鳳源寺と枝垂れ桜 |
鳳源寺 |
義士堂 |
廃線となった三江線が見える |
尾関山公園の枝垂れ桜 |
突き当りが田部(たなべ)家本宅 |
川底は茶色だが水は澄んでいる |
まさかたたら製鉄で財を成した一族の家を見るとは思ってもいなかった。今は25代目とか。季節季節にはいろんな行事を田部家で行うそうだ。
日本の桜名所百選の碑 |
この辺りは八岐大蛇発祥の地 |
鳳源寺と枝垂れ桜 |
鳳源寺 |
義士堂 |
廃線となった三江線が見える |
尾関山公園の枝垂れ桜 |
突き当りが田部(たなべ)家本宅 |
川底は茶色だが水は澄んでいる |
日本の桜名所百選の碑 |
この辺りは八岐大蛇発祥の地 |
今年の桜の開花時期は1週間遅れとか。連日の雨模様の日から一転して昨日は好天に恵まれる。桜の開花は今一歩だったが、昨日は県北の尾関山公園の桜と島根県雲南市の三刀屋河川敷の桜、そして同じく雲南市の木次(きすき)を流れる斐伊川の土手に咲く桜を見に行く。出かける何日か前から毎日、家の近くの桜を見ると一向に蕾は膨らみそうにない。半ばあきらめて桜を見るツアーに参加した。ただ、お天気は連日の雨模様とは打って変わって最高の行楽日和だった。
鳳源寺のしだれ桜 |
鳳源寺は「街道をゆく」の「芸備の道」に記されている。このお寺へは「芸備の道」を読んで行きたいところリストにメモし、行こうと思った。また、尾関山公園に隣接しているとも本で知っていた。まさか、今回のツアーで出かけることになるとは驚き。添乗員に教えてもらったことのお礼を言った。ツアーから一人離れて先にお寺へ行くと人の気配がない。車が庭に入ると和尚が下りたようだ。境内に池があるがどこにあるかわからない。聞こうとしたら和尚がいなくなる。仕方なく池を探すと入れないようになっていた。池はあきらめて境内を散策。観光客らしき若者が来た。尋ねると地元の人らしい。が、池はわからないという。そのうち、同じツアーの人も尾関山を後にしてやってきた。
フリータイムもなくなりそうなので尾関山を目指す。すれ違った人から楮ミツマタの花が咲いていると教わる。この花がどんな花なのか全くわからない。きっと山全体から見ると大きな木、と勝手に解釈した。ところが後で写した写真を見せてもらうと全く違っていた。小さな可憐な花だ。この花を見てみたかった。
この続きはまた後日。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
先日、梅雨のように雨が降る、旨のブログを書いた。今朝の地元紙を読むと「菜種梅雨の合間に……」との文がある。そうそう、梅雨のような雨ではなくて菜種梅雨だ、と気づかされる。菜種梅雨を改めて辞書で調べると「3月下旬から4月にかけて降る長雨」、とある。しかし、今年は2月から雨の日が多い。
昨日、小学校に植えてある桜を見ると一番大きな桜の木は蕾で、小さい方の木を見ると2,3か所花が咲いている。昨日は暖かい日で少しはつぼみも膨らんだかもしれないが今日は又もお天気が下り坂。そして最高気温は12度と低くなる。これではまだまだ桜の開花は望めそうにない。
『司馬遼太郎という人』(和田宏 文藝春秋、平成16年第2刷)を読んだ。司馬遼太郎の死因は急性心不全といった心臓疾患だと思っていた。ところが司馬遼太郎の長年の文藝春秋編集者である著者は腰部の動脈瘤破裂、と書いている。司馬自身は坐骨神経痛を疑わず病院にも行かなかったとか。以下、気になる箇所を記そう。
★「花神(かしん)」とは中国で花咲爺さんのことをいう。司馬さんは村田蔵六(大村益次郎)を書いた小説にこの題をつけた。日本の津々浦々の枯れ木に花を咲かせる役目を村田が背負ったと見立てたのである。その「花神」とは、司馬さんのことでもあった。(「司馬さんのかたち」61p)
★司馬さんは「坐骨神経痛」などではなかった。腰部の動脈瘤が神経を圧迫していたのである。最後はそれが破裂にいたり、急死する。私どもは司馬さんが苦しそうでも、「坐骨神経痛」が死に至る病などとは思ってもいなかったのだ。(「病気、そして死」231p-232p)
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
近いうち桜を愛でる日帰りツアーに参加する。ところが桜の開花宣言は出たものの嵐のような風が吹くと桜も開花どころではなさそうだ。今朝、ゴミ出しに外へ出ると近所の家の桜はまだまだという感じ。今年は平年と比べて1週間ほど開花が遅いらしい。期待せずに桜を見に行く!?
