2022年4月30日土曜日

「日本の集団の歴史は独裁者の存在を許さないというふしぎな原理をもっている」

  「日本の集団の歴史は独裁者の存在を許さないというふしぎな原理をもっている。……気が引けるが、まあ騎虎の勢いだから――ちかごろあることで腹が立っているので――この話題をつづける。日本人が原理としていかに独裁制を好まないかということについてである」

 上記の「日本の集団の歴史は独裁者の存在を許さないというふしぎな原理をもっている」のくだりは『街道をゆく』(一)「甲州街道 長州路ほか」(288-289p)に書いてある。今、ロシアとウクライナは紛争中だ。ロシアのプーチンがまさに独裁者であり、その存在を許している。他にも国が安定していないとその国には大概、独裁者が国のかじ取りをしているように思える。司馬遼太郎の本を読んで改めてそれを知る。

 「街道をゆく」シリーズがテレビで再放送され始めてさらに司馬遼太郎の著作を読む速度が増してきた。また本を読んでいるとその本に付随する事柄にも刺激されて、さらにその本を読みたくなる。この刺激が増え続けると何歳まで元気に生きていればいいのかわからなくなりそうだ。まあ、なにかをやり終えたいと思う間は元気な証拠でもあると思うのでこれはこれでいいことかもしれない。それにしても歳を取ればとるほど本を読みたくなるとはどういうこと!?

 モンゴルのツエベクマさんのその後を知りたくて図書館のHPで本を探すと見つかった。早速、ツエベクマさんの著書を図書館に予約する。今日中にはその本を手にできそうだ。

 カープは気になる、遊びにも行きたい、本も読みたい、と気も焦るが今は世の中で言うGW真最中。毎日がGWのモノにとってはこの時季にわざわざ外へ出なくてもいいとの思いもある。家でおとなしくテレビでカープを観戦し、本を読んで過ごす。これでいい。昨夜は又も堂林選手がホームランを打った。そしてカープは勝った。さて今日は?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『街道をゆく』(一)「甲州街道 長州路ほか」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第33刷)から気になる箇所を抜粋。

★日本民族はどこから来たのであろう。……「日本人はどこから来たのでしょうね」と、編集部のH氏がつぶやいたのも、どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。しかしこの列島の谷間でボウフラのように沸いて出たのではあるまい。(23p)

★「朝鮮人などばかばかしい」という、明治後でき上った日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行のてはじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである。(25p)

★古代中国では、「倭(日本とおもっていい)には、奴(那・娜)(な)の国というのがある」といわれているが、この奴の種族が、安曇であることはほぼまちがいあるまい。(29p)

★そういう日本列島にあって、その東の辺陬に突如騎馬文化が成立するというのは、百済人入植という事実を外しては考えられない。この集団が、日本史上、われわれが誇る、もっとも典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生に限りないおもしろさを覚える。……その半島で農耕生産を発展させようとおもえば当然、灌漑などの農業土木が発展せざるをえないのだが、二千人の百済人たちはその技術をもって武蔵国の田園をふやして行ったにちがいないなく、田園がふえるにつれ、当然ながら人口もふえた。開墾地主が簇生(そうせい)した。その開墾地主が、つまりは武士である。これが荘園制度とからんでいわゆる坂東武士団がつくられてゆく。かれらは開墾地の擁護をたのむために京都朝廷への口きき役としての源家や平家などといった筋目の京都人を棟梁に押したて、みずからの家系をも源平藤橘の系譜にあわせて創ってゆき、つまりは系譜の上からいえばたれもが桓武天皇や清和天皇の子孫になりおおせて、たれもが百済人と土着人の子孫であるといわなくなるのだが、それはいわば系列下に入るための原理で、別に怪しむに足りない。(141-142p)

