2018年10月16日火曜日

『近代日本の中国観』

 岡本隆司『近代日本の中国観』、サブタイトルとして「石橋湛山・内藤湖南から谷川道雄まで」(講談社、2018年)を読んだ。本の裏表紙には次のように書いてある。

 【リベラリスト・石橋湛山。巨人・内藤湖南、「王道政治」を「満州国」に見ようとした 矢野仁一、「科学的方法」で中国社会を解こうとした橘樸(しらき)、そして桑原隲蔵(じつぞう)、仁井田陞(たかし)、宮崎一定、谷川道雄などなど――。東洋史の学統に連なる多士済々の俊秀たちは、いかに中国と格闘したか。その論述をていねいに読み直し、「日本人と中国」という、有史以来の大テーマに挑む力作】

 はずかしながら石橋湛山という名前は知っていても詳しいことを知らずにいた。この本を読んで一番の収穫はこの人を知ったことにある。読んでいる途中、図書館で半藤一利の『戦う石橋湛山』を目にする。植民地政策をとっていた近代の「大日本主義」。しかし石橋湛山はそれを非難する「小日本主義」を貫く。去年からのヒトラーに続いてしばらくは石橋湛山に目が行きそうだ。ネットでこの人を検索すると父親は日蓮宗の総本山身延山久遠寺の元法主で石橋は僧侶でもあった。別に日蓮宗がどうこうでなく、わが家が日蓮宗なのでちょっぴり縁を感じただけ。とはいってもお寺とは縁遠い。それでも母が健在の時、家族で2度ほど身延山に参っている。いろんなことを思い出しながら本の気になる個所をここにメモしよう。

★中国に関係のある、あるいは関心を寄せる人々は、多かれ少なかれ、みな心を痛めている。あるいは、いかに中国に好意をもち、理解しようとする人も、口にしないにせよ、多かれ少なかれ顰蹙・憤懣を禁じ得ないのではなかろうか。……日本人一般が「嫌中」になったのも、故なきことではないのである。……双方に求められるのは、目前の思わしくない情況を相互理解の機会に転換させてゆく意欲である。5p

★本書のめざすところは、困難な日中関係に苦悩し、中国をみつめつづけた先人のまなざしをふりかえりながら、そうした可能性を探ってみるにある。7p

★領土・軍備の拡張を「時代遅れ」で、国際的理念に違っている、とみなす思想が「小日本主義」の前提・根底にある。それはあくまで政治上の立場・信条であって、経済利害に徹した分析結果ではない。「大日本主義」の向こうを張ったアンチテーゼではあっても、それを無用にしてしまうジンテーゼではなかったし、またそうはなりきれなかった。だとすれば、そんな「小日本主義」が直接の論争の対象とした中国を、石橋はどのように見ていたのか。その中国観は時代の推移とともに、いかに変化していったのか。中国の現実とどう関わっていたのか。かれが日本の輿論から孤立した理由をさぐるには、そこをあらためて考えなくてはならない。21p

★かつて「日中友好」の名のもと、日本人が中国ナショナリズムを批判することには、一種のタブーがあった。石橋湛山と「小日本主義」への高い評価は、じつはそのタブーと無関係ではない。近年の中国、およびそれをめぐる情況の変化は、ようやく中国ナショナリズムの歴史的な特質・本質を忌憚なく議論できる場を作り出しつつある。それなら、石橋に対する評価基準も見なおさなくてはならない。彼の等身大の中国観を同時代の知識人と比較するのが、その有効な補助線となり、ひいてはわれわれの中国認識の深まりにも資するのではなかろうか。34p

