2021年4月26日月曜日

『明治維新の意味』

  『明治維新の意味』(北岡伸一 新潮社、2020)を読んだ。本の裏表紙には次のように書いてある。「明治の国家運営は、何が優れていか?」。

 <かの石橋湛山は明治維新御改革を高く評価した。新政府成立から時を置かず、遷都、廃藩置県、徴兵制、地租改正、義務教育、鉄道・通信の敷設と、矢継ぎ早に実行に移し、西南戦争などの内憂もありながら、憲法制定、議会政治樹立にまで至る。この間のスピード感あふれる政治の実態を、現代の政治学者の眼から生き生きと描き、新たな「明治維新論」を提示する>。

 近代に関心がある。この本を興味深く読んだ。また、いつものように気になる箇所を記そう。

★明治維新は、西洋の脅威に直面した日本が、近代化を遂げなければ独立を維持できないと考えて行った革命であった。筆者もこの立場をとる。そして尊王攘夷という言葉は、次のような意味に解すべきだと考えている。すなわち、尊王とは、大名分国制を廃し、統一した国家としなければ列強と対抗できないという理解が、その根底にあり、また攘夷とは、西洋諸国と並び立つ国になりたいという感情を基礎としていた。尊王攘夷という言葉は、このように中央集権と対外的独立という、ナショナリズムの内外の両側面を直截に示す言葉であったがゆえに、当時の人心に強くアピールしたのであると考えている。(18-19p)

★もっとも成功した革命は、アメリカ独立革命と明治維新であるという見方も提示され、今では多数派となっていると言ってよいだろう。……スターリン体制の実態が知られ、中国の文化大革命に対する失望が広がるとともに、大きな革命がよいことだとする考えは、徐々になくなっていった。(20p)

★武士の身分のまま農業に従事したものや、武士の待遇を受けていた農民もいた。彼らはしばしば郷士(ごうし)といわれた。土佐藩においては、関ヶ原以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣を懐柔するために郷士に取り立てている。土佐では郷士に対する差別が強く、幕府や藩の権威が衰えたとき、郷士から尊王攘夷運動に加わるものが多かった。坂本龍馬、中島信行、武市瑞山などがいる。(30p)

★雄藩を動かすに至った思想やエネルギーは、越前の橋本佐内にせよ、あるいは佐久間象山にせよ、福沢諭吉にせよ、下から噴出したものであった。革命は辺境から起こるものである。(63p)

★江戸開城の直後、薩摩藩洋学校(開成所)の教授、前島密が江戸遷都論なる建白書を大久保に届け、遷都しなくても大坂には衰退の心配がないが、江戸を首都にしなければ衰退する、帝都は国の中央にあるべきだ、大坂は小さく、道路も狭い、江戸は諸侯の藩邸などを使うことができて、官庁を新たに作る必要が少ない、などの理由を挙げていた。大久保はこれに影響され、徳川氏を駿府に移し、江戸を東京にするという案に傾いていく。(89p)

★藩の後ろ盾を持たない天皇制官僚たる木戸、大久保、西郷らのイニシャチブによって、廃藩置県は実行されたのである。……明治四年に断行された廃藩置県こそは、維新革命の性格を決定づけ、またその後の方向を決めるもっとも重要な決定であった。また新政府の本質は攘夷であると信じ、その行方を深い懸念をもって見守っていた福沢諭吉は、廃藩置県を知って、この盛事を見たる上は死すとも悔いずと、狂喜乱舞したという。福沢の『学問のすゝめ』初編は明治二年五月に出ているが、これは、廃藩置県に対する歓迎、興奮から出たもので、この方向を推進したいとして執筆したものであった。(104p)

★一般国民を基礎とする徴兵制度を提唱したのは長州の大村益次郎(一八二五~一八六九)であった。大村は司馬遼太郎の小説『花神(かしん)』で有名になったが、戦前には陸軍建設の祖として知られていた。靖国神社に巨大な像があるのは、そのためである。(111-112p)

