生きていかれない。哲代さんは偉い人、に違いない。
最近、注意して聞くようになった武内陶子の「ごごカフェ」。昨日は宮本輝が出ていた。前回出演時に「アリ」の話が時間切れで終わったそうだ。その続きもかねての出演だった。出演といってもラジオの電話インタビューだ。声を聴いていると武内とのやり取りが面白い。宮本はアリに飴玉を与えると見る見るうちに集まってきて巣をつくる、という。小さいころの体験で知ったようだ。その様子を見ているとアリはずっと働き続けるという。
そう聞いて「アリ」について電子辞書で調べた。「蟻の思いも天に登る」とある。その意味は「弱小な者でも一心に念じれば望みが達せられることのたとえ」とあり、また「蟻の思いも天に届く」、とある。アリがずっと働き続ける、とはこういうことをいうのだろうと勝手に思った。
梅雨の晴れ間というよりもすでに梅雨明とも思えるほど晴れの日が続く。緊急事態宣言解除といえど生活は宣言中とほとんど変わらず。コロナ禍以前のような生活に戻れるか、まだまだあてにはならない。大した活動もせずに日々が過ぎてゆく。こうして歳を取る自分が怖い!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月21日月曜日
「アウシュビッツ 死者たちの告白」
それは<第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所。ガス室跡の地中から“謎のメモ”が見つかった。最新技術で解読したところ、書いたのは同胞をガス室へ誘導する役割や死体処理などを担ったユダヤ人特殊部隊「ゾンダーコマンド」のメンバーだったことがわかった。人類史上類を見ない大量虐殺の陰で“裏切り者”と呼ばれた男たち。密室の中で何が行われていたのか。75年の時を超え、よみがえる真実に迫る>とある。
2021年6月20日日曜日
爽やかな朝
梅雨の晴れ間というにはもったいないような爽やかな朝を迎える。この先1週間もお天気は良さそうだ。コロナ禍がなければこの季節、外へ遊びに行けたはず。だが、今はどこへも遊びに行かれない。
今日で緊急事態宣言が解除され、明日からは県が独自の対策を講じるとか。図書館の閲覧も可能となり、プールも開館となれば少しは楽しみも増しそうだ。図書館は家から徒歩で数分もかからないが、プールは自転車で15分以上かかる。暑い日に自転車でプールに行くだけで運動になる。プールのある場所は隣町。この町はJR自宅最寄り駅から町内循環バスが通っている。ネットで循環バスの時刻を調べるとプールに行くには都合よくなっている。プールが再開されれば循環バスに乗って泳ぎに行く、いいかもしれない。
昨日午前は雨も止み、一日遅れの墓参りをする。今朝の清々しさとは比べられないほどの蒸し暑い中、墓地に向かう。途中、白いカラーの自生地に人がいる。カラーはなく、そばに生えていた紫陽花もない。もしかしたら住宅地になるのかもしれない。墓地に着くと我が家の墓地の入り口に新たなお墓が建っている。墓地が売りに出ていたので買い主が建てたのだろう。我が家の墓地はその墓から奥の5番目にある。が、左隣の墓地2か所は荒れ地のままだ。
清々しい朝もこれから気温は上がりそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月19日土曜日
「お前頑張ったなあ」
2021年6月18日金曜日
今朝のFMから
大雨が降っている。この調子だと雨は一日降るようだ。今日予定のお墓参りは明日に延ばそう。18日は2か月に1度、水道のメーターを見に来る。これは裏口の鍵を開けなくてはいけない。お墓参りと鍵が気になっていたのか変な夢で目を覚ます。
2021年6月17日木曜日
「小さいことを楽しむ人こそ幸せ」
2021年6月16日水曜日
眼科へGO ~