何の変化もない日々を送っている、と思っていたら年末から今年にかけて電気製品は壊れるし、玄関の鍵は抜けなくなるし、といったちょっとしたトラブルが発生している。昨日はお昼前に炊飯器でご飯を炊き終えて洗った後の片付けをしようとした。すると電気がまの内釜が外釜にうまくセットできず、無理やり合わせようとした。ところがこれが困難の元になる。内釜を取り外そうとしても全く動かない。困った、と思ってすぐに電気がまをもって近くの電気屋に駆け込む。幸い、店長と奥さんがいらっしゃった。店長はしばし考えた挙句、プラスかマイナスのドライバーをもって内釜に触れると内釜が外れた。よかった!
なぜこんなふうになった?と問うと電気がまの蓋をロックしたままで内釜を取り付けようとしたことが原因と教えてもらう。この電気がまを購入して2か月になる。その間3,4回ご飯を炊いているが初めてこんなことになった。以前の電気がまは内釜の蓋を洗って簡単に取り付つければよかった。ところが今の電気がまは圧力釜らしく内釜と外釜の取り付けが以前のものよりも手がかかる。もしも大型電気店で購入していたら釜を簡単には持ち込めない。大型電気店のクレジットカードは解約した。これからはますます近くの電気屋さんにお世話になるしかない。そう思うと本当にありがたい!
話は変わってこの頃、ハマっているお笑い芸人のYOU TUBEを見て初コメントをした。するとすぐに「いいね」に6件の反応があった。これには少々びっくり。週に2、3回ほど動画のアップがある。これは本当に楽しみ!また同じ芸人のツイッター(X)を見るとこの頃はテレビ出演も多くなっている。この情報を知るのも楽しみだ。応援のし甲斐がある!といってもテレビは生放送ではなくTverで見ている。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
昨日、やっと雨が上がったと思ったら昨夜から朝方にかけてけたたましく雷が鳴る。今朝は雷は収まったがまたも雨が降る。昨日、束の間に雨が止んだころを見計らって三越へ出かける。注文した眼鏡を受け取るとすぐに駅行きのバスを待つ。待ちながら久しぶりに駅まで歩こうとなった。いつもとは違う道を通って駅前の福屋に到着。途中、桜並木の川土手を歩く。昨日、標準木の桜開花宣言は出たが土手の桜の開花はまだ先のようだ。駅前の福屋で最初に行くところはカフェ。しばし休憩後、店内を見て歩く。
広島駅構内は来春の新駅ビル開業を目指して工事が進んでいる。大きな柱も見えてきた。6年後には広島駅から我が町の駅までJRの高架化が完成する。そうなれば町も様変わりするかもしれない。先のことは楽しみだけど自分自身もその頃にはさらに老いてゆく。あんまり先のことは考えたくない。
久々に夕方家路につくと家までの道で数人と出会う。どの人も雨続きの毎日で人と話したいのか立ち話になる。話草臥れたのか昨夜はよく眠った。といってもいつもよく寝るほうだが。なお、昨日の万歩計は9825歩とよく歩いていた。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
昨夜、スマホを触るのをやめようとしてテーブルに置こうとした。ところが横向きで適当に置いたら下に落ちた。しばらくして再度スマホを見ると何やら虫がいるように見える。おかしい、と思いつつ虫を捕ろうとした。が、それは虫ではなくスマホの画面に張り付けていたガラスのフィルムが破損、と気づく。
寝ていてもこのことが頭から離れず、今朝9時、ドコモがオープンすると同時に電話をかける。同じ機種のフィルムが一台あるとのことですぐに自宅最寄りのドコモに出かける。電話をかけた時点で「電話が込み合っています」というわりにはお客がいない。すぐに新たなフィルムと交換してくれた。代金6950円。と結構なお値段だ。
係曰く「フィルムの破損でよかったですね。フィルムがついていないと本体が破損します」と。なんでも雑に扱わず丁寧に扱わないといけない。
外に出たついでに三越へ、と思った。しかし、デパートの開店時間が遅いのでいったん家に戻る。戻るのはいいが途中の踏切で遮断機が上がらない。今朝は呉線と本線ともに遅れが発生している。遮断機が上がる間に6,7台の電車が通り過ぎた。三越に行くまでに列車の遅延がなくなるといいけど。
