2020年3月16日月曜日

『翔ぶが如く』(十)

 『翔ぶが如く』(十)(司馬遼太郎 文藝春秋、2013年新装版第11刷)を読んだ。以下は気になる箇所を抜粋したもの。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★私学校の暴発は、遠因としては征韓論うんぬんというよりも同郷の大久保利通が主宰する太政官の相次ぐ旧体制破壊への憎しみであり、金因としては大久保に協力して太政官的文明を推進しようとする川路利長が、「西郷の大恩を忘れて大久保へ奔ったばかりか、刺客を送って西郷を殺そうとした」という事件であった。私学校暴発の目標は、要するにこの二人であった。67p

★「みな、死せ」、と叱咤した。全員戦死の気魄でやれば、なんとかなる、というのが西郷の戦争哲学であった。鳥羽伏見はこれでなんとかなり、本来革命家である西郷が、そのときの勝利によって戦いの指導者としても神秘的盛名を得るようになった。120p

★他の多くの者は、希望あるなしにかかわらず、戦って死ぬなら故郷の山で死にたいという思いが、本能か、あるいはそれよりも深い場所でうずいていたかと思える。本来、薩人は故郷主義がつよく、この軍事行動さえ、説明のつきにくい故郷主義の肥大からおこったともいえる。……そういう彼等の行動は、かれらが伝統として理屈や道理よりも容赦なく美のほうを選ぶ精神の習慣が強烈であったために、痛ましさを越えて美しくもあった。168-169p

★薩人は(野村)忍介のような場合、だまって胎の底に折りたたんで、運命と戦いのなかでいさぎよく死んでゆくことを薩摩武士の美であるとしてきた。薩人の教育と人間としての理想は美学に偏し、あるいは美学のみであったかもしれない。183p

★切腹という思想と行為が、無用なほどに流行して武士道に密着したのは、江戸期のことである。戦いのたねがなくなり、武士的気概や美学を合戦の場で表現する折がなくなったために、江戸期的な観念性のなかにそのことが居据わったものかと思える。薩摩においては、武士の最期はあくまでも闘死にあり、この意味でも薩摩の士風は戦国武者のそれをそのままひきついでいたといっていい。229p

★かれ(桐野)の自慢の佩刀は、庄内の旧藩主酒井氏が、戊辰のときに寛大な処置をうけたという礼として桐野にあたえたもので、銘は綾小路定利である。かれが陸軍少将に任ぜられたとき、これを洋刀拵えにした。鞘は純銀、それへ純金の線の象嵌を入れ、つばとつかは純金というまことに燦然としたもので、古来これほどに大げさな拵えもめずらしい。郷士あがりの桐野は維新後でさえ門閥のうるさい薩摩において異例ともいうべき栄達を遂げた。一剣をもって陸軍少将になったという気勢いこみが、この佩刀の拵えにこめられていたともいえるし、あるいはまた戦国武士の風を残す薩摩気質としては、外装において美と異を誇示し、自分の武と潔さを世間に約束するということで、むしろ好ましいことであったといえるかもしれない。275-276p

★が、桐野は単なる殺人鬼ではなかった。人の命を断つことに正義を感じはするものの、人の命を守ることにも、つよい倫理観と自然な優しを持っていた。薩人たちの多くが桐野を好む。そのことは、桐野の本来のものともいうべき無私の心と、無私であるがために人格のリズムが飄々としていることと、さらには右のような優しさというものが理由になっていたであろう。278p

★戦闘終了直後の政府軍の士卒や軍夫の殺伐さというのは、人間の所行とはおもえない。さきさきに城山のあちこちにころがっている薩兵の死体がほとんど裸だったというのは、戦闘終了とともにいち早く山へ駆けのぼった軍夫たちのしわざといわれた。戦死者の粗末な衣類でもあとで洗い張りすれば古着屋へ売れるのである。310p

★――大久保を殺そう。
というふうに島田が決意したのは、飛躍でも何でもない。殺すという表現以外に自分の政治的信念をあらわす方法が、太政官によってすみずみまで封じられているのである。幕末の志士も、ほとんどのものが口を合わせたように、「言路洞開」を幕府に対して要求してきた。野の意見を堂々と公表させ世、あるいは公議の場に持ちこませよ、という意味であり、幕府はそれを極度に封じ、私的に横議する者があっても「浮浪」として捕殺した。幕末における暗殺の頻発は、ひとつには在野を無視したための当然の力学現象ともいえなくなく、幕閣にある者も「言路洞開」の必要を口にした者が多かった。3336p

★西南戦争は、村田新八でさえあきらかに指摘したように、大久保と西郷の私闘にすぎない。それが拡大して、東京で官途についた薩人と郷国にいる薩人との私闘となり、この争いを巨大なものにしたのは、西郷と近衛将校団の帰国であった。彼らの大挙帰国が薩摩の独立性を強くし、いよいよ中央政府の拘束から遠くなった。これを中央化するというのが大久保・川路の目標であったが、元来が同藩同士だけに、わずかな挑発でも結果は悲惨なものになった。川路はきわめて大胆なことに、この県下に帰郷組を送りこんだのだが、それが結局は戦争の導火線になった。そういう近因からいえば川路がこの戦争の挑発人であり、その恨みはすべて大久保にはねかえった。350-351p

★それらの代表がなんといっても大久保利通であった。彼は自分たち官員の成立事情のお寒さには目をつぶり、この絶対権力を文明開化の巨大な推進隊にし、官員たちに対し、その輝ける推進者であるというふうに鼓舞し、その意味での正義を与え、それによって官僚たちの士気をいやが上にも高め、かれらの郷党に対する後ろめたさを忘れさせようとした。その開花への正義の熱狂的な信者の代表的な存在が、川路利長であった。かれのその熱狂的な目から見れば、時代の被害者にすぎない郷党の者たちが頑迷固陋な反革命主義者に見えた。(書きおえて)361p

★……主人公は要するに西郷という虚像である。虚像と対立する側や虚像の周辺をしらべてゆくうちに、私自身の中で、大小の驚きが連続した。ついに私自身が驚くために書いているような奇妙な気持ちさえ持った。……(書きおえて)364p

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