定期的に出かける眼科でワクチン接種の話になった。眼科医はかなりの御年配の女性だ。話ができるほど患者が少なかった。いつもは木曜日の午前、それもお昼前に出かけている。が、昨日は火曜日。なぜか眼科へと足が向く。
眼科へ行く前に友だちから電話がある。コロナのワクチン接種を受けたいものとそうではないものが話をする。話すにつれて嫌な気持ちになってくる。(もうこういう電話は聞きたくない)との気持ちを抑えて電話で話す。旅の話も出る。暑い夏、マスクをつけての旅は耐えられそうにない。緊急事態が解除されても、暑い季節は旅に行く気が起こらない。友だちとの話も次第に熱を帯びなくなる。
気を紛らすには動くしかない。眼科へGO~ となるがここでもワクチン接種の話題だ。この眼科に従事する全員はワクチン接種を終えたそうだ。眼科医は接種後、枕元に解熱剤、水など用意して寝たという。看護師は接種後、何もする気が起きず寝てしまったそうだ。眼科は隣接する町でも行政的には市内に入らない。郡部の方が接種状況は早いようだ。
いずれにしても全く接種する気が起きない。一般的なワクチンは10年の研究を経て実施されている。それなのにコロナワクチンはたったの10か月しか経過せずに打つ。恐ろしくて打つ気が起きない。もしも打つのが強制となればどれくらい怖いことか。自己責任で打つ打たないとのことでこれはありがたい。
話は変わって昨夜の司会者、浜田のお笑い番組。出演者が常識テストをやっていた。見ていてコントよりも可笑しくて思わず声を出して笑った。自分自身も常識はないが、信じられないような非常識続出で笑い転げてしまった。次もあればまた見たい!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月15日火曜日
カラーが咲いた!
挿し木した紫陽花が咲いた |
2021年6月14日月曜日
『関ヶ原』(上)
『関ヶ原』(上)(中)(下)のうち上と中を読み終え、今は下を読んでいる。関ヶ原の戦いを読んでいると信長、秀吉、家康の人となりが少しはわかってきた。この本では秀吉亡き後の跡目争いとなる三成と家康が描かれる。それぞれの謀臣である島左近と本多正信。そばに仕える人との関係性にも三成と家康の性格が表れていて興味深く読む。
読み終えた『関ヶ原』(上)(司馬遼太郎 新潮文庫、平成二十五年第百四刷)の気になる箇所を以下に記そう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★いずれにしても、関ヶ原という史上空前の大事件は、事の起こりを割ってみれば、ふたりの女性のもとで自然と出来た閨閥のあらそいであったといえる。(49p)
★密偵、暗殺などの暗い政治手段は、徳川家の家風にしみついた固有のしみというべきもので、この悪癖は幕末までなおらなかった。(79p)
★秀吉は乱世を一手におさめて史上かつてない統一国家を作った。しかし、その遺児の将来はかぎりなく不安であり、その葬礼は匹夫のそれよりも淋しい。(すべて家康がいるためだ)と、葬儀のことは外征軍への配慮であるとしても、三成の感情ではそう思わざるをえない。(156p)
★家康は、聞き上手である。聞き上手とは、琴でいえばよき弾奏家のようなものだ。老臣正信は、琴である。家康のたくみな爪にかいなでられてこそ、よき音を出す。(161p)
★……黒田如水、浅野長政、加藤清正は、三成を憎むあまりその共通の「憎悪」で徒党をつくり、増田長盛は、臆病で小心な文吏ながら、(清正め)と、このとき以来、いよいよ三成に親しむようになり、両派のみぞは深くなった。行きつくところ、血をみなければ済まなくなるであろう。それを(小気味よし)と見ているのは、家康とその諜臣本多正信であった。「漁夫の利ということがござる」と、あるとき、正信が低い声でわらったことがある。(172p)
