2021年4月30日金曜日

行く当てのない行楽シーズン

  緊急事態が出ている地域の演奏家はキャンセルの連絡が次々と入るようだ。その合間に動画撮影とある。今回は名曲シリーズのようでYOU TUB先生のアップが待たれる。

 今朝はいいお天気、と思ったのもつかの間、辺りが暗くなる。さすがに今日は雨の予報はなく、お天気となるに違いない。

 GWに出かける当てもない。が、先日出かけた旅行社から、日帰り旅の案内が届く。一日ごとに広島のコロナ感染者が増大し続ける。昨日は県内で76人。増えてゆく数字を見るとどこにも行かなくてもいいとの気持ちになる。といいながらGW明け後、絵の教室も2週続けて休みになる。水泳をするにしてもその後の暇はぬぐえない。どういっても今が一番の行楽シーズン。じっと家にいたくない。

 県立美術館で開催中の南薫造展はすでに見た。安浦にある南薫造の生家が記念館になっている。安浦に出かけたことがないので行きたい気もする。呉線に乗れば1時間で行ける。安浦駅から徒歩で15分歩くとか。予定は未定、さてどうしよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月29日木曜日

降り続く雨

  昨日から今日にかけて降り続く雨。GWに突入の割にはお天気が良くない。カレンダーを見ると明日だけ休めば7連休。もうとっくに現役を引退して毎日がGWの日々を過ごしている。こういう身にはGWも関係ないかもしれないが……。

 今朝はパソコンの調子がよくない。というか、起動を待たずしていろいろとパソコンを触るのがいけないのだろう。やっと今、パソコンは順調に動き出した。もしも孤島に何か一つを持って行っていいと言われればパソコンがいい。それくらいパソコンは自分の一番の友である。ちょっとしたテレビの見逃しもパソコンで見られるし、ニュースもネット記事がある。青空文庫を見れば本も読める、とパソコンで用は足りる。

 降り続く雨。今日は一日中、家でおとなしく本を読む!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月28日水曜日

YOU TUBE先生のブログから

 毎日見ている人のブログにフルートのYOU TUBE先生がいる。今朝も見ると次のようなブログのアップがある。以下はその一部から勝手に引用させていただこう。  

<私自身もこのブログというものを2012年からずっと書き続けてきたけど、
この習慣が私の知能の低下を防いでるような気がする。
でもあんまり活字読まなくなったから関係ないかも。😅
読むのと書くのとで使う脳の領域は違うと思う。
そして実際、活字を読むのが面倒くさくなってる。
コレは、将来やばいぞ…>

 ブログは前のブログ開始が2009年6月。今のタイトルに替えたのが2011年2月。もうすぐブログ開始から丸12年になる。この習慣が知能の低下を防ぐ……、と思ってアップし続けたことはない。が、少しは知能の低下を防いでくれているかもしれない。活字は読まなくなったどころか若いころよりもかなり本を読んでいる。年を取ると本が読めなくなるとの声もある。ところが、視力が悪い割にはどんな小さな文字も読みづらさを感じたことがない。お陰で本が読める。

 読む本は大体4か所から選ぶ。1番目は新聞や雑誌などのメディアを通じて紹介される本。2番目は読んでいる本に書いてある引用や参考文献の本。3番目として図書館の新刊図書検索で探した本。4番目として本屋で見つけた本がある。ただ、4番目の本屋は図書館を利用し始めてあまり出かけることがなくなった。母を介護して忙しかった日々には本をネットで注文してセブンへ受け取りに出かけた。今はネット注文はしなくなったが……。

 最近、もうすぐ読み終える本多静六の『私の財産告白』がある。昭和25年に85歳の著者が書いている。この著者は一度も会ったことがない母の父である私の祖父と同時代を生きた人だ。その人の本をなぜ今知ったのか。多分、何かの本に引用されて感動し、読もうと思ったのだろう。金銭の金額は当時のままで今の金額にするといくらになるか見当もつかない。が、読んでいると今の時代に全く違和感なく読める。この本の予約をしてから手もとに届くまで長くかかった。読んだ後も予約する人が絶えない。今、なぜこの人の本がブームなのだろう。財産をただ貯めるだけでなく、貯めた財産を公に、それも匿名で寄付した。この生き方に多くの人が感銘するのかもしれない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月27日火曜日

2か月ぶりに泳ぐ「

 今年になっての初泳ぎは3月2日。その日以来、約2か月ぶりに泳ぎに行く。急に泳ごうと思いつき、プールの開館も確認せずに出かけた。出かけたのはいいのだが、自転車に乗っている間はマスクをポケットに入れたままにしている。プールに着くと開館していた。よかった、と思ったのもつかの間だ。受付に行こうとしてマスクを探すがマスクがない。自転車に乗っている間にマスクを落としたようだ。

 「マスクを落とした」、と受付の列に並ぶ見知らぬおっさんに話すと「大丈夫よ、気にしんさんな」と言われる。この「大丈夫よ」を聞いて気も休まる。受付でその旨、話すと「いいですよ」とロッカーのカギをくれた。プールで泳ぐ際はマスクはつけない。これがもしもコンサートや美術館だったらマスクなしでは入れない。何しろ、思い付きで出かけたプール。マスクの予備をどこへ行くにも持ち歩かねばならないと肝に銘じる。

 プールに入ると顔見知りに声を掛けられる。(どの人も皆、親切じゃ)と思いながら泳いでいるとほかの人からも声を掛けられる。「明日から1週間、プールは休館よ」と教えてもらう。これに応えて「コロナでまたも閉館?」と聞くとどうもこの場所がワクチン接種の会場となるらしい。

 プールが臨時休館となる際は名刺大くらいの印刷物が受付に置いてある。ところが、しばらく泳がないうちに「プールの利用表」というタイトルのA4サイズの印刷物になっている。泳いでいるとき、その印刷物が置いてあると教えてもらった。水泳300m、水中歩行100mでプールを終えると受付に行く。鍵を返すと利用カードを返却してもらう。その際、係から「〇〇さんは久しぶりね」と気やすく言われる。(何と親切)と思った。どうも係は「プールの利用表」を渡そうとしたらしい。さっきプールで教えてもらった旨、話して開館を出た。

