2021年4月15日木曜日

『功名が辻』(二)

  全4巻ある『功名が辻』(司馬遼太郎 文藝春秋、2005年第6刷)の2巻目を読んだ。昨日は図書館で3巻目を借りる。これと並行して中野翠の『コラムニストになりたかった』も借りる。今回借りた本は著者が大学を卒業してから2010年代までのことを書いている。同時代を生きている人なので自分自身、この人の本を通して若かった日を思い出しながら読む。著者ほど当時は行動的でなかった。いろいろな思いをもって読んでいる。以下は『功名が辻』(二)から気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★伊右衛門は、どの戦場にもこの槍をもって出かけた。ちなみに、後年土佐二十四万石に封ぜられてから、奇抜な鞘をつくった。これも意匠を考えることの好きな千代の考案によるといわれるが、鞘はちょうど南蛮人の大帽子のようなかっこうをし、尾長鳥の真っ黒な尻尾を無数にあつめて作ったものだ。「土佐の大鳥毛の御槍」といえば有名なもので、徳川時代を通じて土佐の殿様の持ち槍になり、大名行列の先頭に立ててゆく。いまは、この大鳥毛の鞘は高知城に常時展観されている。槍はたしか国宝で、山内旧侯爵家に所蔵されているはずである。(17p)

★禅宗というのは仏教各宗のなかで油っこい料理のできる唯一の宗旨である。この宗旨は、宋時代の中華料理を伝えており、いまでも「雲水料理」」普茶料理」などとして、珍重する食通が多い。だから、秀吉は禅寺を宿所に選んだ。(26p)

★運という。人は手軽に考える。秀吉か運がよかったから英雄の名を得たのだと。しかし運というのは英雄の最大不可欠の条件である。憑(つ)いている者を英雄という。才能器量があるだけでは、英雄の条件ではない。(30p)

★(この人は、まだまだつくり上げてさしあげねば、そこまではゆけぬ)山内一豊が、多少とも英雄の名に値するとすれば、すべて千代の作品であった。その千代は、山崎合戦での秀吉の言動、諸将の動きで多くを学んだ。これが後年、関ヶ原前夜に生かされるとは、千代自身も予言者でないため、夢にも思わなかった。(49p)

★(そのとおりなのだ)と千代も思うのである。たしかに伊右衛門には、軽微な不運が続いていた。これを不運と思うのは愚者である、と千代は考えている。運、不運は、「事」の表裏にすぎない。裏目が出ても、すぐにいいほうに翻転できる手さえ講ずれば、なんでもないことだ。(52p)

★――羽柴様は人を殺すのがお嫌いなんだ。という評判が、当時すでに天下の常識になりつつあった。信長とは逆である。信長は、伊賀攻め、叡山攻め、伊勢長島攻めで示したように、他に人間を一人もとどめぬというはげしい殺戮戦で国を奪って行った。秀吉は、身をもってそれを見てきている。かれは信長を敬慕するところが多かったが、このやり方だけは、性格にあわなかった。――秀吉は敵を殺さぬ。殺さずに、外交をもって降参させる。降参してきた敵には、命を保証するばかりか、旧領を与える場合が多い。(56p)

★秀吉は、ひどく建築好きであった。この点家康とちがっている。家康は、信長、秀吉とちがって、実利一点張りの男で、芸術への嗜好心がない。こういうあたり、家康の印象は、信長、秀吉にくらべると、ひどく貧相になっている。田舎の実篤な働き者の旦那に似ている。家康の美徳は多い。が、いずれも倹約、用心深さ、実直、といった自分一個の自衛的な美徳ばかりで、世間に対してどうこうというひろがりのある美徳ではない。この男の面白さはそこにあるだろうし、かれが後世にいたるまで人気をもたなかった理由は、そういうところにある。(166p)

★建てたいがために建てた遊び城といっていい。秀吉は、遊び人であった。秀吉のこういう華麗な無駄が、無駄のない家康よりも後世の人気を得るゆえんであろう。(168p)

★千代が伊右衛門にきいたところでは、秀吉はこの正月、純金の家をつくって、正親町(おおごまち)の天皇の第一皇子誠仁(のぶひと)親王に献上したという。玩具ではない。本物の茶屋である。天井も敷居も障子の骨もすべて純金であった。そこで、茶を点てることができるのである。秀吉は、佐渡金山を持っている。かれが天下をとるとともに沸くように佐渡島が黄金を生みだしたのだから、この男ほど運がいい男はないのだが、それにしても純金の家をつくるなどは、いかにも秀吉らしい。(173p)

★秀吉といっても、尾張の微賤から成りあがった田舎者にすぎない。……猿、いや群猿が、かんむりをかぶって行列をしているようなものである。(わしも出世したものぞ)とおもう半面、京の公卿に対して劣等感がある。秀吉にはとくにそれがつよい。聚楽第をつくったのも、そういう心理から出たものだ。(196p)

★奸悪。と後世印象される家康の奇怪な性格はここにある。かなわぬ、とみれば貞女のような淑徳を発揮するのである。いまだ、と時機を見ぬくと、老婆のような入りくんだ知恵、底意地のわるさを発揮するのだ、一種の人間妖怪といった方が、家康にはあたっている。(220p)

★筆者、註。「桃山」とは、つややかな地名である。いま城が築かれようとしている伏見山の別称と心得ていい。秀吉一代の栄華は、この伏見城の華麗な建築をもって象徴され、文化史上、「安土桃山時代」という呼称を生んだが、この当時から桃山という呼称があったわけではない。家康が大坂の役で豊臣氏をほろぼしたあと数年して、この伏見城をもって無用の城とした。(292p)

★諒闇中、それだけではない。殺生をつつしまねばならぬこの時期にしばしば猟に出て鳥獣を獲った。「殺生関白」(注:秀次のこと)という異名が、京の市中の男女にささやかれはじめたのは、このころからである。(295p)

★晩年の秀吉のすさまじさは、秀次を高野山に追い上げて切腹させただけではない。女の千代が、耳をおおって、さけびあげたいほどのことを、秀吉はやりはじめた。秀吉は、秀次の妻妾三十余人を捕えしめて徳永寿昌の京都屋敷に監禁させた。……その日、早朝、秀次の妻妾および子ら三十余人は、徳永屋敷からひきだされた。……虐殺はそのときからはじまった。……この塚のよび名を、秀吉がそうよべと命じたのかどうか、「畜生塚」とよばれた。(336-341p)

★「世の中は、不昧因果の小車や、善し悪しともにめぐりはてぬる」やがては因果がめぐって悪いことが起こるであろう、という豊臣政権への呪いの歌である。たれが書いたのかわからない。、が、あの虐殺のむごい光景をみた者なら、百人が百人この実感をもったであろう。(342p)

0 件のコメント:

コメントを投稿