地元紙と今朝の新聞折り込みチラシを見ると地元のデパートの営業時間変更の知らせがある。午前11時から午後7時までの開店で営業時間が短縮されている。コロナウイルスで外に出るな、動くな、ということ!?運動不足になりそうで2日前から買い物は徒歩で行く。携帯万歩計は2000歩くらい。これでは運動不足解消までには至らない。午後になって図書館から予約確保のメールが入る。再度、徒歩で外に出る。買い物と図書館の2回外に出ても4000歩しか歩いていない。
図書館の帰りに近所の小・中・高校時代の同級生と久しぶりに出会う。小学校卒業以来、会ったこともない同級生と3人で会おう、と話題になる。この話は断る。親しかった人でもなく、何のなつかしさもない人と昔話をしても面白くない。
以下は『翔ぶが如く』(九)(司馬遼太郎 文藝春秋、2002年新装版第1刷)から。この巻にやっと「上代の隼人が
翔ぶがごとく襲い、
翔ぶがごとく退いたという集団」とあるように、タイトルの
「翔ぶが如く」が出てくる。
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!
★久光は、西郷をこころよくは思っていない。久光の西郷に対する不快の最大のものは勝手に幕府を倒したことであり、次いでに主家をいわば裏切って大名を否定する廃藩置県に加担したことであり、さらには島津家の家来でありながら東京でいわば勝手に陸軍大将になったことである。36p
★村田は若いころから西郷の弟分として自分の位置を決め、文久二年(一八六二年)、西郷が久光のために徳之島に遠島になったときに新八も同類として鬼界ケ島に流されたほどであったが、維新後は、西郷は必ずしも村田に酬いるところが多くはない。
村田はすでに述べたように三年間欧米を視察して帰国後に西郷に殉じ、辞職して帰郷した。帰国後、村田は他郷人に、「外交の困難なる、西郷といえどもどうすることもできまい」と漏らしたことがある。西郷がたとえ政権をとっても征韓論のような単純な国家行動はとれまいという含みのある言葉かとおもえるが、勝海舟をして村田は一国の宰相の器量があると言わしめたことは、この言葉にも多少は匂っている。64-65p
★木戸はかねて鹿児島県が暴慢で太政官の命令に遵わないのを憤っていたし、また東京の官員の圧倒的多数が鹿児島県人であることに痛烈な不満をもち、右の二件についてかねがね大久保に捻じ込み、善処方を要求していた。大久保は木戸のいうことを是認しつつも、大手術をおこなえば薩人のうちの官員派までが反乱へひるがえるかもしれないことを怖れ、なんの処置もおこなわなかった。木戸の理解では、西南戦争の遠因は、大久保の同郷人に対する甘やかしあるとしていた。さらに近因については、例の西郷暗殺計画事件にあるとした。木戸はこの事件について私学校側のいうとおりであるとしていた形跡がある。97p
★明治初年の会津士族ほど悲惨な境涯に落ちたひとびとはいない。
当時、青森県の下北半島の斗南などという土地は、人の住めるようなところではないとされた。薩長政権は会津藩から豊かな会津盆地をとりあげ、この斗南の荒蕪の地を仮に三万石と評価して移住させた。敗残のかれらは和船に乗ってつぎつぎに下北半島へ移って行ったが、まことに大集団をそのまま配流させたにひとしい。斗南の地で飢寒に苦しんだかれらが、薩長人の肉を啖(くら)いたいほどに憎んだのもむりはないであろう。102p
★肥後の俗謡に。雨はふるふる、人馬は濡るる、越すに越されぬ田原坂、とうたわれた情景は、とくにこの日の記憶が詠ぜられたものかもしれない。越すに越されぬというのは薩軍の立場ではなく、政府軍の立場であった。田原坂を越さなければ熊本城に入ることはできないのである。135-136p
★ひどくなまな感情だが、ゆらい憎悪というのはその次元が低いほど激しい。もっとも会津人の理性の次元においても、憎悪は生まれうる。会津人は戊辰は西郷と薩人たちの私欲より出たものだと思っていたが、私学校決起を反革命と見ることによって確認した。その確認もまた憎悪を生んだといっていい。156p
★「鹿児島県士族の気質」ということについて、薩摩出身の陸軍大佐高島鞆之助は、私学校が暴発した早々、山県陸軍卿に対し、説いている。
「彼等は進を知って退くを知らず。唯、猪突を事として、縦横の機変に応ずるを知らず」