 今日から1週間休館とも知らずに出かけたプール。出かけた昨日は運よく開館していてよかった。そして久しぶりのプールだったが、皆さんに親切にしてもらった。やっぱりプールはいい、と改めて感じる。コロナ禍でもう泳ぎに行けないと思ったこともあった。が、まだ元気で泳ぐことができる。少しずつ泳ぐ距離を元に戻そう。ただ、5月のプール利用表を見ると月の3分の1しか開館していない。毎週月曜日は開館しているので月曜日に泳ぐようにしよう。

 プールと自転車は自分自身の元気のバロメーター。どちらかが欠けても元気でなくなるかもしれない。プールまでの道は結構、車が行き交う大通りであり、かなり気をつけて自転車に乗っている。が、その何分の1かは自転車を押して歩いている。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月26日月曜日

『明治維新の意味』

  『明治維新の意味』(北岡伸一 新潮社、2020)を読んだ。本の裏表紙には次のように書いてある。「明治の国家運営は、何が優れていか?」。

 <かの石橋湛山は明治維新御改革を高く評価した。新政府成立から時を置かず、遷都、廃藩置県、徴兵制、地租改正、義務教育、鉄道・通信の敷設と、矢継ぎ早に実行に移し、西南戦争などの内憂もありながら、憲法制定、議会政治樹立にまで至る。この間のスピード感あふれる政治の実態を、現代の政治学者の眼から生き生きと描き、新たな「明治維新論」を提示する>。

 近代に関心がある。この本を興味深く読んだ。また、いつものように気になる箇所を記そう。

★明治維新は、西洋の脅威に直面した日本が、近代化を遂げなければ独立を維持できないと考えて行った革命であった。筆者もこの立場をとる。そして尊王攘夷という言葉は、次のような意味に解すべきだと考えている。すなわち、尊王とは、大名分国制を廃し、統一した国家としなければ列強と対抗できないという理解が、その根底にあり、また攘夷とは、西洋諸国と並び立つ国になりたいという感情を基礎としていた。尊王攘夷という言葉は、このように中央集権と対外的独立という、ナショナリズムの内外の両側面を直截に示す言葉であったがゆえに、当時の人心に強くアピールしたのであると考えている。(18-19p)

★もっとも成功した革命は、アメリカ独立革命と明治維新であるという見方も提示され、今では多数派となっていると言ってよいだろう。……スターリン体制の実態が知られ、中国の文化大革命に対する失望が広がるとともに、大きな革命がよいことだとする考えは、徐々になくなっていった。(20p)

★武士の身分のまま農業に従事したものや、武士の待遇を受けていた農民もいた。彼らはしばしば郷士(ごうし)といわれた。土佐藩においては、関ヶ原以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣を懐柔するために郷士に取り立てている。土佐では郷士に対する差別が強く、幕府や藩の権威が衰えたとき、郷士から尊王攘夷運動に加わるものが多かった。坂本龍馬、中島信行、武市瑞山などがいる。(30p)

★雄藩を動かすに至った思想やエネルギーは、越前の橋本佐内にせよ、あるいは佐久間象山にせよ、福沢諭吉にせよ、下から噴出したものであった。革命は辺境から起こるものである。(63p)

★江戸開城の直後、薩摩藩洋学校(開成所)の教授、前島密が江戸遷都論なる建白書を大久保に届け、遷都しなくても大坂には衰退の心配がないが、江戸を首都にしなければ衰退する、帝都は国の中央にあるべきだ、大坂は小さく、道路も狭い、江戸は諸侯の藩邸などを使うことができて、官庁を新たに作る必要が少ない、などの理由を挙げていた。大久保はこれに影響され、徳川氏を駿府に移し、江戸を東京にするという案に傾いていく。(89p)

★藩の後ろ盾を持たない天皇制官僚たる木戸、大久保、西郷らのイニシャチブによって、廃藩置県は実行されたのである。……明治四年に断行された廃藩置県こそは、維新革命の性格を決定づけ、またその後の方向を決めるもっとも重要な決定であった。また新政府の本質は攘夷であると信じ、その行方を深い懸念をもって見守っていた福沢諭吉は、廃藩置県を知って、この盛事を見たる上は死すとも悔いずと、狂喜乱舞したという。福沢の『学問のすゝめ』初編は明治二年五月に出ているが、これは、廃藩置県に対する歓迎、興奮から出たもので、この方向を推進したいとして執筆したものであった。(104p)

★一般国民を基礎とする徴兵制度を提唱したのは長州の大村益次郎(一八二五~一八六九)であった。大村は司馬遼太郎の小説『花神(かしん)』で有名になったが、戦前には陸軍建設の祖として知られていた。靖国神社に巨大な像があるのは、そのためである。(111-112p)

★岩倉使節団ほど大規模なものは例を見ない。……興味深いエピソードの一つは、一行が、まだ工事中であった新橋ー横浜間を鉄道に乗ってから出かけたことである。海外で、日本には鉄道があるかと尋ねられるだろう。そのとき、もちろんあると言うために、彼らは乗ったのである。(137p)

★私はこの大久保の衝撃を、安政六年(一八五九年)、開港直後の横浜を訪れたときの福沢諭吉の衝撃と比較したいと思う。死ぬほど勉強してきたオランダ語が通じなかったときの福沢の衝撃は想像にかたくない。しかし福沢は立ち直って。英学に挑んだ結果、僅か半年で咸臨丸に乗るという幸運に恵まれた。大久保は、英仏の文明に巨大な衝撃を受けたが、やはり立ち直って、近代化の課題に全身で取り組むようになるのである。(142p)

★西郷は、つねに、最前線で危機に立ち向かい、兵士とともにあることで、兵士の信頼を得てきた。第一次長州征伐の際の和平交渉など、その例であった。兵士たちの絶対の信頼を得てきた西郷にとって、彼らを裏切ることはできなかった。自分を慕う仲間を裏切ることなく、しかし同志である大久保の国家建設を妨害することもなく、戦士の同胞の思い出の中に死んでいくことが、西郷の希望であったと私は考える。これは、政治的人間である大久保と、非政治的・宗教的人間である西郷の、決定的に違うところであった。(162-163p)