★自分は豊臣の家来なのである。ほめてもらうならば太閤にほめてもらいたかった。それも生前にひと言でもほめてもらいたかった。その生前の太閤の人を見る眼を晦ました者こそ、(あの三成ではないか)とおもうのである。清正の子の世へのうらみのすべての原因と元凶は故秀吉の秘書管長であった石田三成であった。(230p)
★島左近がきいているうわさでは、前田利家は論語のなかでたった一つの言葉に感動し、「自分は学問をするのがおそかった。みなも学問をせよ」と若い大名を説きまわっているという。利家の感動した言葉というのは、以テ、六尺(りくせき)ノ弧ヲ託スベシ という言葉であった。左近がおもうに、学者はおそらく利家にこういったのであろう、大丈夫(おとこ)というのはなにをもって大丈夫というか、親友が死ぬときに自分の遺児を託すに足る男のことをいうのでございます、と。(264-265p)
★秀吉にかわって家康が神になった。死後、「東照大権現」という神号がおくられ、その廟所が日光でいとなまれ、殿舎は豪華壮麗をほこった。いまなおそれをほこりつづけている。秀吉が「神」として復活するのは、その死後三百年たってからである。関ヶ原の敗者、島津氏、毛利氏などによって徳川氏がたおされ、維新政府が誕生した。その維新政府の手で豊国大明神の神号が復活し、廟所も阿弥陀ヶ峰のふもとで再建され、豊国神社になった。権力とは功も奇妙なものである。(390-391p)
★とにかく、清正ら七将は、家康の一喝にあって力なく徳川屋敷を去った。この一件は、家康の身に、はかりしれぬ収穫をもたらした。世間は、家康に対する認識をあらたにした。かれが意外にも秀頼想いという点では天下に比類がないということ、つぎに、この老人は、自分に敵意をもつ三成さえかばうほどの大度量であること、さらには、荒大名として知られる七章将でさえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということ――この三つは忽ち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした。(445p)
★三成の佐和山退隠からかぞえて、わずか三日目のことであった。家康の伏見城入りは、京の公卿、大坂の大名、京・堺の町人にはかりしれぬ政治的衝撃をあたえた。つい去年の秋まで秀吉がそこにいた城にすわってしまった以上、事実上の天下のぬし、といった印象を家康にもつようになり、とくに事理にくらい伏見の町人などはすでに政権が家康に移ったかと思い、「天下様」という敬称で家康をよぶようになった。(470-471p)
2021年6月13日日曜日
『伝説のコンサート“松山千春” リマスター版』を見た
<美しく叙情的なメロディーと魅力的な歌声で多くのファンに愛される松山千春は1977年「旅立ち」でレコードデビュー。この番組は、1999年に制作されたスペシャル番組「松山千春 23年目の旅立ち」をリマスターしたもので、かつて映画で共演して以来の仲である中井貴一がナレーションをつとめ、「恋」「ふるさと」「旅立ち」「銀の雨」「大空と大地の中で」など名曲の数々を当時のインタビュー映像とともに送る>。
2021年6月12日土曜日
カラーは咲く!?
我が家の狭い庭に生えるカラー。葉っぱばかり大きくなって花が咲きそうにない。先日、この原因は?とネットで調べると水不足と肥料が足りないとある。それ以来、ジョロに水を入れて撒いている。そして水の肥料を薄めて撒いた。昨日も夕方、水を撒いていると片方のカラーに蕾のようなものがある。今朝は雨。カラーを見に行くと蕾は大きくなっている。このカラーは以前、花屋の植木鉢に植えてあったのを購入した。花の色は赤紫。花が枯れると地に植え替えた。
地植えのカラーは花をつけたことがあった。が、近年は葉っぱだけ大きくなって花が咲かなかった。今年は2本、芽を出し大きな葉っぱになった。今になってやっと花が咲く!?