話は変わって昨夕、回覧板をもって隣の家に行こうとした。玄関を出たところで人と出くわす。名を告げられてすぐに大連のツアーで一緒だった人だと気づく。しばし立ち話をする。どういっても、今、自分の生き甲斐となっている司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むようにと教えてくれたそのうちの一人だ。大連に行ったのは今から5年余り前の12月。それ以降、バッタリわが家の前でこの人と2度出くわししている。その都度、大連の話で花が咲く。大連で坂道を歩くのがきついと話された。そのため二百三高地へは途中でリタイアされた。肺の病気できついらしい。見かけたところお元気そうだが、今も坂道はきついとか。
ツアー客の半分は雪道を歩く二百三高地をリタイアした。しかし、恐る恐る何とか二百三高地まで登った。今となってもよく雪道を登った、と我ながら感心する。その人曰く「今は源氏物語の講座に通っています」と。しかし、通っているカルチャーセンターが今月末で閉鎖になるとか。昨日は東京からの帰りだったようだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
『司馬遼太郎が考えたこと』(12)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)を読んだ。いつものように気になる箇所を記そう。
★廖承志さんは、才気とユーモアと愛情が同居した黒すぎる瞳をもっていて、驚いたように小さく瞠っていた。それと、広東・福建人に多い形のいい唇、さらには深い胸郭が印象的だった。初対面のころから心臓病の持病があることをきいていたが、あの招宴のとき、登り勾配になっている廊下を大股で歩くせいか、呼吸がみじかかった。……廖承志さんの精神には無垢な少年が同居していて、その後、数度接して人柄に馴れるうちに、その人格から、容易に少年を復原することができた。私は大きな人格には少年が涸れずに同居していると思ってきたが、この人格の質量の大きな人によって、その考えがまちがいでなかったことを知ったことは、大きなよろこびだった。死を知ったとき、あの深い胸郭のなかで、病みつつもけなげに搏動しつづけていた心臓のことを思った。自分の心臓まで一瞬妙なぐあいになった。(「思いだすのがつらい」65p)
★人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎での思案だけではどうにもならない。地域によって時代によってさまざまな変容を遂げている自分自身に出遭うには、そこにかつて居た―あるいは現在もいるー山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。(「私にとっての旅『ガイド街道をゆく近畿遍』 102p-103p)
★草創期の日本の比較文学が、明治期で出色の書簡文学の書き手ともいうべき広瀬武夫のロシアにおける詩文の行跡が主題となって基礎をすえられたことは、文学研究史上の大きなできごとであったにちがいない。最後に、人間の精神は歴史の産物であることをおもわざるをえない。広瀬は単に存在したのではなく、農耕に江戸期を背負っていた。江戸期士族階級は、ニ百七十年のあいだ、ただひたすらに本を読み、しかもその読書の目的は、人間がいかに生死すれば美しいかという一点にしぼられていた。こういうふしぎな数百年を持ったのは、人類の文化史上、稀有なことといわねばならない。それらが発酵し、さらにくだって明治中期までに成人したひとびとのなかでさえしばしばそれが蒸溜されつづけていることを見出す。そのうちの一滴が広瀬であることを思うと、かれの精神のひびきを伝える詩文は、すべて後世においてもはや再生産されることはない。その意味において、本書(『広瀬武夫全集』)の編纂にあたり、関係者たちはあえて広瀬を軍人としてみることは姑(しばら)く措(お)き、みずからは決して志さなかった文学の徒として見ようとした。このことは『歎異抄』や『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をあえて僧侶の著述とみず、鎌倉という時代がもったもっとも高い心の調べを感ずべく文学の書として見る態度がゆるされていいということと同心円である。あわせて、この場合、文学の場というのはもっとひろげられていいという気分もある。(「文学としての登場『広瀬武夫全集』180p-181p)