★かつて征韓論に反対した大久保が、今度は台湾に兵を出し、しかも列強の意向に右往左往したと批判する説がある。それは全くの間違いである。軍事行動には戦略的なものと自衛的なもの、そしてその中間的なものがある。台湾出兵は、その中間であるが、沖縄が日本の一部であることを確認するために行われた限定的な軍事行動であって、昭和期における侵略とは全く異なる。(168p)

★大久保の輿望は政府を圧倒していた。……大久保はまた、努力の人であった。彼の書いた書簡や意見書の数はおびただしい。……大久保は困難に直面した場合の心構えを論じて、「例えば或る目的地に向かって路をゆくに当たり、忽ち行詰りとなったならば、万難を排して踏破するなり、または迂回するなり、臨機に適当な手段を用いなければならぬ。其処で静定の工夫を回(めぐ)らしたならば、必ず何処にか活路が見出されるものである。……行詰まってただ困ったと思うばかりでは、いつ目的地に達し得るやわからぬ。人間は行詰っても、行詰らぬように心がけていなければ大事業は成し遂げられるものではない」と語ったという。(205-208p)

★福沢の「脱亜論」は、あたかもアジアに対する侵略の宣言であるかのように言わることがあるが、そんなことはどこにも書いていない。福沢は「小さな政府論者」であった、版図拡大を議論したことがほとんどない。福沢が最も重視したのは貿易であった。このような「野蛮」な国をテコ入れして近代させるのは無理である、むしろ、こういう国と同類と思われても困る、いわば普通の国として、交際していこうというのが、彼の政策だった。かつて福沢は朝鮮が近代化することを願い、そのために力を傾けた。しかし、その努力が水泡に帰したとき、朝鮮が近いからといって、特別の配慮をすることは必要ない、と言ったのは、極めて自然なことであったように思われる。(253p)

★明治維新以来の政治でもっとも驚くべきことは、日本が直面した最重要課題に政治が取り組み、ベストの人材を起用して、驚くべきスピードで決定と実行を進めていることである。現在の日本は、きわめて閉塞的な状況にある。そのために何をすべきか、簡単な答えはない。ただ、重要な判断基準は、日本にとってもっとも重要な問題に、もっとも優れた人材が、意思と能力のある人の衆知をあつめて、手続き論や世論の支持は二の次にして、取り組んでいるかどうか、ということである。それを明治維新の歴史は教えてくれている。(328-329p)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月25日日曜日

県北の美術館巡り

  外に出かける日は晴れになる。昨日もそうだった。日本画教室の仲間8人で大型タクシーをチャーターして県北にある2か所の美術館に出かけた。安芸高田市にある八代の丘美術館近くに着くとまだ開館前の時刻だった。開館まで近くにある産直市に立ち寄る。市内のスーパーとは違って今が盛りの筍など地域で採れた野菜や柏餅なども並ぶ。ここの柏餅が美味しいとのことで1パック購入。筍も久しく食べていないので買いたかったが持ち歩くのも大変と思ってあきらめる。

 10時、八千代の丘美術館に到着。今回で2回目の訪問だ。この美術館は事務棟のほかに15棟の建物がある。そのうち12棟に芸術家が1年間、1棟すつ貸与されたスペースに自分の作品を展示する。他に3棟あるがこれは企画展の展示棟となっていた。15棟のうち日本画の作品は習っている先生の棟だけ。先生の棟に入ると展示スペースの奥はプライベート空間となっている。何と2階もある。1年を3期に分けて展示し、1期は院展入選作品の展示がある。だが、このように入選作を同時に見ることはなかった。山へと続く道を描かれた作品が多い。100号はあると思える大きな絵。その中にたたずむとまるで自分が山道を歩いているかのような錯覚に陥る。

 プライベート空間の部屋で市内で用意したむさしのお弁当をいただく。棟にはお風呂はないものの各棟、トイレや炊事の設備は整っている。十分ここで寝起きができ、絵も描けるようになっていた。今はここで寝起きする人はいないようだが、以前はいたらしい。

 先生には絵のお話はもちろんのこと、果物や和菓子、そしてお茶の接待までしていただいた。八千代の丘美術館の他の棟も見て回る。この日は他の展示棟には先生を入れて2人の画家がいらしゃった。先生の絵のほかに田村元の老人を描いた作品や田原馨の樹木の作品が気に入る。

 公共機関で簡単に来られそうにない場所なので連れて行ってもらって本当に良かった。八千代の丘美術館を後にして三次で開催中の田中一村展に向かう。世の中、緊急事態云々と騒々しい中、県北のこの美術館周辺はコロナとは無縁とばかりに大勢の人が来ている。駐車場は満杯状態だ。聞くところによると人の多さは美術館に行く人ばかりでなく高校野球の試合をこの辺りでやっていることにもよるらしい。

 気候は春を通り越して夏の陽気だ。「奄美へとつづく道」と題された一村展。南国の樹木の枇榔や蘇鉄が生き生きと描かれている。栃木県出身の田中一村がなぜ奄美にやってきたのだろう。ままならぬ日々がつづく中、行き着いた先が奄美!?この人の作品集を読みたくなり早速、図書館に予約した。絵を堪能後は近くの産直市とワイナリーに向かう。年に1度も食べないソフトクリームを口にする。そしてワインを試飲。

 三次から高速に乗ると1時間で市内に着いた。人の混み具合は市内よりも県北の方が著しい。そして暑かった。暑さと人混みに疲れてしまい、楽しみにしていたBSの大瀧詠一の番組を15分しか見られず寝てしまった。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月23日金曜日

展覧会三昧

  展覧会三昧の一日は終わった。JRに乗って広島駅まで行く。広島駅ビルは解体されている。その様子を見ようと駅表口のバス停に向かう。ところが大掛かりな工事現場は母衣がかけられて見ようにも見ることが出来なかった。バスで八丁堀に向かう。今回の展覧会巡りはいつもと逆パターンで見て歩く。まずは某金融機関10階にあるギャラリーに入る。コロナ禍の中、絵を見るにも検温、消毒、記帳と煩わしい。と言っても係はいたって紳士的な応対だ。

