2018年9月21日金曜日

『人生の現在地』&「自灯明」

 年齢を経るにつれてお天気を気にするようになった。雨の日が続くと、今朝のようにちょっとでも日差しがあるとホッとする。今朝と言えば頭をかすめることがある。それは若い頃に出席した友だちの結婚式。明日会う予定の人のうち、1人の結婚式に参加した。高校時代、短大時代、そして社会人になって身内の結婚式は別にしても友だちの結婚式への参加は多くない。参加した人たちとは今でも会ったり、会えない人とは年賀状の付き合いなど連絡は取っている。結婚式もそうだけど、これまでを振り返ってなんと「式」と名がつくところに縁がないことだろう。

 昨日は社会人大学生として学んだ大学のホームカミングデーの案内が届く。年齢を経て大学、大学院と計6年間学んだ。この卒業式、修了式は参加した。今、同じことをせよ、と言われても出来そうにない。自分がやってきたことも今となっては他人ごとのような気がする。どういっても当時は母の介護と並行して学び続けた。今はできそうにないことでもやり終えたことが大きな自信となった。大学で学ぶ良さはお金儲けのためでもなく、資格を取るためでもない。目には見えない大きなものが自分の「生きる自信」へとなっていく。これは何物にもかえがたい大きな財産!

 図書館で予約の本の順番が回ってこない。それならばと書架から取り出して借りて読む。『人生の現在地』、サブタイトルは「まだまだ迷っているぞ、私は。」(立松和平 大和出版、2000年)を読んだ。著者とは同世代を生きる。しかし、もはやこの世におられない。この中に「自灯明」がある。このキーワードに反応してしまった。私も立松と同じようにこの「自灯明」が好きになった。そしてもう一つは「いつ、どこで死んでもいい」。これは阪神・淡路大震災後に書かれた本だが、この夏の西日本豪雨災害や台風21号、そして北海道大地震にも当てはまる。人工知能が大自然を冒とくしているように思えて仕方ない。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★釈迦の言葉の中に「自灯明」というものがある。…誰にも頼ることなく自分で人生の真理を見つけて生きなさい、ということである。私はこの言葉が好きで、いつも心に思っている。…我が道を自分の力で歩いている限り、そこには比較するものは何もない。そこにあるのは他人との比較ではなく、自分自身の過去と現在の比較だ。昨日より今日の自分がどれだけ進んだか。一年前よりもどれほど前に進んだか。そして明日はどこまで歩けるだろうか。それしかないのである。
 私たちはもう、他人と比較しながら生きる年齢ではない。たかが凡人同士、比較したところで大した差もあるまい。そんなことを気にするヒマがあったら、少しでも自分の行く末に目を向けていたい。自分の目指す道や生き方を、少しでも極めたいと思う。171-172p

★いつ、どこで死んでもいい。そう自分に言い聞かせなければ、これからの時代は生きていくことができないだろう。都市をこれ以上構築していくことは、もう限界にきていることを大震災は教えてくれた。自然に逆らって、情報密集型の都市を構築することの反省が、そろそろ出てきても良いのではないか。
 排水を流し、埋め立てて海を汚し、堤防をコンクリートでがっちり固めて川の生命力を損ない、永遠の恵みをくれるはずの大地を顧みずに、ただ人工的な都市に向かって疾走しようとした私たちの文明が、たった数十秒で崩壊したのが阪神・淡路大震災だった
 自然環境保護がしきりに叫ばれている。だが、自然を守るなどという不遜なことが人間にできるはずはない。我々人間が自然に守られていることを認識しなければならない。190p

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