2022年9月6日火曜日

『街道をゆく』 (十九)「中国・江南のみち」

 台風11号が接近している。今のところ雨はそれほど降っていないが、時に強い風が吹く。ただただ無事に台風が通過するのを願うばかりで落ち着いて何もできない。

 家に積読のままにしていた司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの数冊を読み終えた。このシリーズは何十巻とあり、まだ読んでいない巻もこの際、ついでに読み終もうと思っている。ついでに……、とはいえ簡単に読める本ではない。まだ読み終えていない『街道をゆく』シリーズを読み終えようとすれば1年以上かそれ以上はかかりそうだ。目下のところ司馬作品全読破が今の大半の生き甲斐なのでこれはこれで楽しくなりそうだ。

 以下は『街道をゆく』 (一九)「中国・江南のみち」(司馬遼太郎 朝日新聞社、昭和62年第1刷)から気になる箇所の抜粋である。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★「羌」(きょう)という中国西北角住んで古代、粗放な牧畜をしていたチベット系の勇敢な民族は、周の王室とも血縁上の関係があったが、秦の人民の多くはこの「羌」の農耕化したものではないかと思われる。いまなおその末孫たちが、羌(ちゃん)族として四川省などに住む。(9p)

★粽(ちまき)については、楚の屈原が汨羅(べきら)に身を投じたことをひとびとが哀しみ、この日にこれをつくって食べるというのは本家の国でいまもおこなわれる。日本でもわりあいすたれない。いうまでもないことだが、菖蒲が尚武の音に通ずるということで、日本では武者人形をかざったり鯉幟をあげたりする。このことは、中国にはない。(78-79p)

★故河上徹太郎は、岩国の人である。氏に「独立のこと」という随筆がある(『河上徹太郎全集』第五巻)。……吉川広嘉は、錦川にかかる橋がしばしば氾濫で流れるため、構造をどうすべきかで悩んでいたのだが、独立からその話をきき、――西湖の石橋の絵がありますか。ときくと、独立は長崎にあります、と答えた。すぐさま飛脚を出し、とりよせて広嘉にみせると、この殿様は案(つくえ)をたたいて笑んだという。この程度のヒントで、名橋錦帯橋ができた。(94p)

★漢文では、田と畠(畑)の区別がなく、粟を植えても瓜をうえても、田である。……漢字文明が、水田地帯長江流域(楚・呉・越)で発生せず、水田のない黄河流域で発達したからであろう。……日本では、タとハタケを厳密に区別した。……このため、畠も畑も日本製文字で中国にはない。 (99-100p)

★樋というのは、りっぱな漢字だが、しかし中国においてはある種の樹木の名をさし、日本でいう「ひ」や「とい」の意味はまったく持たない。……(中国には、樋がなかったのか)過去形にしたのは、ごく最近に建った屋根つきの公共建造物や新築アパートなどには、といが設備されているからである。古い民家は、実見したかぎり、例外なしといっていいほどそれがない。(101p)

★「行」をあん(ハン)というのは、ひょっとすると、杭州あたりの土着の音だったかもしれない。……日本では奈良朝以来「行」は呉音で「ぎょう」漢音で「こう」だけで済んできた。鎌倉・室町期に、南宋とひんぱんに交易したために「あん」という音まで入りこんでしまった。(113p) (注:例として行燈、行脚などがある)

★中国人には中華思想があるという。たしかに、歴史的には存在した。「華夷の別をたてる」というのは、歴史的中国の伝統思想で、価値はすべて華(文明)であることのみに集約される。「華」の内容のほとんどは倫理的慣習のことで、武力や科学文化を指さなかった。夷(非文明)もまた、人種論ではなく、漢民族のもつ倫理的価値を持っていない集団および状態をさしている。歴史的な漢民族というのは、夷のひとびとを禽獣にひとしいものとしてきた。繰りかえすようだが、中華思想には人種論は含まない。 (125p)

★新中国は、仏教については寛容であったが、中国的迷信の卸し問屋の道教については、これを根絶した。宗教とはいいがたいほどに迷信化し、科学主義をたてまえとする政治原理にとても適わなかったからである。道教は、福・禄・寿を願望とするどぎついばかりの現世利益の心を庶民の暮らしに浸透させていた。したがって、道観もまた、朽ちるがままになっているが、他の目的に使われている。たとえば、蘇州城内の代表的な道観だった玄妙館は博物館になっているし、他にもそういう例が多い。(181p)

★「尊」というのは、元来、酒器から出ている。……この「尊」に酒を盛って先祖を祀るところから、尊いという形容詞や尊ぶという動詞が派生した。「爵」も、殷・周のころの酒器であった。……王が、諸侯の僚臣の身分に応じ、それぞれ等級に適った「爵」をあたえた。酒器としての「爵」をあたえる相手の等級には、殷のころは侯・爵・伯の三等級で、周になると侯・公・伯・子・男の五等級が存在した。明治の日本は、一八八四年(明治一七年)に華族令第十条をさだめ、西洋のまねをして侯爵、公爵、伯爵、子爵、男爵の五爵をつくったが、名称は周の古制からとった。制度は西洋にとり、名称は古中国からとって、一方では封地をとりあげられた旧大名をなだめ、一方では維新の勲・元老にいい気分をさせるというふしぎな制度だった。この場合、「爵」というのはもともと酒器であったことはわすれられた。(248-249p)

★私にとってこのたびの中国の旅の目的は、寧波(ニンポー)を見ることであった。べつにだいそれた欲はないが、この古い町と港のにおいを嗅げればいい。むろん、海も見たい。さらに、運さえよければ、この古い河港から海へ出てゆく――あるいはもどってくる――ジャンクのさまざまを見たかった。寧波・寧波港は日本歴史ときわめてふかい関係をもつにもかかわらず、残念なことに、ここまで足をのばす旅行者がすくなく、さらには、日本人の学者で寧波研究を主題に選ぶ人がすくない。寧波は、唐・宋のころ、「明洲」とよばれていたことは、よく知られている。(263-264p)

0 件のコメント:

コメントを投稿