 このギャラリーは春と秋の年2回、1か月間、保有する文化勲章受章者などの日本画を無料で展示する。落ち着いた雰囲気の中、絵を見る。このギャラリーの良さは目がよくないものにとっては絵に近づいて見られるのが嬉しい。絵を堪能後、画材屋によって胡粉と膠を購入。お店の主は相変わらず威勢がいい。

 画材屋を出ると県立美術館で開催中の特別展「没後70年 南薫造 日本の印象派」を見る。「座せる女」、「六月の日」、「夏」などが気に入る。展覧会場は展示が始まって3日目とあって見る人も少ない。ゆっくりと見てゆく。絵を見た後は美術館内のカフェに入る。席に座ると何やら騒がしい。周りを気にせずに座ろうとすると横に座る人が誰だかわかっていないと言って笑われる。某会の会長だ。また、幹事さんもいらっしゃる。このお二人はともに某美術館の元館長をされていた。幹事さんはまた特別展を見ておられないらしく、絵を見た後で再度カフェに戻られた。

 カフェでお昼を食べ、コーヒーを飲む。ところが会長の席と座った席はテーブルが別々になる。幹事さんが戻ってこられても、これまたテーブルが別になる。コロナ禍のため蜜を避けけての座席である。狭いカフェ内で3人が別々に座って話をする。ましてやマスク越しの話だ。さらには3人とも若くない。マスク越しでの話す声は聞き取れず話を聞いていても半分もわからない。しまいには笑いが起きる。会長の我流の手話での話が続くがこれがまたおかしい。

 街に出ると偶然とはいえよく人と出会う。昨日のカフェでの出会いにも驚いてしまった。そしてご馳走にまでなった。会長は日展の小品展を見に行かれるという。その前に美術館地下で開催中の油絵の展覧会を見る。絵の主催者は大きな団体らしく地下ギャラリーをすべて貸し切っての展覧会だった。その後、会長について福屋で開催中の日展小品展を見に行く。ここで会長はある画家とばったり会われた。その人は以前、絵を見て気に入った画家だった。元は金融機関に勤めていた人らしい。日展に入選される画家だけあって素晴らしい絵を描かれている。

 絵を習う前までは絵を見て今ほど感動することはなかった。ところが絵を習っていると絵のジャンルは異なっても絵に対する好き嫌いが顕著になる。それだけ絵を真剣に見ているのかもしれない。

 次の美術館巡りは日本画教室の先生や生徒たち8人で八千代の丘美術館と三次の田中一村展へと続く。八千代の丘美術館は以前に出かけた某会の梨狩りの帰りに、昨日出会った二人の元館長さんたちと見に行っている。某会の会長は今、海外に行かれない状況の中、国内で遊ぶ計画をされている。楽しみだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月22日木曜日

美術館へGO~

  先日、地元紙に友だちの記事が掲載された。碁を旦那さんに習われてご夫妻で仲睦まじく打たれている記事だった。碁を打つ、というから将棋もそうかと思ったら指す、だった。碁は全くわからない。将棋は小学校の頃、いとこたちに教わって将棋を指して遊んでいた。今でも将棋の駒の動きは覚えている。打つ、と言って思い出す。中国語では野球をすることを打棒球、という。野球で打球や乱打、打撃などで「打」を使うのもうなづける。

 今朝もお天気がいい。燃えるゴミを出しに外へ出るとゴミ収集車が2台迫ってくる。たった50m先のゴミ置き場に急いで向かう。収集車の人は親切にも近づいてきて手に持つゴミ袋をを受け取ってくれた。ありがたい。家に帰ってマスクをせずにゴミを出しに行き、収集車の人と話をした、と気づく。たとえ近所であってもマスクをして出る癖をつけよう。

 話は変わって『功名が辻』(三)を読んでいる。昨日、NHKプラスで「知恵泉」を見た。ゲストは舘ひろし。2006年の「功名が辻」の大河ドラマで舘ひろしは織田信長を演じたそうだ。当時の放送は見ていない。が、読んでいる『功名が辻』の出版が同じく2006年の第10刷で本になっている。信長、秀吉、家康の時代の違いを「功名が辻」を読んで大分わかってきた。舘ひろしが信長を不良少年と話したが、今一歩信長の時代が分からない。『功名が辻』(四)を読み終えれば少しは信長もわかるかもしれない。とはいってもこの本は山内一豊とその妻千代の物語。

 今日はこれから美術館巡りに出かける。近いうちに他の2か所の美術館巡りもする。今週は美術鑑賞ウイークとなりそうだ。ただ、広島もコロナ感染者が連日2ケタ台になっている。美術館やギャラリーに出かけてカフェにも立ち寄らずに帰るのは寂しい限り。ここは勇気を出して入るしかなさそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月21日水曜日

『コラムニストになりたかった』

 『コラムニストになりたかった』(中野翠 新潮社、2020年)を読んだ。以前にも著者の本を読んだことがある。本を読むまでは名前から勝手に年老いた男性を想像していた。ところが本を読んでいて同時代を生きている女性と知る。2冊目となるこの本は1969年から2010年代までを書いている。1969年は著者が大学を卒業した年。同時代を生きる者にとって関心をもってこの本を読んだ。著者は年代ごとの資料を保管しているらしくその年に起きた出来事などを書いている。読むにつれて、特に若いころのことについて地方に住んでいる者にとっては都会に暮らす人との生活の違いを見せつけられる。

 とくに都会での大学生活後の話ではその思いが強い。著者と比べて大学、といっても自分の場合は短大だが……。高校時代、大学生活に強い憧れがあった。受験に失敗して希望しない短大に入った。その後、若さを十分生かせないままに30代を迎える。不運を嘆く前にやることがあるはずと思いながら過ごした日々。それから時が経って俄然やる気を出しはじめた30代半ば。それ以降は人生が楽しくなってゆく。そして今に至る。コロナ禍にあっても自分の中では今が一番楽しい!どうあっても若いころには戻りたくない!

