2015年5月22日金曜日

『知的生活習慣』

たかが野球、されど野球。昨秋、新聞に入っていたフリーペーパー、カープタイムズ。この表紙を飾った「ど、どーば」を見てカープを再認識。今やカープ女子ならぬCarpおばさんに。そこから派生して見るカープファンのツイッターとブログ。一昨日の試合後のツイッターとブログのアップがない。おかしい、と思っていたら熱が出たらしい。この人は一般の人。数あるTwitterとブログ。その中でいつも興味を持って見ている。若者らしい視点で毎日カープを追いかける。その人のツイッターに出る「ど、どーば」、堂林選手のファンだろう。

「パン一で夕ご飯」とある。パン一個の夕ご飯と思っていた。なんと昨夜のツイッターで高熱の話がでる。どうもパンツだけの格好で夕ご飯…の意のようだ。この格好で風邪を引いたのか熱が出たらしい。若者のツイッターを見てもわからないことが多い。シーズン開幕前の今年入団選手のツイッター。ファンが「おじぱん」をどうのこうのとツイートしている。この意味が解らず、ジーパンの丁寧語がこうなると思っていた。ところがどっこい、パンダのぬいぐるみのブランド名のようだ。

毎日、暇に任せて若者のツイッターとブログをのぞき見する。変な趣味と言われそう。それでも何も関心を示さず、ぼけっーと過ごすよりも何かに夢中になるほうが楽しい。今日はこれから西条へ。美術講座を受講する。そして夕方からは広響の定演がある。忙しい一日が始まる。今夜の野球は黒田登板。頑張れカープ!以下は先日読んだ本の抜粋。

『知的生活習慣』(外山滋比古 ちくま新書、2015年)

本の裏表紙「無知であることを自覚して営む日々の暮らしこそ、知的生活である。年をとって忘れっぽくなるのを嘆くことはない。むしろ日々これ新しく前進する、と考えよう。老年恐れるに足らず、との心境に至れば、人生は明るく楽しいものになる──そう考えるのが外山流の知的生活。さまざまな日常の局面におけるちょっとした工夫を習慣化することで老若男女を問わず誰でも日々向上することができる。九十歳を超えた今も知的創造続ける知の巨人による、『思考の整理学』に地上生活実践編。」

※病気になったときも、へたにクスリを飲んだりするより、静かにあたたかく横になっている方が回復につながることも少なくない。病気になりそうだと思ったら、とにかく寝ること、横になることである。風邪気味の時、風邪グスリで治らないことがすくなくないが、熱い風呂に入って、さめないうちにベッドに入って休む。眠れれば、最高だが、ただ、横になっているだけで、風邪気の抜けることが多い。横になるのはそれくらいいいのである。117p

※大昔のギリシャには逍遥学派といわれた哲学者がいたはずだ。それにあやかり散歩中にものを考えることを始めた。…机の上ではまとまらなかったことが、近所をひとまわり、ふたまわりしてくると、スラスラと解決することがあって、散歩の信者になったのである。119-120p

※歩くのはただ脚を動かしているだけではない。それによって、頭のはたらきもよくなる。脚力によって生まれる知恵がある。そう信じて、せっせと散歩するのである。130p

※コンピュータ社会では、知識と生活についてこれまでのようなことは許されなくなるはずである。人間は生活があるから人間なのであって、知識がいくらあっても、生活のない人は価値が小さいのである。…知識そのものは無力で、生活の中で、仕事の中で、使用した時にはじめて力を出す。生活の乏しい知識人間は、知識のもちぐされになる恐れがある。生活あってこその知識であるが、長い間、学校教育を受けていると、知識のための知識になることが少なくない。179p

※自分の生活を知的にする。さらに、知と生活の融合をさせられれば、人間としての価値は大きく高まる。…知識の生活の手を結ばせることができれば、これまでの生き方と違った人生が可能になる。知的生活習慣の確率はその具体である。184p

※自然科学の学者が散文を書くということを最初に示したのは寺田寅彦であった。そのエッセイは散文が美しくありうるということを示した。散文にとってエッセイというジャンルが適していることを実際に示したのも寺田寅彦で、その流れを汲んでいると思われる科学者のエッセイが広く読まれるようになった。…日本語の非創作散文は随筆と呼ばれてきた。寺田寅彦の文章も、戦前は随筆と呼ばれていた。戦後、知的散文が意識されるようになって、エッセイという呼び方が広まった。随筆がいくらか文芸的であるなら、エッセイは知的である。これがにわかに発達しないのは、散文の難しさによる。206p

※散文に自信をもてる日本人はすくなくなるが、散文が難しいものであることははっきりする。知的であることは散文的であることと近い、ということを認めるのが、思考力のある知性かもしれない。208p

※ちょっとしたことで、自分の知らない自分のあることを知ると、生活は変化し始める。多少、物知りのつもりでいたのに、自らについてはまったく無知である、というのは、かなり大きな発見である。あまり愉快でない発見だが、新しいものを生み出すエネルギーを秘めているようだ。それに気づくのが知の始まりで、その日々が知的生活ということになる。227-228p

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