2022年4月29日金曜日

「人生は自分で作りあげるもの。これまでも、これからも――グランマ・モーゼス」

 東広島市の西条に新たにできた東広島市立美術館に出かける。西条は社会人大学生の頃に6年間も通ったなじみの駅だ。ひさしぶりに西条の駅に降りる。建て替わった駅は同じでも駅前に広がる光景が以前とは違って見える。美術館までの道はわかっているはずなのに駅前で人に尋ねた。前に前にと進んで行くが以前の面影がおぼろになる。大きな建物が建っていた。美術館と思って中に入ると芸術文化ホールとある。ホールロビーにいた人に聞くと美術館は目の前に見える建物だという。

 ホールは美学の講座で通っていた頃に建てられた。が、美術館はその当時はまだ建っていない。芸術文化ホールの建物内に入るのは初めてで美術館と間違えてしまったようだ。美術館の特別展は「生誕160年記念グランマ・モーゼス展」と銘打っている。この人の名は今回初めて知った。展覧会場の出口付近に「人生は自分で作りあげるもの。これまでも、これからも――グランマ・モーゼス」と大きく掲げてある。この言葉に惹かれて会場を後にした。

 今から160年前といえば坂本龍馬が生きていた時代だ。個人的には母の父で写真でしか知らない自分にとっての祖父が生まれたころだ。祖父とモーゼスは同時代を生きている。その時代、無名の農婦だったモーゼスは70代で絵を描き始める。絵を描き始める前は刺繍などをしていたが病のため細かいことができなくなり絵を描き始める。その時が70歳だった。それから亡くなる30余年間、絵を描き続けた。絵本のようなかわいい絵が多く描かれている。また、絵を通して当時のアメリカの農村風景と生活様式がわかってくる。

 この美術館のHPを見て出かけた。それによるとシニアは特別展であっても無料だ。大きな新しい展覧会が無料で見られるとはありがたい。絵を見た後は西条の駅のカフェに入る。コロナ禍で思うように遊びに行けない。この時とばかりに一人で遊ぶ癖をつけようと思い立つ。さて、次は!?

 話は変わって先日出かけた南薫造記念館の帰りに立ち寄った台湾料理店でのことだ。食事を済ませて代金を支払おうとした。消費税込みの金額かどうか知りたくて「消費税は?」と日本語で話しかけると台湾人の若い女性は「???」と分からない様子。「TAX?」とさらに言うと「タクシー?」と返答される。この時、中国語で「消費税がいるかどうか」の言葉が出てこなかった。というか、「消費税」そのものの中国語を知らずにいた。家に帰って調べると「需要销售税吗?」だ。なお消費税の読みは”xiāo shòu shuì”。覚えておこう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月28日木曜日

「南蛮のみち」

 昨夜のBSで司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの「南蛮のみち」が放送された。ここでの南蛮はスペインのバスク地方をいう。バスク地方はフランスとスペインの国境を挟んで位置している。テレビで見た国境は10m幅くらいの短い橋の辺りがそうだった。この地方ではバスク人がバスク語を話す。一時はバスク国という独立した国があった。が、その時は廃れゆくバスク語の復活を目指して子供たちにバスク語を教えていた。
 
 スペインへは今から10年半前に出かけている。その時の同行者にスペイン人の神父様がいらっしゃった。キリスト教に疎いものにとっては旅行中の何もかもが驚きとともに新鮮だった。楽しかったスペイン旅行を思い出しながら放送を見る。

 番組HPによると「原作・司馬遼太郎。壮大な紀行文学を映像化!日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザヴィエル。彼の故郷バスク地方へ。『南蛮』とは一体何かを感じる旅が始まる」とあり、その詳細として昭和から平成へ。亡くなるまで25年にわたって司馬遼太郎が書き続けた『街道をゆく』。日本に西洋の文化、宗教等を伝えた南蛮人。代表的人物ザヴィエルはバスク人だった▽パリからフランスとスペイン国境地域・バスクへ▽独特なスポーツと伝統の丸太割り競争!▽『日本人』になったカンドウ神父の生家で▽ザヴィエル城を守る修道士▽緑の大地に見た人々の営みと変わりゆく現実▽1998年放送の番組が鮮やかな映像でよみがえる」ともある。