 著者は大学卒業後、就職が決まらず、親が務めていた新聞社にアルバイトで入る。そこから仕事を通じていろいろな人たちと知り合いコラムニストになってゆく。読んでいて羨ましかったのは20代で当時はソ連の時代、アエロフロートに乗ってドイツを2か月も旅行していることだ。それも1人でフリーでの旅行だ。初めのうちは途中まで一緒に行動した連れもいたそうだが、それもツアーでなくフリーが羨ましい。

 今の著者は妹夫妻と3人での旅行が多いようだ。同世代を結婚せずに生きている女性。これだけでも親近感がわく。以下は、気になる箇所から抜粋した。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★考えてみれば「恋愛→結婚→出産→家庭」というのは人間社会において根源的な重要事項であり、人間ドラマのみなもとでもあるようなものなのだ。それに関心が薄い私って、いったい何なんだろう。ただ、ハッキリとわかったことは、私は私自身のことについて書くのは苦手だけれど、観た映画や読んだ本、耳にした巷の話などについて書くことには喜びを感じる。おのずから批評性を帯びた文章になるわけだが……専門的知識は乏しいので、気楽で、読みやすさを優先した文章のほうがいい。読者は女の人に限定せず、男の人にも読んでもらえるような文章……というようなことを考えるようになっていた。(101p) 

2021年4月20日火曜日

友だちと

  荒れ模様だった前日のお墓参りを1日遅れで参る。いつも通る道とは反対の道を歩いていると玄関先で掃除をする人がいる。その隣を見ると古い家が解体されて新たに建築中だ。掃除の人に声をかけると1つ下の人だ。近所に住んでいても話すことは全くと言っていいほどない。前に話したのはもう10年前くらいだ。誰かともわからず話しているとお互いを分かりだす。結構、長く立ち話をしてしまった。

 お墓へ急ぐ。前日とは打って変わって穏やかな行楽日和だ。軽いリュックにお花やカメラなどを入れて歩き出す。まるでピクニック気分。お墓に到着。相変わらず砂利石の間から草が生えている。先日、草対策用に塩を購入した。それを持参して草を抜いた後の砂利石にまく。草も生きねばならない。塩に負けるものかと生えると思う。が、気休めに塩をまく。

 根性ある草花は先日の清原氏のツイッターにもあった。それは次のようだ。一部をここに記そう。

「歩いてる途中コンクリートの隙間から一輪だけ咲いてた。いつ踏み潰されるかわからないのに…。……このたんぽぽの強さが欲しい」 

 こういう人を応援したい。人間なんて弱い生き物。何かがあるとすぐに壊れてしまう。皆、頑張れ、頑張れ!

 お墓参りを済ませて神社の方に向かって歩く。途中、100mくらい人家が途絶える。ふと山を見ると藤の花が何mも垂れ下がって咲いている。神社にある公園の藤棚は棚から藤の花はまだ下がっていない。生まれてこの方、同じ町に住んでいても山に咲く藤の花に気づかなかった。きょろきょろして歩くのも悪くない。
 
 神社から下ると友だちの家の前を旦那さんらしき人が掃いている。本来ならば山の方に家がある。が、山の下の実家に住んでいるのだろうか。旦那さんに声をかけると友だちを呼び出してくれた。玄関前で10数年ぶりに立ち話をする。元気そうだった。ここでも長く立ち話をする。

 自分自身が人生で一番ともいえるほど不運の時代、この夫妻には車でよく遊びにつれて行ってもらった。お母さんが3年前に亡くなられて下の方に移ったという。上の方の家にはお花を植えに行くらしい。コロナ禍が落ち着けばまた遊びに行こうと話が弾む。

 近所であっても出会うことはなかなかない。出会った2人は我が家の前をよく通るという。

 久しぶりに出会った、といえばその前の日は久しぶりに2人の友だちから電話がある。1人は旅行の話。もう1人は体を壊した、と笑って話す。電話は「かけほうだい」ではないそうだが、1時間もしゃべっていた。この人も私の不運時代にお世話になった。なった、といっても少々のお世話ではない。自分の中では一番の恩人と思っている。体の故障は外科的なことなので元気を取り戻してくれると信じている。

 自分自身は弱く生まれて人生の前半部分がよくなかった。その間、皆に励まされていた。だが、後半になるにつれて元気を取り戻す。お陰で今は元気。前半部分の人からの励ましを、遅くなってしまったがこれからその人たちに返してゆく!?皆が願う会いたい、遊びたい気持ちはコロナが落ち着くまではどうにもならない。それまでに早く元気になって!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2021年4月19日月曜日

「五島列島コバルトブルーの海と世界遺産をめぐるキリシタンクルーズ」3日間の旅

 2021年4月9日(金)から2021年4月11日(日)までの3日間「五島列島コバルトブルーの海と世界遺産をめぐるキリシタンクルーズ」の旅に出かけた。旅のタイトルどおり行く先々で見かける海はコバルトブルーだった。空を見ればこれまたスカイブルーとお天気にも恵まれる。お米をはじめとして島でいただく魚肉類、椿油の入っているという、うどんなどどれも素晴らしい。とくに五島産米はこれまで出かけたどこよりも美味しい「ご飯」だった。楽しかった旅をここに記そう。今回もまた文が長くなってしまった!

第1日目 2021年4月9日(金)

 FDAの直行チャーター機は広島空港から1時間足らずのフライトで五島福江空港に着陸。飛行中、機長からどのあたりを飛んでいるかの機内アナウンスがある。行きの機内では着陸寸前しか下界が見えなかった。が、帰りの飛行機では飛行中ずっと下界が見えた。機長のアナウンスを聞くと落ち着きある声にホッとする。五島福江空港に無事着陸すると手荷物を受け取り、観光バスに乗る。その前に先日出かけた日帰り旅の添乗員(今回はもう1つの班の添乗員)から「旅を楽しんでください!」と親切に声をかけてもらった。心はまるで外国に来たかのようだ。

五島福江空港到着寸前から見る

五島福江空港

 五島福江空港着陸後、機内預けの手荷物を受け取るとすぐに観光が始まる。今回のツアーは2班に分かれ、私たちのツアーは16名(うち1人参加は8名)で、もう1班は観光地が若干異なるが29名らしい。合わせて50名足らずが84席定員のチャーター機に乗った。機内ではアップルジュースとクッキーが出た。

