『十六の話』(司馬遼太郎 中央公論社、1997年)は司馬遼太郎が書いたり話したりしたものをまとめた一冊である。小説とは違ってこれはこれで読んでいて面白い。司馬の小説の中に「余談として」書いた部分が頻繁にある。この本はそんな余談なのかもしれない。
雨はひとまず落ち着いたようだが、まだはっきりしないお天気だ。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『十六の話』から気になる箇所を記した。
★江戸期のひとびとは、自分の口語言語を訓練するために、共通した方法をもっていました。武士階級は、必須の教養として謡曲を習ったのです。謡曲とは、ご存知のように能の脚本です。それを文学作品として見、多少の節をつけて学び、自分の言葉づかいが下品にならないように心掛けました。これに対し、商人階級は、浄瑠璃を学びました。それによって言葉を洗練させるとともに、他人と交渉する場合の修辞のために役立てたのです。謡曲も浄瑠璃も、早期資本主義という殺風景な社会において、精神の栄養になったと思います。(「文学から見た日本歴史」34p)
★インド文明と中国文明の基本的なちがいは、インドが思弁を偏愛して時間的記録をよろこばないことである。それにひきかえ、中国は思弁よりも時間ごとに記録をのこすことを偏重する。簡単にいえば、中国文明は歴史をよろこび、インド文明は記録好きをあざけりはしないにしても、その価値に無感動である。大きな輪廻からみれば、何年にたれがどうした、などということは虚仮(こけ)にすぎないと古代インド人は思っていたのだろう。(「華厳をめぐる話」111-112p)
★古代インドは日常語のほかに、学問語であるサンスクリットをもち、文法学者が活動し、言語の精度をつねに保っていた。古代インド思想は、このすぐれた言語によって表現されたのだが、釈迦もまた当然、その言語で自分の考えを言いあらわした。(「華厳をめぐる話」112-113p)
★釈迦の本質が慈悲であるからには、本質にねざした固有のねがい(本願)があるにちがいない。ひとを救うというねがいである。ひとはその釈迦の本質にすがりつけばよく、それが、大乗仏教へ出発をなす論理なのである。(「華厳をめぐる話」115p)
★大乗とは、大きな乗り物のことをいう。つまりはおおぜいが乗りうるということで、言いかえると、大きな規模の体系ともいえる。(「華厳をめぐる話」119p)
★真理と光明(太陽を思えばいい)を一つのものとしてあかるくうけとめたのは、菩薩意識のつよい大乗仏教の気分そのものといっていい。その絶対者・あまねきもの・光明というものが、『華厳経」における毘盧遮那仏なのである。むろん、姿も色もない。(「華厳をめぐる話」122p)
★華厳の道場として東大寺も建立された。東大寺というのは、華厳教学を研究し、華厳を修し、ついには蓮華蔵世界を得るべき心をやしなう器官なのである。(「華厳をめぐる話」131p)
.★日本仏教が、隋唐の中国仏教であることと密接にかかわりがある。仏教の言語が、隋唐・宋元の中国語であることも、釈迦はふしぎを感ずるのにちがいない。しかも、僧の名がみんな中国語であることに、釈迦は違和感を抱くだろう。(「叡山美術の展開――不動明王にふれつつ」149p)
★蟠桃とは三千年に一度実を結ぶという伝説の桃のことで、”この世にふしぎというものはない”と蟠桃が排しきったはずの奇談に属しつつも、あえてその荒唐無稽を逆手にとり、音を番頭に通じさせたあたり、いっそうのユーモアを感じさせる。(「山片蟠桃のこと」174p)
★信長は、日本最大の仏教拠点である叡山を、無用有害のものとして元亀二年(一五七一)これを包囲し、あらゆる建物を焼き、数千の僧やこれに準ずる者を殺した。信長に仕えてその伝記を書いた者はこの事件を批評し、「叡山を亡ぼした者は叡山である。信長ではない」と書いたが、平素、叡山の雰囲気を好む私でさえ、この歴史上の事件をふりかえって、信長を責める気持ちがおこらない。(「大阪の原型――日本におけるもっとも市民的な都市」254p)
★大坂城という日本史上空前の土木・建築工事が、三年を満たずして完了したということだけでも、秀吉がいかに奇蹟的な才能のもちぬしだったかを証明している。土木工事そのものは、三人の奉行(責任者)にやらせた。そのうちの一人の浅野長政をのぞき、あとの二人(石田三成、増田長盛)は、事務系の出身者だった。(「大阪の原型――日本におけるもっとも市民的な都市」266p)
★中国で、紀元前に成立したとされる『列子』という書物があり、その書物に、杞(qi)という国の人は天が落ちて来はしないか、ということを心配した、というふしぎな話が出ています。この故事によって、ありうべからざることを心配することを杞憂というようになり、いまでも生きた言葉になっています。(「訴えるべき相手がいないまま」321p)
★人類の未来に希望のない発言が最近しばしばありますけれども、地球の緑さえ守ってゆけば我々にも未来がある、子孫たちは何とか生きられるだろうということが、近ごろしきりに思われてならないのです。緑はすべての基礎です。(「樹木と人」357p)
★国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は「文章語にして語れ」ということである。(「何よりも国語」369p)
★世のために尽つくした人の一生ほど、美しいのものはない。ここでは、特に美しい生がいを送った人について語りたい。緒方洪庵のことである。かれは、名を求めず、利を求めなかった。あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生がいは、ふり返ってみると、実に美しく思えるのである。……人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。少年時代の洪庵もそうだった。(「洪庵のたいまつ」373-375p)
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