 昨日、図書館で『街道をゆく』(二十二)の「南蛮のみち」(1)を借りる。「南蛮のみち」は(Ⅱ)もあるがバスクは(1)に収めてある。読み終えたら(Ⅱ)も借りて読もう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月27日水曜日

「私のは、希望だけの人生です」

 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズがNHKのBSで放送されている。このシリーズを放送順に読んでいる。先日は「モンゴル紀行」だった。司馬遼太郎にとってモンゴルとの縁はツエベクマさんなしでは考えられない。ツエベクマさんを主人公にした小説といえば『草原の記』(司馬遼太郎 新潮社、1992年)がある。BSでの放送でも『街道をゆく』(五)の「モンゴル紀行」と『草原の記』を取り上げている。(ここは同時にこの2冊を読まねば)との思いから一気に読み終えた。

 『草原の記』の最後のくだりは涙なくしては読めない。先ほど、その後のツエベクマさんを知りたくなってネットで調べると以下の記事が見つかった。四国新聞社の2004年3月15日に配信のニュース記事だ。

 「B・ツェベクマさん死去/モンゴル日交流協会顧問」と見出しがあり、「バルダンギーン・ツェベクマさん(モンゴル日本文化交流促進『アリアンス』協会顧問)15日、病気のためウランバートル市内の自宅で死去、79歳。1924年ロシアのバイカル湖近くで生まれ、現在の中国・内モンゴル自治区ハイラルで育ち日本語を学ぶ。59年に中国を脱出し、娘とモンゴルに亡命。作家の故司馬遼太郎さんと親交が深く、同氏の著作『草原の記』の主人公モデルとして知られる。自らの半生を描いた『星の草原に帰らん』を日本で出版、99年に勲五等宝冠章を受章した」とある。

 以下は『草原の記』から気になる箇所を抜粋。このなかの終わり辺りに取り上げた箇所は特に涙を誘われる。テレビの放送でもこの辺りを取り上げていた。「私のは、希望だけの人生です」と。 

 ツエベクマさんが亡くなられたと知って自らが書かれた『星の草原に帰らん』を図書館で探すとあった。早速予約。なんとこの本の訳をツエベクマさんの話を聞いて嗚咽した鯉淵信一教授がされている。1つの番組から始まった私とモンゴルとの縁が司馬遼太郎の本を通してどんどん広がっていく。今夜は「南蛮のみち」。『街道をゆく』シリーズの21と22に収められている。この2冊も図書館で借りて……。本を読むのが忙しくなりそうだ。遊びにも行きたい……。
 
 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★胡というのは、戎(じゅう)や夷(い)や蛮(ばん)、狄(てき)と同様、野蛮人をさす。(10p)

★主役は、私が草原で出会ったツエベクマさんという女性なのである。しかしいまこのように列島の一隅で彼女のことを想いだすとき、滑稽に思われるかもしれないが、このひとを載せているモンゴル高原について書かねば、私の中で彼女が鮮明になってこ来ないのである。(14p)

★ソ連は、いうまでもなく、モンゴルの隣邦である。ロシア帝国以来、古代に住んでいるのではないかと思えるほど、帝政のむかしから奴隷を必要とする帝国であった。とくに鉄道敷設や都市建設など巨大土木をおこすときは、首都など大量に政治犯をつくりあげ、奴隷に仕立てて作業場に送りこむ。スターリン時代もそうだった。第二次大戦の戦後、その忌むべき習癖が出た。いわゆる満州にいた日本の関東軍の兵士は、それによって実質上戦争奴隷としてシベリアに送られ、建設現場で労働させられたのである。その一部がモンゴル高原に拉致され、この街の建設現場で労働させられたのである。(62p)