 初日は福江島を観光する。現地ガイドは大阪出身らしく9年前に奥さんのふるさとである福江島にIターンしたそうだ。まずは鬼岳(おんだけ)に向かう。鬼岳は臼状の高さ315mの火山である。そのため、ここに木は生えない。が、春には全山が緑の芝生におおわれて美しさを増す。冬になると雪が少ないこの辺りでは草スキーが行われるという。五島列島は椿が有名らしく、鬼岳の登り口に椿の種を模したモニュメントがあった。
鬼岳にある椿の種を模したモニュメント

鬼岳

鬼岳にある建物の屋根は台風で破損したまま

鬼岳から見る五島福江空港
鬼岳
 鬼岳の噴火によって溶岩が流れ込んでできた黒い岩肌が続く鐙瀬(あぶんぜ)溶岩海岸に向かう。この岩肌は10数㎞続いている。五島で最も暖かい地らしくフェニックスなどの南国的な植物が繁茂し、いろいろな美しい花も咲いていた。鐙瀬溶岩海岸を観光後、そばにある鐙瀬ビジターセンターでこの地にちなむ映像を鑑賞する。
鐙瀬溶岩海岸入口のフェニックス

鐙瀬溶岩海岸
 昼食はガラス越しにコバルトブルーの海が見える椿茶屋で囲炉裏焼きを頂く。串に刺した丸く太った鯵が金網の上で焼かれている。お品書きを見ると季節の小鉢、地魚海水塩焼き(鯵)、五島美豚海水塩焼き、五島産野菜盛、誹扇貝、五島うどん、五島産米、香の物、五島名産かんころ餅、自家製にがりアイスとある。この中の緋扇貝(ひおうぎがい)は初めて聞く貝の名で初めて食した。熱々の丸々と太った鯵の塩焼きを口に頬張る。至福の時だ。お昼からお腹いっぱいになるほど頂いた。旅の間、五島産米とうどんは食事の度に頂く。
緋扇貝と地魚海水塩焼き(鯵)

  五島産米のむすびはこれまでで最高のご飯!
 食事後、椿茶屋から海を見下ろすと海岸まで行けそうだ。バスが出るまで時間がある。辺りを歩いていると海岸へ降りる道がある。降りていくと途中から下り坂が険しい。集合に間に合わなくなりそうで途中で引き返す。あとで砂浜まで降りた人に聞くと足が砂に埋まって海まで行けなかったそうだ。
椿茶屋周辺の海岸

椿茶屋から海岸を見下ろす
 椿茶屋周辺は若者たちの芸術村なのか薪を炊いて手作りの塩をつくったり、陶芸、民芸品などのお土産屋などが軒を並べていた。
手作りの塩の製造
 バスは井持浦教会堂へ向かう。この教会は聖母マリアが18回出現したという南フランスのルルドの町の洞窟を模して造られている。また、ここは日本最初の霊泉地のようだ。フランスにある本家本元のルルドは10年前の9月、スペイン演奏旅行に同行させてもらったときに訪ねている。井持浦教会のルルドは、さてさて……と興味津々だった。規模はフランスのルルドには及ばないとしてもここに全国からの巡礼団が絶えないそうだ。信者さんにとってはどこであろうと同じく神聖な場所に違いない。
フランスのルルドを模した日本最初の霊泉地

井持浦教会
 井持浦教会から大瀬崎断崖に向かう途中で車窓からある芸術家の描いた絵を目にする。車窓から撮ったのではっきりしない写真となった。
車窓から写す
 バスはしばらく走ると大瀬崎の断崖に着いた。この断崖は東シナ海に突出している。突端にある白亜の灯台は日本の西の海の航海安全を守っている。夕陽の頃には絶景らしい。あいにく夕陽の頃にはこの場にいない。
大瀬崎の断崖

断崖の先端には大瀬崎灯台が見える

大瀬崎断崖から見下ろす
 初日の観光を終えて連泊するGOTO  TSUBAKI HOTELに到着する。ホテルでしばらく休憩後、ホテルそばに建つカンパーナホテルまで歩いて移動する。食事会場はまるで宴会場を思わせる豪華な部屋で大きなテーブルに1人ずつ座って夕食を頂く。旅に出るとビールを、と思ったが食事は豪華でもアルコールを飲むほどにまでならない。ただ、黙々と運ばれてくる食事を頂く。

 「御献立」を見ると附出し(菜の花のからし和え)、造里(地魚六種盛り、妻一通り)、蓋物(地魚の煮付け)、酢の物(黍魚子 きびなごの酢味噌)、替わり鉢(茶碗蒸し)、強肴(五島美豚陶板焼き)、ご飯(五島産米)、留椀(五島うどん)、香の物(二種盛)、水菓子(パイン)、と食べきれないほどある。
造里(地魚六種盛、妻一通り)
 造里を見ても写真以上に刺身一つ一つが大きく、これだけでお腹がいっぱいになりそうだ。
酢の物(黍魚子きびなごの酢味噌)
附出し(菜の花のからし和え)(右)
 
 黍魚子(きびなご)は広島でよく食べる小鰯、と思った。なぜ酢味噌で頂くのだろうと思ったら小鰯でなく黍魚子だった。魚は大好きでいいのだが、次々と運ばれてくる料理を見てまだ運ばれてくる、と思いながらも全部頂いた。さすがに翌日の夕飯ではご飯をスルー。

 夜はホテルでテレビを見る。テレビ番組欄を見るとカープの試合があった。他のチャンネルを触っていると地上波のフェニックステレビは中国語の放送があり、韓国のKBSの放送もあった。中国、韓国に近いから放送するのだろうか。

第2日目 2021年4月10日(土)

 ホテル内のレストランでバイキング形式の朝食を頂く。9時、ホテルを出発。この日は久賀(ひさか)島の観光だ。徒歩で福江港まで歩き、女性ガイドと合流する。ここから世界遺産・キリシタンクルーズが始まる。クルーズ船は思ったより小さい船だ。が、16人のツアーでは十分席に余裕はある。各自、イヤホンガイドを受け取る。しかし、クルーズ船の音が大きくてガイドの声が聞き取りにくい。
 
