2021年6月14日月曜日

『関ヶ原』(上)

 『関ヶ原』(上)(中)(下)のうち上と中を読み終え、今は下を読んでいる。関ヶ原の戦いを読んでいると信長、秀吉、家康の人となりが少しはわかってきた。この本では秀吉亡き後の跡目争いとなる三成と家康が描かれる。それぞれの謀臣である島左近と本多正信。そばに仕える人との関係性にも三成と家康の性格が表れていて興味深く読む。

 読み終えた『関ヶ原』(上)(司馬遼太郎 新潮文庫、平成二十五年第百四刷)の気になる箇所を以下に記そう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★いずれにしても、関ヶ原という史上空前の大事件は、事の起こりを割ってみれば、ふたりの女性のもとで自然と出来た閨閥のあらそいであったといえる。(49p)

★密偵、暗殺などの暗い政治手段は、徳川家の家風にしみついた固有のしみというべきもので、この悪癖は幕末までなおらなかった。(79p)

★秀吉は乱世を一手におさめて史上かつてない統一国家を作った。しかし、その遺児の将来はかぎりなく不安であり、その葬礼は匹夫のそれよりも淋しい。(すべて家康がいるためだ)と、葬儀のことは外征軍への配慮であるとしても、三成の感情ではそう思わざるをえない。(156p)

★家康は、聞き上手である。聞き上手とは、琴でいえばよき弾奏家のようなものだ。老臣正信は、琴である。家康のたくみな爪にかいなでられてこそ、よき音を出す。(161p)

★……黒田如水、浅野長政、加藤清正は、三成を憎むあまりその共通の「憎悪」で徒党をつくり、増田長盛は、臆病で小心な文吏ながら、(清正め)と、このとき以来、いよいよ三成に親しむようになり、両派のみぞは深くなった。行きつくところ、血をみなければ済まなくなるであろう。それを(小気味よし)と見ているのは、家康とその諜臣本多正信であった。「漁夫の利ということがござる」と、あるとき、正信が低い声でわらったことがある。(172p)

★自分は豊臣の家来なのである。ほめてもらうならば太閤にほめてもらいたかった。それも生前にひと言でもほめてもらいたかった。その生前の太閤の人を見る眼を晦ました者こそ、(あの三成ではないか)とおもうのである。清正の子の世へのうらみのすべての原因と元凶は故秀吉の秘書管長であった石田三成であった。(230p)

★島左近がきいているうわさでは、前田利家は論語のなかでたった一つの言葉に感動し、「自分は学問をするのがおそかった。みなも学問をせよ」と若い大名を説きまわっているという。利家の感動した言葉というのは、以テ、六尺(りくせき)ノ弧ヲ託スベシ という言葉であった。左近がおもうに、学者はおそらく利家にこういったのであろう、大丈夫(おとこ)というのはなにをもって大丈夫というか、親友が死ぬときに自分の遺児を託すに足る男のことをいうのでございます、と。(264-265p)

★秀吉にかわって家康が神になった。死後、「東照大権現」という神号がおくられ、その廟所が日光でいとなまれ、殿舎は豪華壮麗をほこった。いまなおそれをほこりつづけている。秀吉が「神」として復活するのは、その死後三百年たってからである。関ヶ原の敗者、島津氏、毛利氏などによって徳川氏がたおされ、維新政府が誕生した。その維新政府の手で豊国大明神の神号が復活し、廟所も阿弥陀ヶ峰のふもとで再建され、豊国神社になった。権力とは功も奇妙なものである。(390-391p)

★とにかく、清正ら七将は、家康の一喝にあって力なく徳川屋敷を去った。この一件は、家康の身に、はかりしれぬ収穫をもたらした。世間は、家康に対する認識をあらたにした。かれが意外にも秀頼想いという点では天下に比類がないということ、つぎに、この老人は、自分に敵意をもつ三成さえかばうほどの大度量であること、さらには、荒大名として知られる七章将でさえこの老人の一喝にあえば猫のようにおとなしくなるということ――この三つは忽ち風聞としてひろまり、世間での家康の像を、いちだんと大きくした。(445p)

★三成の佐和山退隠からかぞえて、わずか三日目のことであった。家康の伏見城入りは、京の公卿、大坂の大名、京・堺の町人にはかりしれぬ政治的衝撃をあたえた。つい去年の秋まで秀吉がそこにいた城にすわってしまった以上、事実上の天下のぬし、といった印象を家康にもつようになり、とくに事理にくらい伏見の町人などはすでに政権が家康に移ったかと思い、「天下様」という敬称で家康をよぶようになった。(470-471p)

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