2017年3月25日土曜日

『「ひとり」の哲学』

 「一人暮らしの80代女性、1億円だまし取られる 広島」の新聞の見出し記事。実際に読んだのは地元紙。これを読んで思った。80代になってこれほどの貯えがあれば何も働かなくてものんびり暮らせば…と。この記事を見て騙された云々よりも人の生き方に関心を持った。80代になって1億円以上の大金を持ち、それでもまだパートで働く。これに驚く。これも人それぞれの生き方。外野がとやかく言えない。それにしても1億円も貯えている人は皆さん、働いて得たからこそお金持ち!?
  http://www.asahi.com/articles/ASK3Q5QP9K3QPITB01B.html (参照)

 もしも1億円あれば、いやその半分でもいい。もしかしてお金持ちはお金を貯めるのが趣味!?年金生活者としていわせてもらえば「何もそんなにあくせくしなくても人生楽しみましょう」。元気で楽しく生きていれば何とかなる。そう思っている。

 「人生楽しく」をモットーとしていても昨日は相変わらず鼻水と格闘して楽しくない。図書館へ行っても集中力ゼロ。これじゃ、人に迷惑がかかる。プールへ行くのも今一歩躊躇う。ちょっとした気の緩みが…。仕方なく家で本を読む。読んだのは『「ひとり」の哲学』(山折哲雄 新潮社、2016年)。

 著者は次のように書いている。

 このような文章を書きはじめるにあたって「ひとり」の主題を掲げたのは、「ひとり暮らし」の話題が政治の側や社会の側からやかましくいわれるようになったからだった。それと並んで、少子高齢化や限界集落の危機がとりざたされるようになったからでもある。その「ひとり暮らし」の風景がいかにみじめな姿で報道され、独居老人たちの、わびしい孤独な生活ぶりのイメージがいつのまにかふくれあがり定着していった。「待てよ」と思った。「ひとり」とは、そんなにみじめな人間の姿だったのかと、怒りの魂がのど元をつきあげてきたのだ。166p

 終章でこう述べる。

 夏目漱石の『吾輩は猫である』の「吾輩」は、けっしてたんなる「個」を指すのでも「個人」を表すものでもないだろう。やはり容易には分割したり解体したりすることのできない「ひとり」の側に立つ人間(いや、猫)のことをいっているからだ。同じように西田幾太郎のいう「絶対矛盾的自己同一」の「自己」も、それこそ、絶対に分割することのできない「ひとり」の居場所を指し示していることはいうまでもないのである。
 ひとりで立つのは、決して孤立したまま群衆の中にまぎれこむことではない、無量の同胞の中で、その体熱に包まれて生きるのである。
 ひとりで立つのは、太古から伝わるこの国の風土、その山河の中で、深く呼吸して生きるのである。
 ひとりで立つのは、垂直に広がる天地の軸を背景に、その中心におのれの魂を刻みこんで生きるのである。
 混沌の深みから秩序の世界を見渡し、ひるがえって秩序の高みから混沌の闇に突入する気概をもって生きるのである。
 その終わりのない「こころ」のたたかいかいの中から、「ひとり」の哲学はおのずから蘇ってくるはずである。
 そのときはじめて、われわれ人間同士の本質的な関係が回復されるに違いないと、私は思っているのである。232-233p 

 著者もひとり暮らしらしい。先日の旅の添乗員は以前に出かけた旅で84歳の男性が参加されてお元気に楽しく旅をされたという。この著者のいうように「ひとり」とはみじめな人間の姿ではない。結構「ひとり」も楽しく生きている。

 それにしてもこの本の最後の文が微笑ましい。

 噛んで飲んで食べながら、チビリチビリ飲む。
 夜九時を過ぎるころになれば、ひとり酒も終焉を迎える。
 深沈とした夜の闇が、からだの中に溶け込んでくる。
 さあ、これから死ぬか、
と掛け声をかけ、そのままベッドにころがりこむ。(あとがきにかえて)

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