 クルーズ船の観光は3時間だった。最初に旧五輪教会堂に向かう。船を降りると目の前にコバルトブルーの海が広がる。港近くの海にはゴミが全くない。なぜゴミがない、と不思議に思った。ガイドは波が荒くてゴミは岸壁に寄り付かず沖にさらわれてゆくという。これには驚く。というか海が汚れないのはいいことだ。ただ、いくら海がきれいでも波が荒いため海水浴場以外では海で泳ぐ人はいないそうだ。
旧五輪教会堂の桟橋

旧五輪教会堂(左)と新五輪教会堂(右)
 旧五輪教会堂は久賀(ひさか)島の五輪(ごりん)地区にある。ここは五輪という姓が多いそうだが「ごりん」でなく、本家筋以外は五輪(いつわ)を名乗っている。歌手の五輪真弓は祖父が教会のオルガン奏者、父は敬虔なカトリック信者だった。五輪真弓もここで育ち、島を離れてからも久賀島を何度か訪れているようだ。

 旧五輪教会堂は世界文化遺産に登録された下五島では最古の教会建築。この教会堂は浜脇教会から移築されている。外観は和風、内部はゴシック様式という明治初期の教会建築史を物語る貴重な天主堂である。旧五輪教会堂には28歳の若者が一人、教会守をしている。若者は2年前に東京から信者でもないのに志願してこの島にやってきたという。
旧五輪教会堂

旧五輪教会堂内部

世界遺産の久賀島の集落

新五輪教会堂

旧五輪教会堂前の海辺

旅の間、この花をどこでも見かけた

桟橋横の船に乗ってクルーズした
 久賀島の旧五輪教会堂を後にしてクルーズ船に乗って同じく世界文化遺産のある奈留島(なるしま)に向かう。奈留島の江上集落にある江上天主堂はクリーム色の外壁に水色が塗ってある窓枠がアクセントになっている。1918年の創建。
江上天主堂

世界遺産奈留島の江上集落

廃校となった江上小学校跡地に建つ記念碑
 江上天主堂を見学後、クルーズ船乗船までしばらく歩く。目にする海はどこまでも青い。時に車も行き交い、バス停もあった。海の護岸には雁木がずっと向こうまで続いていた。
目の前に広がるコバルトブルーの海

護岸の雁木が続く

バス停
 クルーズ船で上陸できないキリシタン洞窟を目指す。ガイドは削り取られた山肌が辺野古の埋め立て地に使われていると話す。一つの島だけでなくほかの島も削られていた。今もそれは続いているようだ。キリシタン洞窟は明治初期のキリシタン弾圧を逃れた信者が隠れ住んだと伝えられている。船上から洞窟にある十字架とキリスト像を見ようとする。が、船から落とされそうになるのでデッキに出られず写真に撮れなかった。
削り取られた山肌
キリシタン洞窟
 クルーズを終えて福江港に到着。昼食は五島名物手延べうどんを頂く。うどんだけかと思ったらお刺身もついていた。他にも天ぷら、五島産米のおにぎり、小鉢もつく。お膳の右横に置いてある道具でうどんをすくって頂いた。
五島うどん手延べうどんセット

手延べうどん

お刺身もついていた

昼食を頂いたお店
 ここで初日のガイドと合流する。予定にはなかった明星院を案内するという。明星院の住職夫人は弘法大師がこの地から唐に渡り、またこの地に帰ってきたお話を本堂内で数十分間、話される。空海に興味があるのでこの辺のことはまた後日、本を読んで調べよう。
明星院本堂 

明星院本堂

明星院庭園に掲げらた弘法大師の碑
 明星院を後にして武家屋敷通りに向かう。その間、車中でガイドと添乗員がしきりに五島市エリアにある五島観光資料館見学後、解散して各自フリータイムを取るという。前夜からフリータイムに明人堂と六角井戸を見に行こうと思っていた。五島市内のパンフを手にしてガイドに徒歩で行けるかどうかを尋ねる。ホテルに戻ってそこから川に沿って歩くとわかりやすい、とガイドに教わる。五島観光資料館内で五島にまつわる映像鑑賞後は解散となる。とりあえずこれ以上の資料館見学をやめてホテルまでバスでもどり、地図を片手に歩きだす。
五島観光歴史資料館
 地図を見ると観光地を歩くメイン道路は赤で色付けしてある。道路も同じく赤が施されている.赤い道に沿ってしばらく歩くと街路樹に駕籠がぶら下げてある。日本ではあまり見かけない光景だ。青い駕籠の中を見ると魚の切り身が入れてある。干し魚にするのだろうか。さらに進むと「とうじんばし」と書いてある橋に着く。「とうじん」、とは「唐人」だろう。橋の上を男性が散歩している。声をかけて「明人堂はどこ?」と尋ねると近くまで連れて行ってくれた。
駕籠に魚の切り身が入れてあった「

とうじんばし
明人堂
 明人堂はひっそりと建っている。狭い堂内には誰も観光客はいない。まさかこの建物の主役となった王直がこの時まで倭寇の親分とは梅雨知らず。偉い人だとばかり思っていた。
明人堂内に掲げられた王直
 電子辞書で王直を調べると中国、明の海寇の首領、密貿易商社。……とある。ポルトガル人により初めて日本に鉄砲がもたらされたようだが、もしかすると王直が密貿易で斡旋した鉄砲かもしれないとの説もあるらしい。明人堂の中に入ると王直の写真などがあった。明人堂を後にして六角井戸に向かう。途中、人に場所を尋ねるがわからない。犬を飼っている家の前を通ると2匹の犬がけたたましく吠える。しばらく歩くとまた犬が吠える。同じ道を歩いていたようだ。

