2024年3月4日月曜日

『街道をゆく』(四)「郡上・白川街道、境・紀州街道ほか」

  『街道をゆく』(四)「郡上・白川街道、境・紀州街道ほか」(司馬遼太郎 朝日新聞社、一九九九年第十八刷)を読んだ。またいつものように気になる箇所をメモしよう。

★大悲山峰定寺(ぶじょうじ)は古来山伏の行場だったから、峰にも谷にも、よくなめした濃緑の皮革のような葉をもつ石楠花の灌木が、あちこちに群落している。修験道というのはこの高山植物を好む。石楠花の自生する山には霊気があるという伝承がぞの世界にあるらしい。(「洛北諸道」47p)

★宋学には、その成立の事情のために独特の歴史観があった。尊王賤覇(せんぱ)といったり、尊王攘夷といったりする。王家がいかに衰弱していてもそれは尊ぶべきであり、実力で国家や天下を支配している覇者と夷(異民族の実力者)というものは賤(いや)しむか、攘(うちはらう)べきである、という思想である。水戸藩の学者たちは、大日本史を編纂するにあたって、この輸入史観をもって南北朝時代に対し、正邪の色分けをした。この水戸史観が、のちに皇国史観になった。たとえば水戸史観の成立に深い影響をあたえた人に、日本に亡命してきた中国人の学者である朱舜水がいる。朱舜水自身の学問は古学者というべきもので、宋学のような観念論的なものではなかったにせよ、朱舜水の行動は宋学的であった。かれは明朝の末期に世に出て、やがて満洲にいた異民族が大陸に侵入して清朝を興すのをみた。かれは異民族出身の覇者に仕えることを好まず、長崎に亡命し、のち水戸藩の賓師になった。朱舜水は大日本史を編纂している日本の学者たちに対し、「南朝が正義である」という判定をした。朱舜水は、中国史や自分の体験に照らして武家政権を覇もしくは夷とし、それがかつぎあげている北朝を偽朝としたのである。(「山国陵」77p-78p)

★明治天皇は、北朝の裔(すえ)である。ところが明治維新は南朝を正統とする水戸イデオロギーによって成立した。イデオロギーというこの虚構はそれが虚構なればこそそれへ政治的熱情を転嫁することによって行動の原理に変化するというふしぎなものだが、ともかくも明治期にこの矛盾があった。……元老の伊藤博文は「南北朝の並立でいいじゃないか」という説だったが、山県有朋は、「もし北朝を認めるなら維新の鴻業(こうぎょう)は虚になる」という異常な昂奮ぶりを示し、わざわざ小田原から出てきて明治天皇に拝謁した。明治天皇の立場はつらかったにちがいないが、この天皇は明治維新が南朝イデオロギーで成立したことをよく心得ていたらしく、「いうまでもない。南朝が、正統である」と、さりげなく断をくだした。これによって明治四十四年三月、文部省が各地方長官に通牒するという形式によって「北朝の光厳、光明、崇光、後光厳、後円融の五天皇」は歴代天皇の系譜から削られてしまった。「ただし五天皇の御陵、祭祀だけは従前どおりにせよ」というのが、明治天皇の内意だったらしく、これによってたとえば山国陵も御陵であることから失格せずに済んだ。イデオロギー論争というのは、それが必要だった時代がすぎてしまえば、まるで夢の中の物語のようである。(「山国陵」83p-85p)

 今朝は晴れている。これから先も晴れるといいけど……。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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