★「この絵(注:宝くじを買う人々)を見てその造形性に感動しているのではなく、絵から勝手に自分がひきだしている文学性に感動しているのだ」というふうに、当時、自分をいましめた。しかし私は、がらにもなかったそういう職業を離れた。そのあと、カタログで見たゴッホの小さな一枚の素描がなんとすばらしいかったことだろう。……ながながと引用したのは、ここでゴッホにおいて、ほとんど根元的とさえいえる文学性を感じなかったのである。かれには、生きつづけることすら困難なほどにつよく、かつ固有な倫理的偏執があった。それがかれにおける唯一の爆発性をもつ感情であり、文学性としかいいようのないものであった。その感情がスクリュウーのように水を掻き、かれの生を運びつづけていたということを理解しないかぎり、ゴッホの絵の前には立ちにくい。ゴッホの諸作品を見て、円錐・円筒・球体論をぶつ人がもし居たととしたら、それこそ理論と言論先行の二十世紀の典型的画家、一個の漫画でしかない。……かれはその風景画に展開される自然すら、人間の姿を投影し、感情すら持たせた。いわば、人間そのものだった。さらにいえば、かれの地殻のなかでマグマのように動いている感情の噴出が、かれの絵であり、さらに絵となる以前は文学であり、また文学になり以前は、本来の意味での純粋で激情をともなった倫理だった。私はゴッホだけが絵であるとは決しておもっていないが、しかし人間が人間として描き、人間が人間の描いたものとして見る絵。画というものは、大なり小なりゴッホ的なものだとおもえるときに、私の絵画に対する気分は安らいでくる。(「裸眼で」268p-271p)
★昭和初年頃になると、竜馬という存在は、世間ではほとんどわすれられたようになっていた。そのころ、竜馬の銅像を桂浜に作ろうと思い立った大学生がいて、県下を歩きまわった。この人は県下の青年全員から、一人につきタバコ一箱の金(二十銭)をつのった。たちまち巨額の金があつまり、鋳造と建造の費用が出たというから、昭和初年までは、土佐の山野になお、”長曾我部平等”という意識が息づいていたといえる。この正月。そのときの大学生だった入交(いりまじり)好脩氏に出会った。……正月は、六日間、高知ですごした。高知は変わった、という印象もあったが、入交さんの変わることのない風韻をおもうと、風土というものは容易に崩れないものだと思えてきたりもする。(「あとがきに代えて」『歴史の舞台』296p-297p)
★文学というのは、結局は自分の中にある少年の投影だと私は思っている。同時に自分の中から少年が消失したときに作家は小説を書くことをやめてしまものだし、べつの表現でいえば、少年の感受性を多量にもっていなければ作家であることが成りたちがたいとも思っている。むろんこのことは、他の創造的なしごとにも通ずる。世故にたけて心のひからびたおじさんのイメージと、たとえばあたらしい音楽を創造することとは無縁のものだということを考えあわせればいい。この陳舜臣氏におけるうまれたての蝉のように濡れた心は、小説だけでなく、たとえば、すでに名作というよびかたをしてもいい『中国の歴史』(平凡社刊)にも通じている。(「両氏と私」『歴史の黄砂路にて』308p-309p)
★中国で、紀元前に成立したとされる『列子』という書物があり、その書物に杞(qi)という国の人は天が落ちて来はしないか、ということを心配した、というふしぎな話が出ています。この故事によって。ありうべからざることを心配することを杞憂というようになり、いまでも生きたことばになっています。(「訴えるべき相手がないまま」461p)
★講演が終わったあと、僕は「将来の同志社大学の学生のために字をかいてください」とお願いした。司馬さんは新島襄先生の言葉のなかにあったことを説明しながら「倜儻不羈」の四文字をしたためられた。司馬さんによれば「倜儻(てきとう)というのは、自分の考えをしっかりもつこと、人がああいうからといってそこへ行かないこと、自分の考えを明晰に持つことという意味です。不羈(ふき)というのは、(中略)馬の、手綱がつかない人、放れ駒のような人のことを不羈というわけです。人に御せられない人、そして明快な、いつも明晰な考えをもっている人、それが倜儻不羈であります」。これは司馬さんが明治時代人を介してご自分にいだいた理想だったのではないか。この言葉は、同志社大学の将来にというだけでなく、僕には司馬さんの日本人への遺言のように思える、倜儻不羈の人、それが司馬さんだった。(「司馬遼太郎さんと倜儻不羈」森浩一 502p-503p)
それにしてもまるで梅雨のようによく雨が降る。三越へ注文した眼鏡を取りに行かないといけない。が、晴れの日を待っていると取りに行くのが遅くなる。さてどうしよう?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
昨日一日はお天気だったが今日からこの先、またも雨の日が続くようだ。お天気がいいと自ずと外へ飛び出したくなるし、泳ぎにも行きたくなる。しかし、雨の日はそんな気持ちが起こらない。今年は2,3月に雨の日が多いように思うがこれは気のせい!?