 道を聞こうにも誰も歩いていない。仕方なく赤く塗られた道に戻る。人がいた。場所を教えてもらうがわからない。ずんずん進んでいくとやっとそれらしきところに出た。六角井戸だ。これは中国、明との貿易が盛んな頃、中国人が造った井戸だった。六角井戸と先ほど出かけた明人堂は中国大陸との往来を物語っている。
六角井戸
 五島観光歴史資料館で皆と別れて1人、明人堂と六角井戸を捜し歩いた。来た道を帰ればいいものを近道を歩いているうち、どこにいるのかわからなくなる。またも人に聞いて皆が行くと言っていたコンビニまで歩く。赤い道を下れば行きつくらしい。赤い道は両側ともアーケード街だが、大半のお店は閉まっていた。
両アーケード街はシャッター通りだった
福江城跡
 コンビニに着くとツアー客は誰もいない。お店の棚を見てもほとんどの品物が売り切れている。すぐにお店を出て今来た武家屋敷通りを歩くと福江城跡の門が見える。道行く人にホテルを聞くとすぐ先に大きなホテルがあった。1時間余り、福江の町を歩いていたようだ。

 夕飯は前夜と同じく歩いてすぐのホテルで頂く。テーブルに置いてある「御献立」を見ると付きだし(オードブル)、蓋物(温野菜サラダ)、替わり鉢(彩り饅頭)、強肴(五島美豚ソテー&五島ステーキ)、ご飯(五島産米)、留椀(白出汁)、香の物(二種盛)、水菓子(グレープフルーツ、キウイ)とある。料理は一品ずつ運ばれてくる。この夜はメインディッシュがお肉なので赤ワインを頂く。旅に出るとビールを飲んでいた。ところがコロナ禍でビールを飲む気分になれない。1人で飲むワインもどうかと思ったが注文。皆で飲むともっと楽しいはずなのにコロナでそれは不可能に……。

 ただ、ツアー客はすべて広島人なので添乗員は静かに食べている合間にカープ情報を大きな声で知らせてくれる。わっと会場が和む。美味しい料理は五島美豚ステーキ&ソテーが出るころにはお腹がいっぱいになる。さすがに五島産米のご飯はスルーした。
オードブル

五島美豚ソテー&ステーキ
 今夜も前夜と同じくGOTO TSUBAKI HOTELに宿泊。

第3日目 2021年4月11日(日)

 この日もホテル内のレストランでバイキングの朝食を頂く。旅の3日目はいずれも最高の旅行日和になる。9時にホテルを出て堂崎天主堂にバスは向かう。
教会の前の美しい海

堂崎天主堂
 堂崎天主堂は1908年に建てられた五島最古の洋風建造物である。靴を脱いで中に入ると隠れキリシタン時代のキリシタン資料館になっていた。教会の前には海が広がる。水ノ浦教会に行く途中、西海国立公園に立ち寄る。目の前に今が盛りとばかりに咲いている菜の花畑が見えた。バスから降りるとガイドから遣唐使船の碑が先の方にあると教えてくれる。菜の花の前にまずは遣唐使船の碑まで歩く。すぐにはわからず人に聞いてやっと到着した。広々とした公園内には鯉のぼりも泳いでいる。久しぶりに見る鯉のぼりだった。

 魚津ヶ崎公園付近では親子連れの観光客でにぎわう。旅に出てもこの頃は自分の写真を写さない。が、一面に咲く菜の花畑を目にしたとき写真を撮りたくなる。が、撮らなかった。
魚津ヶ崎公園

西海国立公園

遣唐使船寄泊地の碑

鯉のぼりが泳ぐ
 菜の花畑
 水ノ浦教会は牢屋跡に建っており、木造建築の教会としては日本最大規模である。別名「白亜の教会」と呼ばれ、長崎の外海から移り住んだ潜伏キリシタンの移住から始まる。教会の丘に上ると眼下にこれまたコバルトブルーの水ノ浦湾が望めた。
水ノ浦教会

水ノ浦教会から見下ろす水ノ浦湾

教会の経つ場所は元は牢屋跡
 水ノ浦教会を後にしてお昼の食事場所である遣唐使ふるさと館に向かう。と、その前に五島焼酎の酒造を見学する。焼酎は口にしたことがないので試飲せず。お昼は海鮮丼を頂く。海鮮丼のほかにお椀に大きな魚が入った味噌汁と小鉢の煮ものもあった。

海鮮丼
 食事後、遣唐使ふるさと周辺を散策する。時間がある、と思っていたらガイドにふるさと館の屋上の展望台をすすめられる。すぐに屋上へ。屋上からの眺めはいいのだが風が強く吹きすぎる。下に降りて周辺を歩く。
遣唐使ふるさと館屋上からの眺め

ふるさと館周辺
 五島の旅の最後の観光地は高浜海水浴場。ここはコバルトブルーの海、スカイブルーの空、サンドベージュの砂浜とどれも目を見張るほどの美しさだ。「サンドベージュ」は今、読んでいる中野翠の『コラムニストになりたかった』に出てくる。このキーワード、この本で初めて知った。ここに建つ魚藍観音は東シナ海の大漁と航海安全を祈願して建立されていた。
高浜海水浴場
魚藍観音の展望台から海を見る
 魚籃観音の展望台に立つと素晴らしい景色が眼下に広がる。海を見ていると船が向こうの島をめがけて動き出す。何かあるとここから船が出て行くそうだ。
コバルトブルーの海

船が出て行った
 バスの集合までに時間がある。海辺まで砂浜を歩く。サンドベージュ色の砂浜は自然が織りなす砂模様が美しい。そこを踏みつけて海岸まで歩く。真っ白い砂を持って帰ればよかった。
自然が織りなす砂模様は美しい

高浜海水浴場
 五島列島での最後の買い物はJAの産直市。紅芋が特産らしく売り場に並んでいる。1袋100円、と安い。だが、持ち歩くには大変、と思って紅芋で作った餡入りのお餅を購入。ヨモギ餅の紅芋版だ。初めて食べた紅餅は本当に美味。チャーター機は午後5時に離陸する。その前に手荷物を預けたりした後、搭乗までフリータイム。旅の終わりになって福山のご夫妻と空港のカフェに入る。ここで珈琲をごちそうになった。それまではコロナ対策でツアー客と話すことはほとんどなかった。広島空港に着くと自宅最寄り駅が同じというご夫妻とJRで帰宅する。隣町の人だった。今回の旅もよく歩き、よく食べた。楽しい旅は終わった。さてさて次の旅はいつどこへ……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!