『余話として』(司馬遼太郎 文藝春秋、2020年新装版)を読んだ。この本は小説としては書ききれなかったこぼれ話を集めたエッセイ集である。頁数も短く、読んでいてもあの長い小説とは比べ物にならないほど短い文章が並ぶ。著者本人の書いた文章ではなく「解説」として白川浩司が書いた文が気になる。ここに記そう。
★中国を筆頭に、アジアには「専制の系譜」とでも呼ぶべき伝統がある。どんな王朝でも、ひとたび権力を握ると国のものは自分のもの、みんな国を私してしまう。ネポティズムは当然で、帝妃の一族が国費を乱費したり国政を壟断したりするのは、共産党政権になっても変わらない、それがアジア的専制の特徴である。「ところが日本以外のアジアで二人だけ、そうならなかった指導者がいる」と、司馬さんは言われた。「誰ですか」と問うと、台湾の李登輝総統と韓国の朴正煕大統領。この二人だけは、一族を重用もしないし国の財政を私したこともない。それはなぜかといえば、「日本の近代化の影響でもあるんだね」司馬さんが言われたのはそこまでである。(解説「座談の名手・司馬さん」白川浩司 274p)
先日まで読んでいた『国盗り物語』全4巻を読み終えて今は同じく司馬作品である『戦雲の夢』を読んでいる。これは長曾我部盛親を描いている。出版社は講談社でこれまで読んだ文藝春秋や新潮社とは趣が異なる。同じ文庫でもちょっとだけ文字が大きいようだ。とはいっても相変わらずの長編小説だ。
コロナは日に日に感染者が増えている。昨年のこの頃、コロナは来年になれば少しは収まると思った。が、それどころか新規感染者は増えるばかり。1年半ほどコロナ禍に悩まされての生活も慣れがあるのか、家に一人でいることが苦痛にならなくなった。これも困ったことで、(コロナが収束すれば遊ぶぞ)という気持ちが薄れてゆく。(まだまだ人生これから)という気持ちでいないといけない。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
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