我が家の狭い庭の横には隣との境界に小さい水路がある。この時季の水路にはずっと先の方まで一面ドクダミが幅を利かせて咲いている。ドクダミもまとまって花をつければお見事、というほかない。抜いても抜いても根性ドクダミは版図をましてゆく。水路だけでなく我が家の庭にもドクダミだらけ。その中に紫陽花とカラー、そして今はオレンジ色のマーガレットも咲いている。緑の葉っぱにマーガレットのオレンジ、ドクダミの白い花、そして紫陽花の花。これに赤紫のカラーが咲けば色とりどりの花になりそうだ。楽しみ!というか湿地を好む花ばかり!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月11日金曜日
109歳のダグニーさん
<最後の入院とその後の回復の後、ダニーは新しい宿泊施設に移動しました。現在、彼女は自分自身をインストールし、新しい環境に適応しています。インターネットの問題や視覚障害や聴覚の問題により、彼女がブログを再開することがより困難になりますが、私たちは全体が最善のために解決されることを願っています。今年の5月8日、彼女が109歳になった日にダニーのアパートを飾った風船の写真と投稿を説明します。8/6 2021 エレナ>(自動翻訳機能による日本語)
2021年6月10日木曜日
「夢のあとに」
また昨日と同じ話題。徹子の部屋に出演した前橋汀子はコンサートのアンコール曲としてフォーレ作曲の「夢のあとに」を演奏するという。これまで前橋汀子のヴァイオリンを2度ほど聞きに行っている。が、アンコール曲がこの曲だったかどうか覚えていない。出かけたときのブログを見ると2017年2月と9月に聞きに行っている。どちらもアンコール曲は「夢のあとに」ではないようだ。
2021年6月9日水曜日
「思い立ったが吉日}
昨日のブログ閲覧数は242件。そのなかで2017年11月22日、「私のヴァイオリン」でアップのブログが185件を占める。まだ増えそうだ。これは昨日、徹子の部屋に出演した前橋汀子の影響が大いにある。名もない我がブログの閲覧者が増えるのはうれしい限り。
昨日の話題で前橋はソ連に留学したために高校を中退している。近年、高校を卒業したいと自宅から自転車に乗って定時制の高校に通った話をしていた。これは本にも書いてある。多分、60代での高校生活だったと思う。50代半ばで大学に入りなおしたので若者と共に学ぶ厳しさや楽しさはよくわかる。とはいえ、すでに世界的に有名なヴァイオリニストが学びなおそうと思ったことがすごすぎる。どんなに有名であろうとこういうことができる人は頭が低い人に違いない。だからこそ、コンサートも常にこの日が最後という気持ちで臨むのだろう。
高校生活の話で体育の時間は見学していたという。大学に入りなおした際、短大時代の単位をつかわず、全部の単位を取得した。その中に体育が必須科目だったらどうしようと思った。1つ上の社会人大学生の人は得意の卓球で単位をとったという。じゃ、水泳で、と覚悟を決めていたら体育は必須科目でなかった。
今にして思えばもしかしたら大学生よりも高校生の授業の方がむつかしいかもしれない。先日のテレビで見た小椋佳も大学卒業後、大学に入りなおしていた。私自身、50代半ばで学びなおした。が、今となっては50代は本当に若い。というか、「思い立ったが吉日」と世間にあるようにナニゴトもやろうと思った時にすぐやる、これに尽きそうだ。それにしても急に暑くなった!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月8日火曜日
紫陽花
梅雨とは思えぬような好天が続く。ただ、庭に咲く紫陽花を見ていると梅雨時季を思わせる。一昨年、2種類の紫陽花が枯れてしまった。隣の家に咲く違う種類の紫陽花を2本切ってもらった。それを鉢植えと地植えに挿し木する。昨年は花をつけなかった紫陽花が今年はどちらも花を咲かせた。1本ほど切って花瓶に活ける。が、まだ活けて2日ほどなのに中央の小さい花がこぼれ落ちる。きれいな紫陽花もこうなると困ってしまう。すぐに活けるのをやめた。紫陽花はやはりシトシト降る雨の庭に咲くのが似合う。