★農耕文明は、まちを必要とした。……遊牧民は、古来、物を貯えない。不必要に多量な什器や衣類を持てば、移動が出来なくなってしまうのである。……とはいえ、歴史的モンゴル人は、金目のものとして宝石や金銀の装身具を持つことはあった。そういうものなら、移動の場合に荷重にならない。(65-66p)

★モンゴル人には、漢人がすべて高利貸しにみえる。かれらは悲鳴をあげ、ロシアの革命政権に頼らざるをえなかった。曲折のすえ、一九二四年、ソ連に次いで世界に二番目の社会主義国家をつくるはめになった。かれらが社会主義をえらんだのは、マルクスのいう歴史の発展の結果ではなく、ただ漢人から草原を守りたかっただけだった。(104-105p)

★ツエベクマさんは、その前夫を家で迎えた。二十六年ぶりの再会だった。会えばどう言おうかと考えたりもしたが、イミナの肩にすがって入ってきたその人を見たとき、それどころではなかった。すぐさま手を貸して部屋に入れ、寝台の用意をしなければならなかった。このときツエベクマさんは、夫は自分のもとで死ぬためにここまできた、と気づいた。……以後、ツエベクマさんはその女性を客としてあつかい、かつぎこまれて入ってきた老人を、イミナの父として丁寧に介抱した。……政府がみとめた招待期間は一ヶ月だったが、ツエベクマさんは再申請して四十五日まで延長してもらった。 ……ブルンサインはその後数ヶ月生きた。息をひきとったのはツエベクマさんの腕のなかだったという。(220-221p)

★「わるく生きるよりもよく死ね、という諺が、モンゴルにあります。夫の生涯をふりかえって、その諺どおりだったと思っています。ブルンサインはわるく生きましたが、よく死にました」と、ツエベクマさんがいった。わるく生きるとは、つらく生きるということだろう。よく死ぬというのは、二十六年間生きわかれしていた妻子に再会し、二人に看取られて死んだ、ということかと思われる。(222p)

★「ツエベクマさんの人生は、大きいですね」と、私がいうと、彼女は切り返すように答えた。「私のは、希望だけの人生です」急にはげしい嗚咽がおこった。男らしく乾いたその音が、同席している鯉淵信一教授の大きな体から出ていることに気づいたが、私はそのほうを見ないようにした。ツエベクマさんのいう希望が、自分自身の人生とこの草原の民族の希望と運命をかさねたものであることは、講淵教授はよくわかっている。(222-223p)

★ブルンサイン教授が、かれの生まれた草原でないにせよ、つらかった生の最後にここにもどってきたのは、帰巣であったのかもしれない。遥かにいえば、元(げん)の北帰に似ているようにおもえる。(223p)

2022年4月26日火曜日

安浦へGO~

 民放のBSでローカル路線バスの旅を放送していた。広島駅から三原駅までの呉線を巡る旅である。安浦駅で下車して、その行く先は?と思いながら番組を見ていた。が、目的地が自分が目指すところとは違っていた。安浦といえば以前から南薫造記念館へ行きたいとの思いがあった。この番組を見て(安浦へ行こう)、との思いが募って早速出かける。

 ナップサックにカメラと最小限の必需品を持っていざ出発。自宅最寄り駅からJRに乗車して安浦駅まで約1時間乗車する。途中、広駅で三原行に乗り換える。広駅を発車後、安芸阿賀駅までの乗車時間はほぼトンネルを抜けるだけのような感じだ。が、トンネル内の轟音は(どうよ!)と言わんばかりのすさまじい音だ。まだJRが電化でなかった若いころに乗れば顔中すすだらけになりそうなくらいの轟音が響く。

