天気予報を見ると札幌と沖縄が最高気温31度と同じ予報で、他の都市よりも気温が低い。県内で見ると市中よりも県北の方が気温が高い。一般的には沖縄が一番気温が高いイメージがある。が、このごろは日本のどこに住んでいても気温の高低はあんまり関係ないのかもしれない。なんやかや言っても毎日暑すぎる。特に今年は暑い。これもすべては自分が年老いたせい!?自転車に乗って泳ぎに出かけたあの日はどこへ行った?こう暑くては自転車にも乗れない。スーパーへも歩いて行く始末。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
以下は『国盗り物語』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋、平成十八年八十八刷)から気になる箇所を記した。
★日本史の治乱興亡を通じて、なぜ天皇家が生き残ってきたかといえば、この血族信仰のおかげである。氏族の頂点に、天皇家があるのだ。土岐家は源氏で、その遠祖は八幡太郎義家にさかのぼり、さらにそのかみは清和天皇から出ている。源平藤橘(げんぺいとうきつ)すべて、その祖を天皇家におく。当時、どの日本人も、むろん土民までも、遠祖はその四姓のいずれかであると称した。(10-11p)
★大名のなかでも特に公卿好きな周防(山口県)大内氏などは、頼ってやってくる公卿どもを気前よく受け入れたため、その府城山口は、「西の京」といわれたほどである。(45p)
★庄九郎とほぼ同時代に生まれたルネサンス期のイタリーの政治思想家マキャヴェリは云っている、「力こそ世の静まりをもたらすものである」と。かつ、マキャヴェリは、能力のある者こそ君主の位置につくべきだ、といった。能力こそ支配者の唯一の道徳である、ともいった。、このフィレンツエの貧しい貴族の家に生まれた権謀思想家が、自分と同時代の日本に斎藤道三こと庄九郎がいるということを知ったならば、自分の思想具現者として涙をながして手をさしのべたかもしれない。(100-1p)
★印度の鳥である。この鳥は、好んで毒草や悪虫を食べるがため、古代印度人はこれを「孔雀明王」として神格化し、人間を害する貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)の三悪を食べつくしてくれると信じて信仰した。(107p)
★幸若舞の「敦盛」をはじめた。
人減五十年 化転のうちにくらぶれば ゆめまぼろしおごとくなり
人間など、観じ来れば一曲の舞にもひとしい。――生あるもののなかで滅せぬもののあるべきか。庄九郎の好きな一節である。後の庄九郎の女婿になり、岳父の庄九郎こと斎藤道三を師のごとく慕った織田信長は、やはりこの一章がすきであった。(133-134p)
★「法名とは?」頼芸は、きいた。「道三」と庄九郎は答え、その文字まで説明した。菊丸に頭を剃らせているときに考え付いた入道名である。「道三とはめずらしい法名だな」「道に入ることで(入道、出家すること)三度でござるからな」……「死ぬるとき」平然と答えた。仏法では、死は単なる死ではない。往いて生くるという。死はすなわち道に入ることである。庄九郎は二度入道し、さらに三度目の往生まであらかじめ勘定に入れて、このさき生きようとしている。(139P)
★革命家にとって、目的は手段を浄化する。「ならぬ」ということでも、やる。幕末の勤王家は、同時に盗賊であった。殺人犯でもあった。しかしながら、かれらはその理想のためにその行為をみずから浄化し、その盗みを「攘夷御用」と称し、その殺人を「天誅」ととなえた。庄九郎も、かわらない。ただかれが日本の幕末や他国の革命家とちがう点は、その革命をひとりでやった点である。(179-180p)
★要するにこの物語は、かいこがまゆをつくってやがて蛾になってゆくように庄九郎が斎藤道三になってゆく物語だが、斎藤道三一代では国盗りという大仕事はおわらない。道三の主題と方法は、ふたりの「弟子」にひきつがれる。……信長は道三のもっている先例を無視した独創性を学んだが、いま一人の弟子は、道三のもつ古典的教養にあこがれ、その色あいのなかで「道三学」を身につけた。この弟子が、明智光秀である。歴史は、劇的であるといっていい。(181p)
★「美濃の蝮」と、戦国の諸雄からおそれられた斎藤道三こと庄九郎が、その史上で名を高らしめた斎藤姓を名乗るようになったのは、天文五年の春である。……庄九郎が斎藤姓を名乗ったこの天文五年の元旦に、おなじく隣国尾張中村のあばらやでひとりの奇男子が生まれている。のちの豊臣秀吉である。道三、信長、秀吉とつづく戦国の系譜は、この年の前後に誕生したわけである。(240ー241p)
★気運(しお)とはおそろしい。庄九郎の信ずるところでは、「気運が来るまでのあいだ、気ながく待ち、あらゆる下準備をととのえてゆく者が知者である」といい、「その気運が来るや、それをつかんでひと息に駆け上がる者を英雄」という。(369p)
★ひとは、――美濃の蝮と、庄九郎のことをいう。……――なろうことなら、小守護様(庄九郎)のお屋形の見えるまわりで田を耕したい。とのぞんだ。蝮は蝮でも、この男は人気のある蝮だったといっていい。……法華経は、仏を説いている。(乱世では、ほとけもマムシの姿をしているものさ)とおもっている。が、庄九郎は、自分が蝮だといわれていることを気にする段階はすぎた、とおもっている。これからのちは、一方で善政を布きつつ、内外に対して、――おれをみろ、蝮だ。がらりとひらきなおるべき時期にきた、と庄九郎は見ている。(380-381p)
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