話は変わって昨日の徹子の部屋。美川憲一がゲストだった。話の途中で美川は自転車が乗れないという。コロナ禍で自転車に乗ることに挑戦するようだ。同世代のしかも男性であっても自転車に乗れない人がいる、と知ってびっくり。まだ自転車に乗れなかった頃、自転車に乗れないのは自分だけ、との思いがあった。何が何でも自転車に乗りたくて30代半ばにして挑戦し、乗れた時はうれしかった。それからというもの、いろんなことができる気がしてくる。案の定、夢にまで見た水泳も挑戦して泳げるようになった。
この2つのことは自分にとって(やればできると)大きな自信になった。それ以降、新たにやり始めた海外旅行、フルート、スペイン語、日本画などいくつかある。といっても、自転車と水泳の同時かそのちょっと前に始めた中国語学習はもっと大きな自信になった。すべて今の自分につながっている。
今日の徹子の部屋のゲストは前橋汀子。楽しみ!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月7日月曜日
弩弓
2021年6月6日日曜日
「美輪明宏の”金色の時間”」を聞く
NHKの第一放送(R1というらしい)を聞いているとラジオセレクションとして「美輪明宏の”金色の時間”」の放送がある。テレビは「選」として以前の番組が放送されている。(ラジオもある)と思って聞いた。4月のみどりの日の再放送だ。美輪明宏のナビゲーターで放送が始まる。冒頭、「人間の精神は文化、肉体はビタミン」みたいなことを話した。ビタミン剤としてB、C、Eは毎日摂取している。お陰で肉体は健康。心というか精神のビタミンは文化、この表現に驚いてしまった。言われてみれば精神文化というね。確かに。
生活に潤いをもたらす文化。絵を習ったり、フルートを吹いたり、泳いだり、旅に出たり、人と会ったり、飲んだり、食べたり、しゃべったり……といった楽しいことは今やコロナ禍でできないことが多くなった。外で楽しむ心のビタミン補給はほぼ皆無状態だ。ただ、そんな中でも本はよく読む。これはささやかな精神面のビタミン補給となっているかもしれない。
放送の中で「夜来香」が流れる。これは曲名としての意識しかもっていなかった。ところが夜来香、は蔓植物だそうだ。すぐに電子辞書で調べた。夜来香は中国原産でガガイモ科のつる性低木。芳香をもつ植物として知られる、とある。それで花の名に「香」がつく!?
曲の持つ歌詞の意味も知らずに歌っていた。というか、昔、流行った中国の歌くらいの意識しかもっていなかった。
美輪明宏の言葉を改めてネットで探す。ラジオで聞いたと同じようなことが美輪のHPにあった。以下にその一部を記そう。
<人間は肉体と精神で出来ています。肉体の成長と疲労を補うビタミン剤は過剰なほど補給し過ぎているのに、現代人は精神の方のビタミン剤補給は欠乏している人が非常に多いようです。心の栄養剤は文化です。文学・音楽・美術・スポーツなどに親しみ、美意識を持ち心を明るく穏やかにする、それが心への栄養剤となります……>。2021年6月5日土曜日
『いいかげん、馬鹿』
図書館の予約確保された『いいかげん、馬鹿』(中野翠 毎日新聞出版、2020年12月)を読んだ。2019年10月から2020年10月まで「サンデー毎日」に連載されたエッセイをまとめた本である。著者と同時代を生きている。本の「あとがき」に次のような件がある。
<「老い」は認めているつもり。受け入れているつもり。それなのに……時どき、ハッとする。「あれっ、私、何歳だったっけ!?」と。「あら、レッキとしたバアサンじゃないの。ウソみたい。私、十七歳の頃から全然、成長も成熟もしていないみたい。ちょっと頭おかしいのか?馬鹿なのか?」と。……もう一度、生まれ変わっても、結局のところ、同じ人生を歩みそうな気もする。というわけで、タイトルは『いかげん、馬鹿』ということに――>、とあり、その最後に「コロナ禍による人生初の引きこもり生活の中で――」と締めくくっている。
「あとがき」にあるバアサンの件、非常によくわかる。世にいう高齢者の域に十分間に合っている。カープの負け試合を見るのはやめてこの本を読む。エッセイは読みやすくすぐに読める。が、読みながら「そう、そう」と感心してしまう。