 安浦駅に到着。呉線の大半は駅員がいない。我が地元駅も駅員はいるがみどりの窓口がなくなった。(さて記念館へは?)と駅を出ると歩いている人がいる。その人に記念館までの道を教えてもらう。途中、ゆめタウンがあった。だが、広い敷地に建つ建物はどう見ても営業中とは思えない。(せっかくの一等地にあるのに)、と思いながら目的地を目指す。ゆめタウンは2018年の豪雨で閉店を余儀なくされていた。途中、銀行から出てきた若い男性に場所を問うとまっすぐ行けばいいとのこと。だが、道が狭いので気をつけるようにと言ってくれる。

 さらに進むが一向にそれらしき建物がない。三差路になった。ここでまた尋ねると大通りをそのまま行けばいいと教えてもらう。歩くこと20分くらだろうか。やっと目的地に到着した。南薫造の生家が記念館と安浦民俗資料館になっている。

 民俗資料館は親の代が生活していた頃の様子がうかがえる。受付の係の応対はただただ親切、としか言いようがないほどいい人だった。今回の企画展は「耳をすませばー絵の『音」を聴いてみるー」。自然を描いた作品が多い。ここ安浦に生まれた南薫造は今の東京芸大で学び、卒業後はイギリスに留学。その後、ヨーロッパ各地で描いている。

 絵を堪能後、遅いお昼を、と思って係にその場所を教えてもらう。わざわざ地図を書いて教えてくれた。(カフェか台湾料理のいずれがいいか)と思いながら歩いていると先に目についた台湾料理の福祥閣に入る。久しぶりに本格的な中華の店、と思った。店内は時間的にお客のピークを過ぎてか、ひっそりしている。やってきた係は日本語はよくわからないような若い女性だ。

 から揚げ定食を注文するがとてもじゃないが一人で食べきれそうにない。から揚げの1つがふつう食べるから揚げの3つくらいもある大きさだ。ただ、ご飯はうるち米でなくタイ米のようだった。店内の調度品の誂えは台湾から取り寄せたのかどうか知らない。が、台湾の雰囲気にあふれている。だが、食べる際のテーブルが高くておぼれそうになりながら食べた。また、食べきれなかったから揚げは持ち帰らせてくれた。

 片道1時間余りの乗車の近場の旅だった。が、知らない街を行くのはちょっとした旅気分を味わえる。GWまでにもう1か所、出かけたことがない美術館を予定している。ブログ投稿中、友だちから電話がある。遊ぶ話だ。遠くへ行かれない分、せいぜい近場をうろつこう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!?

2022年4月25日月曜日

「102歳、ありがとうの人生」

  100歳から注目され始めた石井哲代さん。今朝の地元紙に102歳の石井哲代さんが元気に登場されている。102歳になられてもひとり暮らしとは立派という言葉しか出てこない。長く生きていればいい事ばかりの人生はありえないだろう。その辺りを「人は人。自分は自分。違っていて当たり前。私は元気で生きとるだけで上等と思えるようになりました。……」と話される。

 中国語を習い始めの頃、当時の中国語の先生であった中国国費留学生から聞いた言葉がある。「それはその人の考えですから」と。人から嫌な言葉を言われたりする度、嫌な気持ちがぬぐい切れなかった。何ごとも水に流せばいいものをそれができない自分がもどかしかった。その時、留学生が話した何でもないような言葉にハッとした。

 これは哲代さんんの言葉にも当てはまりそうだ。理屈ではわかっていても、何歳になっても、結構人の言葉に左右されることがある。ところが石井哲代さんは「うれしいこと、楽しいことは存分に味わう。落ち込みそうなことはさっと流す――」、「できなくなったことを追わない、くよくよしない。できることをいとおしんで、自分を褒めて、まだまだできるという自信に変える」と。

 本当に素晴らしい102歳を生きておられる。紙面をみると元気や勇気を貰える記事が多くない。今月110歳を迎えるはずだったダグニーさんは先月109歳で亡くなられた。

 メディアに登場する元気なお年寄りを見習って、さあ、今日の行動開始!