パソコンのメールはOCNメールを利用している。しかし、このごろは日に日に迷惑メールが増えている。その都度迷惑メールボックスに入れている。が、この撃退法はないものか、と探しているとあった。しかしそのやり方をしても迷惑メールは入って来る。今朝、「OCNメールの迷惑メール撃退法」で探すとあてはまりそうなのがあった。その画面を見ながら試みたがさてさていい具合に撃退できるか、気になる。
この2,3日前から他にも気になることがある。それはICレコーダ―の充電である。1年くらい前に充電ができなくなってほったらかしにしていた。何の気まぐれか、またもICレコーダが気になりだす。パソコンにつないで充電すると満杯に充電、の表示は出てもパソコンから外すと電源が入らない。いろいろ触っていてふと気づいた。本体をよく見ると開ける箇所がある。開けると電池があった。この電池が消耗した、と思って単四電池を交換した。すると電源が入った。
ところがここで問題になる。先に入っていた電池は充電式の電池だ。交換したのは充電式ではなくただの単四電池。これでもいいかどうかを調べるといいらしい。とりあえずICレコーダは使えるようになった。
ICレコーダが充電できないとわかった時、区役所の再利用のボックスで破棄しようと思った。ところがICレコーダは壊れてなくて充電ができなかっただけとわかると破棄せずにいてよかったと思った。
パソコンやスマホ関連で例えば先の迷惑メールのように何か困ればすべて「設定」から試みること。そしてICレコーダのような小型機器は電源を開けて調べること。この2つを肝に銘じよう。それにしてもICレコーダを買った時点で付属の電池を入れたはずなのに10年以上も経過するとそんなことは忘れている。困ったものだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
あることから『司馬遼太郎が考えたこと』の(12)から読み始めた。この(12)をアップしようとして再度読みかえすと誰が書いたかの記入漏れに気づく。再度図書館に予約してこれを確認後にアップしよう。(12)を読み終えてこのシリーズを全部読もうと思い、『司馬遼太郎が考えたこと』(1)(司馬遼太郎 新潮社、平成十七年)から読み始める。司馬遼太郎が誕生してから考えたことを司馬遼太郎記念館が編纂して15巻までシリーズ化している。
このシリーズは年代順に収めてある。(1)は司馬遼太郎が初期に書いたものでこれまで知らずにいた個人の履歴に驚かされる(※)。初めてそれを知った時はかなりショックだった。この事実は司馬遼太郎の死後、公にされたとか。しかし、(1)にはそのことが読みながらわかる箇所があった。
ヒトには公にできない事実があるんだ、と読みながら思った。それはひとまず置くとしてその続きがおかしい。司馬遼太郎は魚嫌いだったとか。一匹の焼き魚を焼死体と著すくだりは笑ってしまった。言われてみれば焼き魚は確かに魚の焼死体だ。そう思って食べたことはないが魚嫌いの人はそんなふうに思えるのだろう。お肉でも鶏肉は一匹の焼死体を食べる。それは北京ダック。大きなお皿に北京ダック一匹が出されてその焼きあがった皮をそいで食べる。といってもそぐのは係がしてくれて一人一人のお皿にはそいだ肉が置かれる。北京ダックもそう考えるとなんとグロテスクな食べ物だろうか。しかし、それを食するとき、とくに中国の高級料理店で食するときは鶏の焼死体、と思ったことが一度もなかった。
食べ物ひとつをとっても好きときらいでは食べる際の気持ちがこうも違うものかと思い知らされる。
以下、その辺りのことをメモした。今朝は久々に日が射している。いいお天気になりそうだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★私はいつも宴席でホザイテいる。ほざくしか手がないのである。私は生まれついての魚嫌いで、料理屋で出される純日本式の料理などはまったく手がつかないし、タイの焼死体などをみると、もうそれだけで胸がわるくなるのである。……女房をもらうとき、彼女はなんと魚は見るのもきらいだということがわかった。これだけでももらう価値があると、私は確信した。……「だけどあたしは、料理なんか一種目しか知らないんですのよ」「ああ、それでもリッパです」。新婚旅行はひなびた海辺の町へ行った。……その夜タイが出た。彼女と最初に食卓を囲んだ記念すべき夜であったが、きょう宴が始まる前に二人がまずしたことは新聞紙を取りだすことであった。ソッとタイをくるみ、窓から海辺へぬけだして、波のかなたへすてたのである。むろん食卓のうえの二つの皿は、カラになっている。旅館のあるじにすれば、果せるかな自分たちの好意がむくいられたと思ったに相違ない。この新しい夫婦の客は、感激のあまりアタマもホネもたべてしまったことは、カラの皿で容易に想像できるからである。……彼女は天才的な料理不器用であり、むしろ百万人に一人というその稀少さにおいて、それは才能というべきものであった、私はその天才的な不器用さを、よろこんで感受した。……彼女はなんと鮭の切り身を二きれだけ買った。それを錫箔でつつみ、それをフライパンのうえであぶる。切身は、錫箔のなかで蒸せる。それだけの手間で済む。しかし、彼女にすれば偉大なる大変革であった。私は目の前に出された二枚の皿をみて、彼女の苦心の誠意がひしひしとわかった。彼女は事もなくいった。「鮭はだいじょうぶでしょう?あたしは食べられるから」。……私はそれを拒むことができなかった。死ぬような思いで笑顔をつくり、さもうまそうにそれを食った。食いながら、これほどつらい料理が、私の人生で再びやってこないことを必死で祈りつづけたのである。(「魚ぎらい」123p-130p)
(※)メモとして(「影なき男」56p-60p)
昨日も寒かったが今日も寒くなりそうだ。寒の戻りのようだが、こんな日は家でおとなしく本を読む!?