<「仙人というのは山の人と書く(谷の人と書いて俗人ね)」(094p)>の件も読んでいて気づかされる。
<しきりに母のことを思う。母が今の私と同じ歳だった頃、どんなふうだったのかなあ、と。……今や私、その時の母の歳を超えている。……歳を重ねるたび「この歳の時、母はどうだったっけ?」と思うのだが、……忘れっぽくなっているのが……コワイ」(201p)>、もよくわかる。自分自身が何も不安なく楽な生活をしていると思う時、こんな気持ちになる。そして母が怪我をしてすぐに家をリフォームした。それはまるで母のためでなく今となっては自分自身のためであったような気がしてくる。母は何も心配しないようにやってくれたんだ、と思えて仕方ない。
さらに共感する箇所がある。<自分でもトシヨリらしくなってきたなあと感心する(?)のは、墓参りを欠かさないようになってきたこと。……私も墓に向かって心のうちでだが、話しかけている(223p)>、とあるのもうなづける。母が健在だったころは年に1,2度くらいしかお墓参りをしたことがなかった。ところが、母がなくなると49日の間は週に1度、それも明けると月命日にお墓に参っている。その時の天候などでずれは出てもほぼ毎月、お墓に参る。
これから先も中野翠の本を読もう。そういえば、この人、パソコンで本を著さず手書きだそうだ。機械音痴らしい。ブログはWEB上の日記だから手書きでアップは不可能。おのずとパソコン頼みになる。もしも手書きで文を書くとなるとすぐには文になりそうにない。その点、パソコンは思いつくままキーボードの上を手が動く。
話は変わる。昨夜、松本人志のお笑い番組を見た。そのなかで「旅人のうた」の話題になる。この歌を初めて知った。先ほどから中島みゆきの歌を検索するがいい動画が見当たらない。この歌、「旅人のうた」とあるように旅好きとしては暇つぶしもかねて覚える!?いいかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月4日金曜日
『城をとる話』
コロナ禍の緊急事態宣言が20日まで延長された。この間、図書館の整理月間も重なって昨日までの数日間、予約の貸し出しはなかった。今日からそれも終わり貸し出しが始まる。1冊ほど予約確保のメールが入る。ほぼ司馬作品ばかり読んでいる。時に、他の人が書いた本を読むのはいい気晴らしになる。降り続く雨も止みそうだ。これからスーパーと図書館へ行こう。
以下は先日読んだ『城をとる話』(司馬遼太郎 光文社、2002年第2刷)から気になる箇所を記したもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★大人とは、現実の限界を知った者の称だ。子どもとは、それを無視して華麗で壮大な夢を追うことのできる者の称である。人類がはじまって以来、人類を押しすすめてきたいわゆる選ばれたるものは、釈迦にしろ、玄奘三蔵にしろ、織田信長にしろ、上杉謙信にしろ、また数多くの天才的建築家や画家にしろ、すべて大人ではない。あれは子どもの精神を大量にもっていた連中だ、と車藤左はおもっている。(ここで崩れてはいかん)と思うのは、大人の心に侵されてはならぬという自戒であった。(128-129p)
★「あれが男だと思うのよ」つまり、男という生きものの原型のようなものが車藤左だというのである。男の情熱というのは、第三者からみればつねにむなしくばかげている。物ぐるいとしかみえない。その目的のむなしさ、行動がばかばかしくあればあるほど、その、糸口としてひきだし男は、もっとも「男」にちかい男なのだ、とおううは思うのである。(156p)
★(城をとるということは、もともと悪人の仕事なのさ)ひとをどうだますか、ということにかかっている。(181p)
★藤左には藤左なりの理論がある。方途もつかぬときには、考えているよりもむしろ動きまわって敵を攪乱することだ、ということだった。敵は混乱のなかで、ふと隙を見せる。それをこちらが機敏にとらえ、糸口として引き出し、その糸口をたくみに戦術化すればいい。そのために敵を斬る。(203-204p)
