2024年3月12日火曜日

『最後の伊賀者』

 『最後の伊賀者』(司馬遼太郎 講談社、2007年第1刷)を読んだ。この本には他にも『下請忍者』『伊賀者』『外法仏(げぼとけ)』『天命の絵師』『蘆雪を殺す』『けろりの道頓』が収めてある。以下、いつものように気になる箇所を記そう。

★――奈良に盲人あり。……――名を黙阿弥という。……順昭の死後、左近たちは、黙阿弥を順昭に仕立て、三年、病床に伏せさせておいた。故順昭は「三年」といったが、味方でさえ黙阿弥を主君と思いこむようになったため、喪を発したのはなんと永禄三年、足かけ十年目である。この間、盲人の黙阿弥はずっと病床にいた。その後、筒井家では黙阿弥の功労を謝し、多くの金品をあたえ、故郷に帰した。つまり「元の黙阿弥」になったという日本のふるい成語は、この故事から出たものだ。(『伊賀者』113-114p

★蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門勢家の大建築に描くような張りのあるものではない。そういうものこそ絵画だ、という理論を、学問のない応挙は「勅命があれば」という卑俗でいかにも事大主義なたとえで論じたわけである。呉春は、なるほどとおもった。……器用さがあって精神がない、と秋成が罵倒した欠点を応挙はむしろ、それこそわが画法利点だ、といわんばかりにすすめてくれたのである。(要するにわが才は、応挙のような大衆芸術に向いている)と呉春は、このとき翻然と悟った。ぜひ、と手をついて頼んだ。「ご門下の末席に」といったが、応挙は笑い、貴下ほどの才華のある人を門下にはできない。客分として来ていただくならば、といってくれた。その破格な待遇に、呉春は狂喜した。蕪村門下で窒息しきっていた自分が、所を変えれば、ここまで価値が逆転するものかと、ほとんどぼう然とするおもいだった。それからの呉春は美術史にくわしい。……蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で明利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、「勅命」で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。筆者は、むしろ呉春に同情してこの一編を書いたつもりだが、末尾に来てふと迷った。呉春は絵師として、成功したのかどうか。墓所は、師の蕪村と隣り合って、おなじ金福寺にある。(『天明の絵師』266-269p) 

 奄美大島の旅から帰って久々に風邪を引いた。20数年間、内科にかかっていない。が、さてどうしようと迷った。結局、2日ほどお風呂に入らずおとなしくしていたら元気になった。奄美の気温の温暖さと広島についてから白市駅でのJR待ちの寒さが体に響いたようだ。どういっても元気が一番。1月にメガネフレームの蔓が外れたが、またおなじ個所かどうかはわからないが外れてしまった。三越の眼鏡売り場へ、と気も焦るが、ここはゆっくりと。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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