『司馬遼太郎が考えたこと』(12)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。いつものように気になる箇所を記そう。
★廖承志さんは、才気とユーモアと愛情が同居した黒すぎる瞳をもっていて、驚いたように小さく瞠っていた。それと、広東・福建人に多い形のいい唇、さらには深い胸郭が印象的だった。初対面のころから心臓病の持病があることをきいていたが、あの招宴のとき、登り勾配になっている廊下を大股で歩くせいか、呼吸がみじかかった。……廖承志さんの精神には無垢な少年が同居していて、その後、数度接して人柄に馴れるうちに、その人格から、容易に少年を復原することができた。私は大きな人格には少年が涸れずに同居していると思ってきたが、この人格の質量の大きな人によって、その考えがまちがいでなかったことを知ったことは、大きなよろこびだった。死を知ったとき、あの深い胸郭のなかで、病みつつもけなげに搏動しつづけていた心臓のことを思った。自分の心臓まで一瞬妙なぐあいになった。(「思いだすのがつらい」65p)
★人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎での思案だけではどうにもならない。地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出遭うには、そこにかつて居た―あるいは現在もいるー山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。(「私にとっての旅『ガイド街道をゆく近畿遍』 102p-103p)
★草創期の日本の比較文学が、明治期で出色の書簡文学の書き手ともいうべき広瀬武夫のロシアにおける詩文の行跡が主題となって基礎をすえられたことは、文学研究史上の大きなできごとであったにちがいない。最後に、人間の精神は歴史の産物であることをおもわざるをえない。広瀬は単に存在したのではなく、農耕に江戸期を背負っていた。江戸期士族階級は、ニ百七十年のあいだ、ただひたすらに本を読み、しかもその読書の目的は、人間がいかに生死すれば美しいかという一点にしぼられていた。こういうふしぎな数百年を持ったのは、人類の文化史上、稀有なことといわねばならない。それらが発酵し、さらにくだって明治中期までに成人したひとびとのなかでさえしばしばそれが蒸溜されつづけていることを見出す。そのうちの一滴が広瀬であることを思うと、かれの精神のひびきを伝える詩文は、すべて後世においてもはや再生産されることはない。その意味において、本書(『広瀬武夫全集』)の編纂にあたり、関係者たちはあえて広瀬を軍人としてみることは姑(しばら)く措(お)き、みずからは決して志さなかった文学の徒として見ようとした。このことは『歎異抄』や『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をあえて僧侶の著述とみず、鎌倉という時代がもったもっとも高い心の調べを感ずべく文学の書として見る態度がゆるされていいということと同心円である。あわせて、この場合、文学の場というのはもっとひろげられていいという気分もある。(「文学としての登場『広瀬武夫全集』180p-181p)
★「この絵(注:宝くじを買う人々)を見てその造形性に感動しているのではなく、絵から勝手に自分がひきだしている文学性に感動しているのだ」というふうに、当時、自分をいましめた。しかし私は、がらにもなかったそういう職業を離れた。そのあと、カタログで見たゴッホの小さな一枚の素描がなんとすばらしいかったことだろう。……ながながと引用したのは、ここでゴッホにおいて、ほとんど根元的とさえいえる文学性を感じなかったのである。かれには、生きつづけることすら困難なほどにつよく、かつ固有な倫理的偏執があった。それがかれにおける唯一の爆発性をもつ感情であり、文学性としかいいようのないものであった。その感情がスクリュウーのように水を掻き、かれの生を運びつづけていたということを理解しないかぎり、ゴッホの絵の前には立ちにくい。ゴッホの諸作品を見て、円錐・円筒・球体論をぶつ人がもし居たととしたら、それこそ理論と言論先行の二十世紀の典型的画家、一個の漫画でしかない。……かれはその風景画に展開される自然すら、人間の姿を投影し、感情すら持たせた。いわば、人間そのものだった。さらにいえば、かれの地殻のなかでマグマのように動いている感情の噴出が、かれの絵であり、さらに絵となる以前は文学であり、また文学になり以前は、本来の意味での純粋で激情をともなった倫理だった。私はゴッホだけが絵であるとは決しておもっていないが、しかし人間が人間として描き、人間が人間の描いたものとして見る絵。画というものは、大なり小なりゴッホ的なものだとおもえるときに、私の絵画に対する気分は安らいでくる。(「裸眼で」268p-271p)
★昭和初年頃になると、竜馬という存在は、世間ではほとんどわすれられたようになっていた。そのころ、竜馬の銅像を桂浜に作ろうと思い立った大学生がいて、県下を歩きまわった。この人は県下の青年全員から、一人につきタバコ一箱の金(二十銭)をつのった。たちまち巨額の金があつまり、鋳造と建造の費用が出たというから、昭和初年までは、土佐の山野になお、”長曾我部平等”という意識が息づいていたといえる。この正月。そのときの大学生だった入交(いりまじり)好脩氏に出会った。……正月は、六日間、高知ですごした。高知は変わった、という印象もあったが、入交さんの変わることのない風韻をおもうと、風土というものは容易に崩れないものだと思えてきたりもする。(「あとがきに代えて」『歴史の舞台』296p-297p)
★文学というのは、結局は自分の中にある少年の投影だと私は思っている。同時に自分の中から少年が消失したときに作家は小説を書くことをやめてしまものだし、べつの表現でいえば、少年の感受性を多量にもっていなければ作家であることが成りたちがたいとも思っている。むろんこのことは、他の創造的なしごとにも通ずる。世故にたけて心のひからびたおじさんのイメージと、たとえばあたらしい音楽を創造することとは無縁のものだということを考えあわせればいい。この陳舜臣氏におけるうまれたての蝉のように濡れた心は、小説だけでなく、たとえば、すでに名作というよびかたをしてもいい『中国の歴史』(平凡社刊)にも通じている。(「両氏と私」『歴史の黄砂路にて』308p-309p)
★中国で、紀元前に成立したとされる『列子』という書物があり、その書物に杞(qi)という国の人は天が落ちて来はしないか、ということを心配した、というふしぎな話が出ています。この故事によって。ありうべからざることを心配することを杞憂というようになり、いまでも生きたことばになっています。(「訴えるべき相手がないまま」461p)
★講演が終わったあと、僕は「将来の同志社大学の学生のために字をかいてください」とお願いした。司馬さんは新島襄先生の言葉のなかにあったことを説明しながら「倜儻不羈」の四文字をしたためられた。司馬さんによれば「倜儻(てきとう)というのは、自分の考えをしっかりもつこと、人がああいうからといってそこへ行かないこと、自分の考えを明晰に持つことという意味です。不羈(ふき)というのは、(中略)馬の、手綱がつかない人、放れ駒のような人のことを不羈というわけです。人に御せられない人、そして明快な、いつも明晰な考えをもっている人、それが倜儻不羈であります」。これは司馬さんが明治時代人を介してご自分にいだいた理想だったのではないか。この言葉は、同志社大学の将来にというだけでなく、僕には司馬さんの日本人への遺言のように思える、倜儻不羈の人、それが司馬さんだった。(「司馬遼太郎さんと倜儻不羈」森浩一 502p-503p)
それにしてもまるで梅雨のようによく雨が降る。三越へ注文した眼鏡を取りに行かないといけない。が、晴れの日を待っていると取りに行くのが遅くなる。さてどうしよう?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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