2018年9月13日木曜日

『デラシネの時代』

 先日、レモンの木の上に突き出た枝を切った。大きく伸びた枝は花ばさみでは切りにくい。それを見かねた集合住宅の掃除人が枝ばさみで切ってくれる。昨日、枝ばさみは家にあるはず、と思って2階に上がる階段下の半畳くらいの物入れを見る。手つかずになった物入れ。気になっていた。なかを覗くとあるわ、あるわ。枝ばさみもハサミ部分が袋に入ったままである。大半は父が日曜大工に使っていたもので釘など重いモノもある。ほかにも普段使わない大皿や鍋などがある。

 蒸し暑い午後、テレビを見るのをやめて物入れの整理をする。結果、枝ばさみやのこぎりなどの日曜大工につかうものと釘を少し残して残りは破棄する。今朝は燃えるゴミの日。紙のゴミ袋6袋をゴミに出す。後日、皿などの燃えないゴミや鍋などの資源ごみを出すつもり。

 布団類の一部は春にちょっとだけ処分した。昨日片づけた物入れは気になっていた所。後はやはり布団類を処分しなくてはいけない。

 家の中を片付けようとすれば捨てるに限る。しかし、そう決心しても両親はどんな気持ちで家にモノを置いていたのかと思うと片付けるのが嫌になる。そしてモノは増やすまい、と心に決める。しかし、絵など習っているとどんどん増えて行く。自分がいなくなればだれがこの絵を見て喜ぶだろう。かといって何もせずにモノを増やさないことだけに集中すると味気ない人生になる。

 その点、旅はいい。思い出は増えても形としてのモノは増えない。

 まあ、どうであれ、生きている間はモノが増えようがどうしようが自分が満足して幸せに生きられたらそれでもう十分だろう。以下は最近読んだ『デラシネの時代』(五木寛之 2018年、角川新書)の抜粋。これは著者の死生観。自分自身も著者の意見に同感する。そうはいってもまだまだ「死ぬ」ことは考えたくない。人生、これから!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★個の確立こそが近代人の理想です。だから、孤独死という言葉は寂しいという人もいるけれども、病院のベッドで家族が見守っている中で「ご臨終です」と言われるよりは孤独死の方がいい。
 私はやっぱり、人間は最後、一人で死ぬのがいいと思っているのです。
 ある時期、「行き倒れの思想」ということを言っていましたけれども、私は孤独死か単独と言われる死にざまを大事にしたいと思っているし、孤独死をきちんとした一つのスタイルにまで磨き上げたいと思っています。
 人は誰しも死のキャリアとして生まれてきて、デラシネとしてこの世をさまよい、土に還っていく。その自覚に、不安の時代を生きるヒントがあるように思います。(おわりに)250p

0 件のコメント:

コメントを投稿