昨日、友だちから桜を見ながらランチをしようと誘われる。まだ桜の開花ははやいので4月のランチとなった。昨年のスケジュールでランチの日を調べると3月25日。その頃はまだ満開ではなかったようだ。今年の開花予想は明後日のようだが、寒さが戻ると桜もじっと咲くのを待つ!?
さらに1年前のスケジュールを見ているとコロナ禍のときなので遊びに行く前はその都度PCR検査を受けている。そうまでして遊びたかったのか、と今になっても妙に感心してしまう。というか1年はあっという間に過ぎてゆく。立ち止まってあれこれ考える暇はない。行きたいところがあれば行くに限る。それは何も一人でなくてもいい。友だちと出かけても同じだ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
起床後、一番に見るのはお笑い芸人のX(ツイッター)。毎日、アップされる絵が今朝は10時過ぎだ。何も心配する必要はないのに毎朝のアップが早いと、遅い日のアップが気になる。
昨日夕方、ネット記事に読売テレビの速報が飛び込んできた。興味をもって読むと〈【速報】奈良・平城宮跡で木簡1000点発見 1300年前の聖武天皇即位の儀式「大嘗祭」の記録も〉とある。
平城京跡は先月一人旅をした場所だ。まだまだ奈良への興味は尽きないので「木簡の発見」に関心を抱く。それによると〈今回の発見は、1300年前も今と同じく「大嘗祭」が執り行われていた考古学的な証拠となりました。ただ「大嘗祭」は宮中で秘密裏に行われる儀式で、今回、なぜ宮中ではなく、朱雀門の外の穴から、こうした木簡が大量に見つかったのか謎だといいます。奈良文化財研究所は、今後、ほかの木簡すべて分析し、大嘗祭との関係について解き明かしていく予定です〉とある。
歴史嫌いが歳を経てひょんなきっかけから中国近代史に目覚めた。それからというもの徐々に歴史を遡って興味を引いている。そしていつの間にか歴史好きになっていく。これは運動嫌いや絵を描くのがきらいだったことと同じようにいつの間にかこの2つをやり続けている。それと同じように歴史好きがさらに昂じていく!?
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
今朝の地元紙にゴミ出しが困難な高齢者に対して市が無償代行する旨の記事がある。これに当てはまる高齢者は今のところ1600人余りいるそうだ。この記事を読んでいつの日か自分もゴミ出しにいけなくなるかもしれない、と思った。が、市が無償代行してくれ、安否確認もしてくれればありがたい制度に思える。
新聞ではないがネット記事で知ったことがある。それは卵のゆで方。数か月前から毎朝、ゆで卵を1個食べている。ゆで卵をゆでる前に殻を少しへこませると卵の殻がきれいにむける。他にも調理したものをプラスチック容器に入れ、使い終わって洗おうとする。その際、容器についた油がすぐにはとれない。それを楽に洗うには容器に少しの水と台所洗剤を入れて蓋をし、何度か振る。そうするとすぐにきれいになる。
これを知らずにいた時は台所洗剤がすぐになくなっていた。ところがネットで知って試すと難なく脂分がとれる。何気ない記事でも読んでみるものだと思った。
情報化社会と言われだして久しい。しかし、これについて行く人とそうでない人とに二分される気がする。なんとかついて行こうとする者にとってはそうでない人と話すのが苦手になる。そういう人は何でもかんでもすぐに否定する。これが苦手になる所以かもしれない。
ヒトのことはどうでもいい。が、なるべく最小限でいいから時代について行きたい。その方が日々楽しいに違いない。
昨日は久々に母の月命日にお墓まいりをした。相変わらず隣の墓地は荒れ放題。猪か鹿が何か獲物を探すのだろうか。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
追記)昨日、社会人大学生として学んだ大学からパンフが送付されてきた。毎年、いろいろと送付されるが、それを見ながら思った。何十年ぶりかで学び始めたころに常に言われたことは「情報を制する者は世界を制する」ということ。今の世で情報をシャットアウトして生きて行くのは困難を極める。この言葉の持つ意味がよく分かる。せいぜい、今の世を元気で生きるためにも情報は欠かせない!?
