2011年9月25日日曜日

『日記をつける』

先日岩波書店から『図書』9月号が送られて来た。そのなかに「秋のミニフェア」として荒川洋治の『日記をつける』(岩波書店、2002年)が紹介されている。てっきり新刊だと思って図書館に予約した。ところが手にしてみると2002年出版となっている。

「日記」は「ブログ」という手段でつけている。つけているというか投稿しているのだが…。またブログは日記というよりもエッセイかもしれないが…。

その辺りを著者は「ことばが回りはじめると、日記は動く。エッセイになる。」(132p)という。ブログ(日記)がエッセイになるのも「日記からいろんなものが生まれる。」(132p)所以ならばそれはそれでいいとしよう。

エッセイになるという流れを筆者は幸田文のエッセイから述べている。「幸田文のエッセイに感じることは、どんなものにも興味をもつということだろう。そしてときには『興味をもつ』ということはいったい何だろう、というような問いかけそのものにも興味をもつ。これはものごとがいったん<ことば>になるということである。『興味をもつ』といことそのものがひとつの<ことば>に変わるのだ。…<ことば>になることで文章は羽根をつける。…思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ。…」と日記がエッセイに変わる過程を述べる。(131p)

筆者は「日記からはじまる」として「日記は、日記では終わらない。そこからいろんなものが、生まれるからである。エッセイや詩になる。俳句にも、歌にもなる。小説になることもある。日記は、ときに作品へと向かう。自己表現への道に、つながっているのだ。つながるまでのプロセスも、おもしろい。」と述べ、まず日記をつけることを説く。(102p)

日記をつけるとき「人間は疲れると、文章のなかに『とても』とか『たいへん』とか『非常に』とか『いちばん』とか『ものすごく』などが多くなるのである。」と。(104p)

この指摘は全く意識していなかった。これからそういう文が多くなると我が心身の疲れた状態のめやすとなるだろう。

さらに筆者は「あの人は、どう思っているのか。何をしているのだろう。疑惑や不安をおぼえると、日記のことばは、ふえていく。」(111p)という。それについて「ひとつは、どんどん内向していくために、ことばがどんどんで出てくるのだ。からからになるまで、出てくる。もうひとつは、疑惑を疑惑たらしめるためには、相手が述べたことや状況をつぶさに書いていかなくてはならない。…その『引用』でまた、文章がふえるのである。…」と述べる。(113p)

ブログを書くということは内面をさらけ出すということになるのだろう。

日記をエッセイにすることについて「その日に見つけたもの、感じたことはたいていエッセイの種になる。」という。(128p)

日記をつけることで「記憶を記録に替えたい気持ちが生まれるのだ。日記をつける人は自分だけではない。人をたいせつにしたいと願う人なのかもしれない。」と筆者は述べる。(149-150p)

そう大それた気持ちでブログを書いているつもりはないが、いわれてみればそうかもしれないと思ったり・・・。

最後に筆者は日記をつけることについて「日記は、自分を笑うことでもある。『うれしい』なんて書いたりして、いいのかな、調子に乗りすぎてないのかななどと思いながら、筆はその『うれしい』ということばにつながろうとする。そして、自分の書いたことばに、にっこりする。『ばかだな』とも思う。自分の批評家がひとり生まれる。その批評家はときどき現れ、消えていく。日記をつけることは、自分のそばに、自分とは少しだけちがう自分がいることを感じることなのだ。…その分、世界は広くなる。一日も広くなる。新しくなる。」という。(164p)

そして筆者自身が日記をつけることについて「日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとれ払われて、きれいになるように思う。一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちのなかに入りたいために、日記をつけるのだと思う。…」と述べている。(164p)

ブログに投稿することについて筆者のようにその意味を分析したことはない。それでもブログを通して何か気持ちの上ですっきりするものがあるのも確かである。その意味では筆者のいう「自分のなかの一日のほこりがとれ払われて、きれいになるように思う。」と同じことかもしれない。

その意味でもできるだけブログに投稿するようにしよう…。

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