2015年5月21日木曜日

『嫌われる勇気』

今朝の地元紙の投書欄。読んでいて同じ気持ちになる。「子どもロコモ」の投稿。子どものころはこのキーワードはなかった。初めてこれを知ったのは母を介護中だった。テレビで偉い人が「ロコモティブシンドローム」(運動器症候群)と話した。運動しないと体のあちこちの機能が衰えるという。当時、週に2度、理学療法士に家に来てもらって母は訪問リハビリを受けていた。知ったキーワードを理学療法士に話すと知らない様子。それもそのはず、テレビで話した先生が最初だったらしく、それ以降、この言葉は広がる。まだそれほど遠い昔のことではない。

話は戻って、投書の人も書いている「鈍い」、の表現。同じく子どものころから「鈍い」と思って育った。つけられたあだ名もそれに似たような感じだった。それをブログのタイトルにしようとした。姪に話すとそれはおかしい、とのこと。今のタイトルで落ち着く。投稿した人は今はグラウンドゴルフをしているそうだ。だが、「鈍い」らしい。しかし、鈍いなりにも「大人ロコモ」にならないようにと気を付けているのだろう。

数歳上の人の投書。鈍くても運動をされている。同じく「鈍い」ものから言わせると、運動を続けることはかなりの気力と体力を必要とする。できる人からすると何もないことかもしれないが…。

先日借りて読んだアドラ―の心理学の本。本のタイトルは『嫌われる勇気』。これによると子供のころ運動ができない、「鈍い」と感じた劣等感。これは「他者との比較から生まれた、主観的な劣等感」だそうだ。それは「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」らしい。人が自分のことを「鈍い」と思ってるのでなく、自分自身だけがそう思っていたとは…。「われわれが歩くのは誰かと競争するためではない。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある」、と。

若い頃、いつも人からの視線を気にしていた。アドラーの心理学は「自らの生について、あなたにできるのは『自分にできる最善の道を選ぶこと』、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。」、「自由とは、他者から嫌われることである。」と。そしてアドラーは言う。「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。」。他者から認められることだけで生きると、他者の望み通りの人生を歩まざるを得ない。それは自由がない。

他にもアドラーは言う。「『いま、ここ』に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。」。アドラーの言うように、鈍かった過去を振り向かず、「いま、ここ」を真剣に生きていたらいいのだろう。

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