風邪気味だったりしてフルートの練習がおろそかになっていた。フルートは吹かずにいると、いざ吹こうと思って吹くと立ち眩みがする。それくらい呼吸を必要とする楽器だ。少しずつでもいいから吹くように心掛けているが、今一歩、風邪気味だと自然とフルートから遠ざかる。これでは吹けなくなると意識を変えてフルートを吹く。まだ、立ち眩みまでには至らないのですぐに音が出た。練習している曲はかなり前にさらったベートーベンのロマンツエ ヘ長調。頑張って練習しよう。
奄美から帰って奄美のYOU TUBEを見ている。昨日、さんまの娘のIMALUが出ている奄美大島のケーブルテレビを見ているとまだまだ知らない奄美がたくさんある。IMALUについて奄美旅行中のカヌー体験でインストラクターに聞くと奄美北部に住んでいるという。昨日の動画では奄美南部を取り上げていた。短い旅行ではわかり得ないことが動画で知ることもある。
この2,3か月、お笑い芸人にハマり動画というかYOU TUBEを見るのが楽しみになった。そのためかYOU TUBEのアプリを開くと自ずと興味ありそうな動画に当たる。IMALUの動画もそうして見るようになった。スマホは賢い機械なので持ち主が何に興味があるかを判断して画面に映し出すのだろう。そうとしか思えない。というのも自分自身が検索して見始めたことではないのだから。
風邪が治って元通り元気になると、泳ぎに行きたくなる。プールはこの1か月以上、行っていない。これから先の天気予報を見ると気温は上がったり下がったりと落ち着いていない。体調管理をして風邪を引かないように気をつけよう。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
日本画教室で蓮の絵を描いている。昨日は蓮の葉に彩色する。一通り塗ったところで濃淡を施す。その際、濃い色を膠で溶いたので、これは水面に塗るようにと教わる。ところが塗り方が均一になった。これではまずいので次回はこの辺から塗りなおそう。先生曰く「失敗すれば何度でも塗ればいい」。この言葉は絵が下手なものとしては勇気を出して色が施せる。
描いている蓮の花はF6サイズ。しかし、教室の人の大半はサムホールに描いている。近いうちサムホールの出品者を募って展覧会の開催がある。これは日本画だけではなくあらゆるジャンルのサムホールの賞レースとなるらしい。こういうことへの参加はまったく興味がなく、ましてやその域に達していない。教室の人の大半は出品するようだ。
サムホールといえば来週、可部線沿いの大型ショッピングセンターで展覧会がある。この参加に迷っていたら先生から2月に習っている場所での文化祭に出品したのと同じ絵を、と言われる。昨日、教室が終わると生徒の一人が車に乗せて出品作を持って行ってくださるとのこと。お願いした。
展覧会では出品作を会場まで持参しなくてはいけない。教室の作品展は業者にお願いする。しかし、今回のサムホールは小さいので教室の人にお世話になる。ただ、展覧会場は初めて行く場所だ。展覧会がはじまれば知らない街を行くのが好きなので見に行こう!
話は変わって絵を描いているときの雑談で某芸人のXのフォロワーになった話をした。名前を出さずにいたら追求されて名を出した。しかし、大半は知らない様子だ。自分自身も年末ごろに知った気がする。「その人の何が好き?」、「芸が好き?」といろいろと問われて「生き方が好き」と返答した。姿かたちも気になる条件かもしれないが自分としては人の生き方に関心がある。そのためおのずと人がよさそうな、いい生き方をしている人に惹かれる。これは有名無名には関係がない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
東京に住む姪にレターパックのライトを利用してお祝いを送った。レターパックはライトとプラスの2種類があり、ライトは郵便ポストから送る。レターパックそのものはコンビニでも売っているようだが今回はライトになって初めての利用で郵便局で買った。親切に送り方を教えてもらってポストに入れる。
県北に住む友だちにも何か贈りものを、と思ったままでまだ送っていない。奄美のお土産をと物色したが加計呂麻島の黒糖ばかりすすめられて2袋かったはいいが、これを贈り物にするには淋しすぎる。近いうち眼鏡を受け取りに三越へ行くので何か適当なものを、と思ったり。送る時はまたレターパックを利用しよう。
レターパックで送る際、控えの番号が書いてある。そのシールをはがし、それに基づいて荷物を追跡できる。これが面白くて何度か追跡を試みる。自宅最寄りのポストに午後2時ごろ投函。ポストの集荷は午後4時半。すぐに追跡するが反応はなく、午後8時前にやっと市内の郵便局に「引受」となり、翌日の午後1時半、東京の郵便局に「到着」。そして午後3時半、「配達完了」、となる。
普通の郵便物は東京などへは4,5日ほど日数がかかる。しかし、レターパックは翌日につく。代金は全国一律370円、と安い。これから何かあればこれを利用しようと思った。ただ、送る厚さが3㎝しかない。しかし重さは4㎏までとかなりある。