★自らの研究で実なき中国の「王道」を知りつくしていた矢野仁一には、それが理想の「王道」を真に実現すべき好機と映る。還暦を越えてなお、積極的な「満州国」支持をつづけて情熱と学殖を傾けたのも、中国伝統の文化をこよなく愛し、「満州国」に住む「支那人」の幸福と「名誉」を願がったればこそであった。その「純粋」な善意は、かくて侵略主義と一体となりはてる。それはやはり悲劇というにふさわしい。……なぜ中国共産党の評価が高いのか。社会主義・共産主義を支持したからではない。毛沢東の革命がいわば、かれの久しく夢見てきた「王道楽土」を実現しつつあったからである。……かつての中国では、どうしても達成できなかったものが、毛沢東統治下の中国で、確かに現出した。その偉大な達成を果たしたはずの、同じ中国共産党が支配する今の中国を、地下の矢野に見せたらいったい何というだろうか。60-61p

★内藤湖南がはじめて世に問うた著作は、一八九七年一月刊行の『近世文学史論』。数え三十二歳の作で、徳川日本の学問文化をとりあげたものである。それがいかに上方で興り栄えたか、そして三百年間を通じて、どのように江戸へ波及し、江戸文化を形成したかを、余蘊なく論じる。……この「近世」とは現代に直接する過去という意味であって、この書物もしたがって、遠い昔の文化史ではない。75p

★内藤湖南の「応仁の乱について」

 だいたい今日のに日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本歴史は十分だといっていいのであります。(『東洋文化史』)76p

★「唐宋変革論」とは、……唐代までを貴族が支配的だった「中世」の時代、宋代以後は「平民」の勃興した「近世」だとする、内藤湖南の代表的な持論にもとづいた学説である。かれの中国「近世」論そのものをさすことも少なくない。86p

★内藤湖南が時代を区分し、体系化をほどこした「東洋史」は、中国の文化を基軸としていた。それは「民族」の観点からも適用できる学問枠組みとなり、現在に及んでいる。そこから湖南の学問は文化史といわれる。98p

★モースの「ギルド」論、ひいてはその根幹を読み誤った西洋基準を前提にするのは、湖南・矢野より下、橘以降の世代に共通してみられる現象であり、それは日本におけるる西洋式アカデミズムの確立と普及、その裏返しの「支那通」離れ・軽視の高まりとも、揆を一にしている。……石橋湛山の「中国観」を生んだのと同じ知的土壌といってよい。147p

★「樸学」(ぼくがく)という漢語がある。本来の字義としては、いにしえの素朴な学問、という意味で、具体的には、漢王朝の時代の原始儒教のことであった。しかし下っては、もっぱら中国の清代考証学のことを指す。それが漢代の儒教を研究の中心としていたのであって、二〇世紀のはじめにもなお実在し、少なからぬ成果を上げていたものである。176p

★近代日本の眼に映った中国像は、多種多様だった。それは「支那通」と呼ばれた人々の出自・関心・対象が多岐にわたったことと並行する現象である。軍人もいれば、文人もいた。半ばいかがわしい「大陸浪人」も含まれる。206p

★学説や理論・知識は、すべからく外来語で表現し立論すべし。古くは、漢語、新しくはカタカナ語の概念、いまならさしずめ、英語のプレゼンだろうか。それを駆使すれば、とりもなおさず知的であるとみなす「知識人」がおびただしい。それぞれ明治の「支那通」と対象のアカデミズム・インテリにあたる。外来の難解な漢字・漢文で知性をつくりあげてきた日本人の歴史的習癖であって、かつての漢学・漢語が横文字に置き換わっただけ、知の組成・体質はいま現在も、変わっていない。おそらく東洋学・中国学にとどまらず、また文系・理系を問わず、あらゆる分野でまったく同断であろう。……中国という対象は、きわめて難解なのである。日本人はそんな隣人と未来永劫つきあっていかなければならない。かつて「単純な一片の理屈を振りかざし」た結末は、周知の侵略と破局だった。それでも「友好」「反日」「嫌中」……御題目とレッテル貼りで騒いでいるのだが、遺憾ながら現状である。中国とその社会、そのしくみと動きを、借り物の思想・概念で断ずるのではなく、自分の目でじっくり、しっかりみつめてゆくこと。近代の不幸な関係のなか、中国をみつめてきた先人の経験は、まずはただそれだけに取り組み、それだけを成し遂げるよう、われわれに託しているように思えてならない。210-211p

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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