★岩倉使節団ほど大規模なものは例を見ない。……興味深いエピソードの一つは、一行が、まだ工事中であった新橋ー横浜間を鉄道に乗ってから出かけたことである。海外で、日本には鉄道があるかと尋ねられるだろう。そのとき、もちろんあると言うために、彼らは乗ったのである。(137p)

★私はこの大久保の衝撃を、安政六年(一八五九年)、開港直後の横浜を訪れたときの福沢諭吉の衝撃と比較したいと思う。死ぬほど勉強してきたオランダ語が通じなかったときの福沢の衝撃は想像にかたくない。しかし福沢は立ち直って。英学に挑んだ結果、僅か半年で咸臨丸に乗るという幸運に恵まれた。大久保は、英仏の文明に巨大な衝撃を受けたが、やはり立ち直って、近代化の課題に全身で取り組むようになるのである。(142p)

★西郷は、つねに、最前線で危機に立ち向かい、兵士とともにあることで、兵士の信頼を得てきた。第一次長州征伐の際の和平交渉など、その例であった。兵士たちの絶対の信頼を得てきた西郷にとって、彼らを裏切ることはできなかった。自分を慕う仲間を裏切ることなく、しかし同志である大久保の国家建設を妨害することもなく、戦士の同胞の思い出の中に死んでいくことが、西郷の希望であったと私は考える。これは、政治的人間である大久保と、非政治的・宗教的人間である西郷の、決定的に違うところであった。(162-163p)

★かつて征韓論に反対した大久保が、今度は台湾に兵を出し、しかも列強の意向に右往左往したと批判する説がある。それは全くの間違いである。軍事行動には戦略的なものと自衛的なもの、そしてその中間的なものがある。台湾出兵は、その中間であるが、沖縄が日本の一部であることを確認するために行われた限定的な軍事行動であって、昭和期における侵略とは全く異なる。(168p)

★大久保の輿望は政府を圧倒していた。……大久保はまた、努力の人であった。彼の書いた書簡や意見書の数はおびただしい。……大久保は困難に直面した場合の心構えを論じて、「例えば或る目的地に向かって路をゆくに当たり、忽ち行詰りとなったならば、万難を排して踏破するなり、または迂回するなり、臨機に適当な手段を用いなければならぬ。其処で静定の工夫を回(めぐ)らしたならば、必ず何処にか活路が見出されるものである。……行詰まってただ困ったと思うばかりでは、いつ目的地に達し得るやわからぬ。人間は行詰っても、行詰らぬように心がけていなければ大事業は成し遂げられるものではない」と語ったという。(205-208p)

★福沢の「脱亜論」は、あたかもアジアに対する侵略の宣言であるかのように言わることがあるが、そんなことはどこにも書いていない。福沢は「小さな政府論者」であった、版図拡大を議論したことがほとんどない。福沢が最も重視したのは貿易であった。このような「野蛮」な国をテコ入れして近代させるのは無理である、むしろ、こういう国と同類と思われても困る、いわば普通の国として、交際していこうというのが、彼の政策だった。かつて福沢は朝鮮が近代化することを願い、そのために力を傾けた。しかし、その努力が水泡に帰したとき、朝鮮が近いからといって、特別の配慮をすることは必要ない、と言ったのは、極めて自然なことであったように思われる。(253p)

★明治維新以来の政治でもっとも驚くべきことは、日本が直面した最重要課題に政治が取り組み、ベストの人材を起用して、驚くべきスピードで決定と実行を進めていることである。現在の日本は、きわめて閉塞的な状況にある。そのために何をすべきか、簡単な答えはない。ただ、重要な判断基準は、日本にとってもっとも重要な問題に、もっとも優れた人材が、意思と能力のある人の衆知をあつめて、手続き論や世論の支持は二の次にして、取り組んでいるかどうか、ということである。それを明治維新の歴史は教えてくれている。(328-329p)

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

0 件のコメント:

コメントを投稿