今日は最高気温の予想が19度と暖かくなりそうだ。本格的な桜便りももうすぐ聞こえてくる!?風邪も治って元気になった!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
ラッパ水仙が咲いた |
世界遺産奄美大島3日間の旅 その2から続く。
3日目 2024年3月6日(水)
奄美大島の地図 |
山羊島ホテルだけあってホテル前に 小屋を建てて3匹の山羊を飼っていた |
あやまる岬 |
あやまる岬 |
向こうに見えるは笠利崎灯台 |
あやまる岬から下をみるとレジャー施設があった |
あやまる岬バス停 バスは一日に数便 |
大島紬村 |
大島紬に欠かせない車輪梅の木 |
受付棟 |
屋外の泥染田で泥染めの作業 |
大島紬加工場見学 伝統工芸の名人の間ですべて人の手に拠っている |
染織工房外観 |
大島紬村内はまるで植物園のようだ |
奄美大島伝統の高倉 |
美ら門(きょらもん)出口 |
大島紬ギャラリーショップもある |
蒸溜 |
奄美大島酒蔵の工場 |
鶏飯(けいはん)コップの中はお水 右は鳥肉のお刺身 |
『最後の伊賀者』(司馬遼太郎 講談社、2007年第1刷)を読んだ。この本には他にも『下請忍者』『伊賀者』『外法仏(げぼとけ)』『天命の絵師』『蘆雪を殺す』『けろりの道頓』が収めてある。以下、いつものように気になる箇所を記そう。
★――奈良に盲人あり。……――名を黙阿弥という。……順昭の死後、左近たちは、黙阿弥を順昭に仕立て、三年、病床に伏せさせておいた。故順昭は「三年」といったが、味方でさえ黙阿弥を主君と思いこむようになったため、喪を発したのはなんと永禄三年、足かけ十年目である。この間、盲人の黙阿弥はずっと病床にいた。その後、筒井家では黙阿弥の功労を謝し、多くの金品をあたえ、故郷に帰した。つまり「元の黙阿弥」になったという日本のふるい成語は、この故事から出たものだ。(『伊賀者』113-114p)
★蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門勢家の大建築に描くような張りのあるものではない。そういうものこそ絵画だ、という理論を、学問のない応挙は「勅命があれば」という卑俗でいかにも事大主義なたとえで論じたわけである。呉春は、なるほどとおもった。……器用さがあって精神がない、と秋成が罵倒した欠点を応挙はむしろ、それこそわが画法利点だ、といわんばかりにすすめてくれたのである。(要するにわが才は、応挙のような大衆芸術に向いている)と呉春は、このとき翻然と悟った。ぜひ、と手をついて頼んだ。「ご門下の末席に」といったが、応挙は笑い、貴下ほどの才華のある人を門下にはできない。客分として来ていただくならば、といってくれた。その破格な待遇に、呉春は狂喜した。蕪村門下で窒息しきっていた自分が、所を変えれば、ここまで価値が逆転するものかと、ほとんどぼう然とするおもいだった。それからの呉春は美術史にくわしい。……蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で明利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、「勅命」で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。筆者は、むしろ呉春に同情してこの一編を書いたつもりだが、末尾に来てふと迷った。呉春は絵師として、成功したのかどうか。墓所は、師の蕪村と隣り合って、おなじ金福寺にある。(『天明の絵師』266-269p)
奄美大島の旅から帰って久々に風邪を引いた。20数年間、内科にかかっていない。が、さてどうしようと迷った。結局、2日ほどお風呂に入らずおとなしくしていたら元気になった。奄美の気温の温暖さと広島についてから白市駅でのJR待ちの寒さが体に響いたようだ。どういっても元気が一番。1月にメガネフレームの蔓が外れたが、またおなじ個所かどうかはわからないが外れてしまった。三越の眼鏡売り場へ、と気も焦るが、ここはゆっくりと。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
世界遺産奄美大島3日間の旅 その1から続く。
2日目 2024年3月5日(火)
高知山展望台へ |
奄美のヒカゲヘゴが生い茂る |
高知山展望台に上がって霧でで何も見えず |
高知山展望台から雨でぬかるんだ遊歩道を降りる |
古仁屋港 大きなマグロのモニュメント |
赤い車は水中タクシー |
水中観光船「せと」に乗船 ガラス越しにサンゴ礁と熱帯魚の海を遊覧 |
ホノホシ海岸からの眺め |
ホノホシ海岸 何人かは浜辺まで降りていた |
ホノホシ海岸までの道 |
赤土山展望台 |
写真がないのでカヌーのチケットの画像から |
大浜海浜公園 |