まことに上代の隼人が
翔ぶがごとく襲い、
翔ぶがごとく退いたといという集団の本性そのままをいまにひきついでいるかのようである。
高島鞆之助はむしろこれを自分の出身集団の美質であるとおもっており、さらにいえばかれらに機変に応ずる才や能がないとは思っていない。無いのではなく、戦いに臨んで小才を利かせて右往左往することを美的に嫌う習性があることを、長州人である山県に説いているのである。159-160p
★天皇の権威は、この時代の士人一般の教養だった朱子学に拠っている。朱子学は徳川幕府が思想統一のために採用した官学であったが、幕府にとって無用の副作用もあった。朱子学は観念論的一面が濃厚で、王を尊び覇を賤しみ、また大義名分論という朱子の当時の中国の政治事情から出た思想もあり、この朱子学の一面が幕末において統幕思想のよりどころになった。163p
★維新が成功すると、かれらは大量の郷党をひきいてかれらを要職につけ、薩摩閥を形成した。このことは、西郷が古典的英雄であったとしても、近代的な革命家としては不塾な人物であったことの証拠の一つとして考えていい。
このため、多くの薩摩人の意識にとって維新は栄職につくたねとして考えられるようになった。183p
★総帥である西郷隆盛への宗教的尊崇心以外に政略も戦略もなく、あとは個々の殉教心をたよりにしているというところでは、まったくそれに似ているというべきであった。宗教一揆が凄惨な自己消耗のいくさをするように、田原坂の陸軍も消耗のはてに全軍が消えてしまうのではないかというほどに激しく戦った。193p
★(どうも、あの連中、陰気だ)
と、桐野は西郷とそのまわりの村田、池上の大人(おせ)くさい分別面を見るのが、この敗軍のなかではやりきれなかったのかもしれない。
桐野は、江代に到着すると同時に、諸隊長をあつめて軍議し、部署をきめた。
西郷やその幕僚が、人吉にいる。かれらをよばず、了承を得ず、独断で軍議を開き、部署をきめ、命令を発したのである。
このあたりに桐野の性格が出ているし、私学校蜂起の真因がどこにあったかも露あ(あらわ)になっているし、さらには、桐野に乗せられた西郷の奇妙な立場と、西郷が立ちあがったために自分の意見を捨て、西郷のみに殉ずべく参加した村田新八の課題も、大地の亀裂が赤土を露わすように色鮮やかに露呈している。……桐野があらたに部署した戦線は、地図によってつないでゆくと、じつに約数十里におよんでおり、肥後平野においてひとたび敗れたとはいえ、いささかの気魄のおとろえをみせていない点、桐野らしいといっていい。287-288p
★戦いは勝った。本来ならば勝ちに乗じ、薩軍に追尾し、その準備のととのわぬうちにこれを撃って撹乱させるのが兵の常道だし、そのための兵力は十分以上だったのだが、どの将官たちも、薩軍の強さがよほど肝にこたえたらしく、慎重主義の山形の性格に順ってこのあたりで休養したかった。山県は後年、「灰塚での方針は、まちがいだったかもしれない。あのとき短兵急進して敵を追撃すればこれを鏖殺(おうさつ)できたかもしれない」と述懐しているが、みな狂薩病にあっていたであろう。296p
★諸道の政府軍の進撃を早からしめた理由のひとつは、各地で降伏した薩軍の小部隊が、降伏するとともに政府軍の道案内をつとめ、薩軍の配置などを教えたからでもあった。べつに政府軍が強制したわけでなく、「降伏したからには、菅兵として働きたい」と、かれらが積極的に望んだからであり、その口上はさらに情緒的で「万死を冒して前罪を償いたい」というものであり、一種、奇妙というほかない。
このことは日本古来の合戦の慣習であったであろう。降伏部隊は鉾を逆(さかしま)にして敵軍の一翼になるというものであり、駒を奪(と)ればその駒を使うという日本将棋のルールに酷似している。ついでながらこの古来の慣習はその後の明治陸軍の弱点として意識されつづけ、日露戦争のときも捕虜になった日本兵は日本軍の配置を簡単にロシア軍に教えた。とくに敵中へ深く入り込む奇兵斥侯が捕虜になる場合、騎兵の特質上味方の配置を知っているために、かれらが口を割ることによって日本軍の作戦がしばしば齟齬した。この体験が、昭和以後、日本陸軍が、捕虜になることを極度にいやしめる教育をするもとになったといっていい。319p、