9月も中旬になったというのに連日33度の暑さが続く。この暑さ、まだまだ収まりそうにない。日本の四季は春と秋がなくなって夏と冬だけになるのだろうか。そんなことを思ってしまう。着る服もこう暑くては何とか涼しい格好で、との思いしか浮かばない。結果、毎日同じような格好をしている。
買ってそのままにしていた『街道をゆく』数冊を読み終えた。まだ読み終えていない『街道をゆく』は図書館で借りて読むようにしよう。
以下は『街道をゆく』(二十)「中国・蜀と雲南のみち」 (司馬遼太郎 朝日新聞社 昭和62年)から気になる箇所をメモしたもの。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★新中国成立以後、食糧増産の大方針は、草原の開墾をも大きなプログラムに組み入れた。モンゴル人には昔からの禁句(タブー)として、――土をひっくりかえす。ということがある。鍬で耕せば、ひっくりかえされた土がたちまちに乾いて、やがて風塵の季節に風が天へ舞いあげてしまい、あとはかつての草原の草も生えず、砂漠になってしまうのである。……内蒙古から発したその砂漠化はいまでは北京周辺にまでおよんでいるという話をきいているが、私はその実否について張和平さんに質問しなかった。かれが農業問題の専門家であるならともかく、かれが研究したこともないテーマでこの良友をくるしめたくなかったのである。(69-70p)
★伝統的な中国社会にあっては、君子、あるいは士大夫や読書人などとよばれるひとびとは、精神を労する人ということで、肉体を労するひとびとより上位に置かれる。「君子」というのは、孔子が興した儒教にあっては高度の道徳性をそなえた理想的人格ということだが、同時に官僚という意味もある。……君子の反対語が小人だが、基本的には、庶民、労働者という意味である。……杜甫は、常時は官にいなかったが、知識階級であるという点で、君子であった。すくなくとも労働などをして小人に身をおとすなど思いもしない階級に属した。……君子の「志」は、治国平天下ということになっている。……儒教国家の知識人がもつえたいの知れぬ、あるいは伝統としてごく自然な尊大さが、わが杜甫にもうかがえる。むろんこのことは杜甫個人の人格論ではなく、杜甫においてみることができる伝統的な中国の一側面である。(132-134p)
★四川省滞在中、四川の犬は太陽を見ると吼える、ということわざを横川氏からきいて、ことばのおもしろさを知った。いくら蜀の犬でも太陽を怪しんで吠えないと思うのだが、そういう言いまわしによって、蜀の曇天がイメージとしてひろがるのである。もっとも、帰国後、「蜀犬日ニ吠ユ」ということばは、すでに唐の中期の文章家の韓愈(七六八~八二四)がつかっていることを知った。見聞や見識の狭い者が卓れた言行に接したとき、それが理解できず、疑って怪しみ攻撃することをいう。韓愈そのひとは蜀にきたことがなかった。かれがそういうたとえをつかっている以上、蜀の雲霧のはなはだしさが、知識としてひろく知られていたにちがいない。(151-152p)
★心に貪りが生ずれば満ち足りるということがない、ということを「望蜀」(ぼうしょく)という。『後漢書』の「献帝紀」に、曹操のことばとして出てくる。……そのとき「人間というのは、足りるということがないために苦しむのだ。われわれはすでに隴(ろう)(いまの甘粛省)を得た。この上なお蜀を望むか」といったという。(152p)
★滇(てん)王嘗羌(しょうきょう)は漢の使者に対し、漢ト我ト孰レガ大ナルヤ、とたずねた。『史記』の筆者はさらにつづけて、夜郎侯が漢の使者に会ったときも同じ質問を発した、と書いている。自然がその社会を閉鎖しているがために、かれらは外界を知らず、みずから大なりと思ってる。そういうユーモアが行間にこめられているために、「夜郎自大」という慣用句がここからおこり、こんにちにいたるまで、中国でもわが国でももちいられている。(163p)
★清朝自身が、東胡とよばれる満州ツングースによる征服王朝であるため、夷や胡、虜、狄といった異民族呼称をきらい、雍正帝の十一年(一七三三)勅命によって禁止し、夷族は彝族と書かれるようになった。彝は『周礼』(しゅらい)に出てくるふるい文字で、宗廟をまつるとき酒を盛ってささげる器のことで、雅字である。彝章といえば「守るべき法則」であり、彝倫といえば人間が守るべきモラルのことで、文字としてとびきりいい。(168p)
★歴史というのは、民族呼称という面でも厄介なものである。辛亥革命(一九一一年)は清朝を斃して共和制体を樹立したかがやかしいものであるが、そのスローガンが「減満興漢」(異民族である満州人を滅して漢民族を興隆させる)であったため、異民族への否定的要素をふくんでいた。明治維新にもそのことに似た要素がある。明治期、結果として類のないほどに極端な文化革命がおこなわれ、いわば近代主義が昂揚されることになるのだが、維新前後は、それだけでは革命の爆発力になりにくかった。神道や国学ナショナリズムあるいは尊王攘夷といった復古的もしくは士族的排他主義が起爆力の一つになっていた。辛亥革命もまた、合言葉としては減満であり、興漢たらざるをえなくなり、結果として、イ族の呼称まであおりをくらってもとの「夷族」にもどるのである。当時、国民党時代は夷族であった。(169p)
★「イ族のことをロロぞくともいいますが」と、民族学者の松原正毅氏がいうと、老先生の声がにわかに大きくなった。「ロロ、これも蔑視語です:」老先生の顔に、怒りがあらわれていた。しかしながら、不幸なことに、世界中の文化人類学者がイ族のことをLoloとよんで、学術後になっており、世界中の辞書や論文からこの世界語を追いだすことは不可能といっていい。ロロというのは、かつてはイ族自身が自称してたというから、決して蔑視語ではなかった。このことは、漢字が表意文字であるという不都合さからきている。かつて漢族が、ロロ族に対し、玀猓などという悪意をこめた文字をあたえたために、漢字を知るロロ人にとって腹の煮えかえるような蔑視語に変質したにちがいない。表意文字をもつ欧米人の学者にすれば、こういう視覚的印象におそらく鈍感なのではないか。(229-230p)
★アーチは、イタリア半島のティレニア海に面した小地域に密度の高い文化をつくったエトルリアに由来するといわれている。ローマ文明はこれを吸いあげて、城門や橋にアーチを多用した。(241p)
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