2021年8月1日日曜日

鬼灯(ほおずき)

スーパーで買った鬼灯(ほおずき)
 スーパーの花売り場で鬼灯を見つけた。袋に入った鬼灯は朝、切り取られたばかりのようで生き生きとしている。袋には2本入っていた。多分、1本の鬼灯が長いため半分に切って2本にしたのだろう。買ったのはいいのだがスーパーで知り合いに声を掛けられて長く立ち話をした。(せっかく珍しいものを手に入れたのに……)と思いながら家路につく。

 葉っぱはしおれていた。葉っぱの付いた方の鬼灯を花瓶に活けるとすぐに元気になった。もう一方は花瓶に入れられないので横にしておく。鬼灯が入れてあった袋を見ると「鬼灯は、お盆に先立って咲く旬の花。お盆にご先祖様が帰られる時の導きの赤い提灯とされ、お供え物として用いられます」とある。

 毎年のようにこの時季になるとスーパーの店頭に並ぶ鬼灯。なぜこの時季に並ぶのかが分かった。今朝、花瓶に活けた鬼灯を見るとまだ葉っぱは生き生きとしている。赤く染まっていない青いままの鬼灯が4つある。うち1つは赤くなりつつある。赤い提灯、とはうまい表現だ。

 実は13個ついている。2本の鬼灯を1本にすると7,80㎝の長さはあるだろう。鬼灯と言って思い出す。まだ小学生だった頃、隣町にあるJR駅の裏側は辺り一面ブドウ畑だった。そのそばに生えていたのが鬼灯。スーパーで買ったような長さはなく、背丈は短かった。鬼灯が実っているのを見つけると勝手に畑に入って鬼灯を失敬した。が、誰も怒る人はいなかった。ただブドウをとった覚えはない。というのもブドウは産地なので実るころはいつでも食べていた。

 とってきた鬼灯の赤い実の中身を待ち針で出していく。これもまた楽しみで袋がはじけないように丁寧に中身を出す。空になった鬼灯の実を口に入れて膨らませて音を出す。これが楽しみだった。道を歩くときは鬼灯を探し、見つけてはこうして遊んでいた。子どもの頃の楽しい思い出だ。

 ブドウ畑は鬼灯を探すために通るのではない。近くの筏の浮いた川に泳ぎに行った際の道中で見つけた。当時は泳ぐことができず筏に乗って遊んだりしていた。夏休みとなると近所の人たちに連れられてほぼ毎日のように川へ行った。川の沖は海。海へも歩いて行けた。貝堀や青のりなどとっていた。今は海辺りは埋め立てられて市場となっている。

 運動嫌いだったはずなのになぜか小さいころは近くの山や川、そして海にもよく行って遊んだ。当時は家の前の小川はふたもされておらず、蛍も飛びかっていた。家の前は今は家が建っているが当時は畑でどこでも遊べた。思い出しても楽しい日々だった。

 ところが今や山の方に行っても畑はどこにもない。池もあったはずなのに池も全くない。ブドウ畑の辺りは駅裏とあって今や一等地の場所になっている。ただ変わりなくあるのは2級河川の川だ。ここだけはどんな時も水をたたえて流れている。

 今朝は久々に昔を思い出して懐かしむ。楽しかった日々はあっという間に過ぎていつの間にか老人になってしまった。歳をとるのも悪くない。元気であればいつの時代もいい時代だったと思えてくる。さてさて買った鬼灯。これからどうしよう!?

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

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