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

2022年4月24日日曜日

『夏草の賦(下)』

 GWまじかとあってこの土日は人の動きがある。それもそのはず、カープの試合が地元であるのでそれによる動きかもしれない。3連戦はDeNAとの試合で昨日は見事な勝ちゲームだった。地元紙のスポーツ欄を見ると久々にホームランを放った堂林選手の写真がある。今日もデーゲーム。テレビ観戦となりそうだ。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『夏草の賦(下)』(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年第15刷)から気になる箇所を抜粋した。

★「心がけ次第でいかようにも取りたててゆく。功があれば恩賞は望みのままである。ふるって武士になれ」と、土佐一国に布告した。……この志願兵制度によって、土佐では武士と農民の差別観念が薄くなった。たれでもが武士になることができ、功をたてれば一城のあるじになることも夢ではない。この制度は、元親の意図とはべつな効果をもはたした。土佐人の平等思想やあえて難におもむくという敢為の精神がこの国の風土精神になった。数百年後、元親のつくった郷士階級から勤王倒幕という、国家統一の運動者がむらがり出た遠因は、他国に類のない一国志願制度にあるということがいえるであろう。(28p)

★日本から田舎が消滅したのは、秀吉の天下統一によってであった。秀吉政権が大坂におかれてから、国々も物資もいったん大坂にあつまり、そこで値が立ち、それが貨幣のかたちにかわって全国に拡散した。秀吉の統一政権が流通経済を可能にし、流通経済が地方と中央を血管でむすんだ。地方にいる者も中央の動きによって方針をきめてゆくということも、このときからはじまった。が、元親のこの時期は、まだそこまでいたっていない。(80p)

★ひとは、利に貪欲なのではない。「名誉に貪欲なのだ」と、元親はいった。戦場においてひとびとが勇敢であるのは、自分の名誉をかけているのである。名誉は、利で量られる。つまり戦場における能力と功名は、その知行地の多いすくないではかられる。他人よりも寸土でも多ければそれだけの名誉であった。男はこの名誉のためにいのちをすら捨てる。「それが、男といういきものだ」と、元親はいった。(114-15p)

★――玉と砕けても、全き瓦として生き残ることを恥じる。ということばで、後世この心情は説明されるようになった。唐人や南蛮人には理解できぬりくつであろう。なぜ日本人にこういう気質がうまれたのか、筆者もよくわからない。あるいは風土によるものか。……インドネシア、ポリネシアといった南方島嶼民族には最後には理性をこえた痛烈な行動をこのむ気質があるという。土佐ははるか南から流れてくる黒潮のあらうところであり、日本人としてはもっとも南のほうの民族の血を多くうけついでいる。(117-118p)

★もともと四国制覇が秀吉の進出によってむなしくやぶれたことが元親をして落胆させ、世を捨てた思いにさせたのであったが、その心の傾斜が、信親の死によっていっそう大きくなったらしい。「男は、夢のあるうちが花だな」……「その時期だけが、男であるらしい。それ以後は、ただの飯をくう道具さ」といった。年少のころから激しく生きすぎただけに、それだけにいったんの頓挫で人並み以上に気落ちしてしまうのであろう。元親にとって一層の不幸は、戸次川の不幸があった翌月に妻の菜々が死んだことであった。(309-310p)

★筆者は。長曾我部元親において人間の情熱というものを考えようとした。これをもってこの小説はおわるが、その主題が充足したかどうかは、筆者にはわからない。元親の晩年は、一見、自分を投げてしまったようなところがある、(311-312p)

★元親は慶長四年五月十九日、六十一歳で死んだ。翌年関ヶ原ノ役がおこり、盛親は様子もわからぬまま成りゆきに身をまかせて石田三成につき、敗亡し、土佐をとりあげられてしまっている、元親が、世に対してすべての情熱をうしなった結果がその死後に出たのであろう。さらに大坂夏の陣ノ結果、長曾我部家はあとかたもなくなり、歴史から消えた。(314p)