★(人生とはなんだろう)という、この楽天的な男にしては、ばかばかしいほどに陰鬱な想念にとりつかれた。(なんのために生きている)前面は崖である。……(おれは疲れているのかな。だからこんなことを思うのか)「疲れているときに物を思うべきではない」というのが、車藤左の少年のころからの信条だった。……ものは白昼陽の照る下で思うべきである。……城をとる、という夢のような計画は、最初樹てたときは藤左なりに理路整然としていた。……藤左は自分に言いきかせた。方法をうしなったとき、人間はその目的にまで疑問を抱きはじめ、つぎには自暴自棄になるものらしい。(逆に、だ)これとは逆に、藤左の最初がそうであったように方法が明快な場合、目的の意味無意味などにはさほど心を用いぬものだ。ときには、――勝てる。と思えば、命をさえ人間は賭けてしまう。人間は、目的に情熱を抱くよりも、方法に情熱をもつものらしい。だから方法を失ったときに、絶望的になるのだろう。……(が、思案をしても思案などは沸かぬ)行動することだ。めったやたらと行動して、行動のなかでなにか思案の火をともす火だねを見つけることだ、と藤左は思った。(222-224p)
★(甲州の武田信玄がそうであった。信玄は若いころ実父を国外に追って政権をうばった男だ。単に実父を殺しただけなら悪人だが、政権をうばい、武田家を相続し、甲州の守護大名となり、士民を撫育し、武威を天下に張ったればこそ信玄は英雄の名をほしいままにした。大悪は大善に通ずるものらしい)と、赤座刑部は考えた。(さればおれがこの城を奪る)……よほどの策をもちいなければ城はとれない。(車藤左を使うことだ)論理は自然、そこへゆく。(288p)
★藤左は、本丸を見あげた。(おれはこの城をとった)そのまき添えを食って何百人の人間が虫のように死んだか、いまの藤左には、それについての感懐はない。おそらく藤左の生がつづくかぎり、それについては、藤左はほんのわずかしか思わないであろう。……かれにひきこまれ、かれの野望のために死んだ亡魂どもが、かれのそういう点を責めることはできない。責められるべきものは藤左ではない。神であろう。なぜならば、神はときどき気まぐれにこういう型の男を地上に生む。人々はその種の男を見ると理性も打算も忘れて礼賛し、熱狂し、ついには乱をおこし、ともどもに破滅してゆく。……藤左は山上にいる。この城のぬしである。が、城のぬしである時間が永久つづくとは藤左はおもっていない。いずれ終わるときがくる。(399-401p)
2021年6月3日木曜日
電話
コロナ禍で思うような行動ができない。それは何も自分だけではなくどの人もそうかもしれない。昨日は夜11時前に友だちから電話がかかる。よく寝る者にとってこの時刻はすでに寝ている。それなのに電話で起こされる。電話も急を要する話でなくコロナのワクチン接種や家族の話にまで及ぶ。寝ているのを起こされ、話も長い。(じゃ、返事は適当に)、と思うがそれもできない。結果、話を途中で切り上げて寝た。
今朝は別の友だちから電話がある。遊びに来るようにと言ってくれる。が、このご時世、遊びに行きたくても今一歩気が乗らない。ましてや相手は体の調子が万全ではない。まずは元気になってもらわないと遊びどころではなくなる。聞くところによると一昨日、ワクチン接種を済ませたとか。2回目の接種が終わったら遊びに来るようにと言ってくれるが、それもさてさて……。自分としてはワクチンを打つ気が全くない。インフルエンザのワクチンもこれまで一度も打ったことがない。
どの人もコロナ禍で鬱憤がたまっている!?それが電話になるのかもしれない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
2021年6月2日水曜日
人生曲線
番組HPによると「母方の曽祖父は明治末、鹿児島下甑島でサンゴ漁で成功。しかし祖父の代で不漁になり、朝鮮半島清津に渡って食品店を始めた。その3軒先が父方の営む米屋で、山梨出身の一家だった。戦争を経て結ばれた両親だが、森さんが小学生の時に別れる。母を助けるため中学を出て働き始めた森さんは、職を転々とするうち思わぬことからデビューする。現在、歌手として活躍する息子たちも父のことを語った。激動の時代を生き抜いた家族の歳月」とある。