2020年2月19日水曜日

『歴史を紀行する』

 昨日は母の祥月命日。お花をもって墓参りをする。墓地の入口のお墓に見知らぬ人が参っている。誰?と思って声をかけると1年前に50歳の若さで交通事故で亡くなった人の奥さんだった。墓の主はよく知っている。だが、その縁者は知らない。感じがいい人なのでしばし立ち話。それにしても50歳で亡くなるとはあまりにも若すぎる。荒れ模様だった一昨日の風を心配して昨日、墓参りに来たという。平凡に生きている。いろんな人生を垣間見たお墓参りとなった。

 司馬遼太郎への熱はまだまだ冷めそうにない。生きているうちに司馬遼太郎の全作品を読み終える気持ちに変わりはない。読んだリストをワードに作成。全作品読破となるとかなり長生きしないと読み終えれない。我ながらこの歳になってよくもハマったことよ、とあきれる始末。それくらいハマってしまった。読む本があるのはいい。ましてや目が悪くても本が読めるのがさらにいい。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

 以下は『歴史を紀行する』(司馬遼太郎 文春文庫、1998年第41刷)から。

★たとえば土佐人の無神論的あっけらかん性である。この土地の一種の奇蹟は、日本最大の宗旨である本願寺宗をほとんど歴史的にも現在も受け付けていないことであり、自然、日本人が共有している後生欣求的な湿潤な瞑想の感情をもっておらず、江戸時代からそれが珍奇とされた。
 珍奇とされた事象としてよくいわれるのは、老人になっても男女とも寺詣りをせずポリネシア人のごとく、狩猟や魚釣りという後生にもっとも障りのある殺生を老人どもが好むことであり、他国人がそれを指摘すると、「この世を楽しめばよい」と、どういう土佐の老人もいう。どういう悲惨なはなしでも、土佐人はそれを因果応報の暗い宗教的教訓に仕立てることはせず、からりとした俗謡にうたいあげて明色かしてしまう。
 その楽土礼讃性、非瞑想性、余韻嫋々の哀切感について音痴性といったものは、仏教渡来以前の上代日本人を思わせるものがあるものがあり、それは冒頭に触れた土佐人の固有日本人性ということにつながってゆくような気がする。26p

★会津を含めた奥羽のひとびとは、こと文学に志すとどうにも根源的な、第一義的な、たとえば人間いかに生くべきかといったふうの大岩壁のような命題にむかって頭をぶっつけ、体をたたきつけ、血みどろになりつつもなおその岸壁をかけらでも欠きとろうとする。宮沢賢治、石川啄木、葛西善蔵、石坂洋次郎の初期、中川義秀、太宰治といったひとびとの共通項を引き出してくれればこの意味がわかってもらえるであろう。上方や瀬戸内海沿岸の出身者は、栄光ある例外をいく人か認めることができても、多くはストーリー・テラーになり、画家はカラーリストになり、造形の骨髄にせまることをむしろ野暮とするようなところがある。39-40p

★人間とはまことに妙なものである。おなじ朝鮮からの帰化人が近江に住まわせれば近江商人になり、関東に住まわせれば坂東武者になるのである。64p

★一つの機械を発明するのに数十年かかるかもしれず、この間の金利計算や仕込みの計算をしているような精神や能力ではそういう根気仕事――ときには無意味にみえるような努力――はできないのである。世界中にちらばっている華僑がついには金利計算者の域を脱せず、産業資本家になりえていないのはその好例であろう。70p

★利常と加賀藩(利常以降ずっとそうだが)は、幕府を安心させるために「軍備をおろそかにしている」という印象をあたえなければならなかった。このため藩をあげて謡曲をならわせ、普請に凝らせ、調度に凝り、美術工芸を奨励し、徹頭徹尾、文化にうつつをぬかした藩であるという印象を世間にあたえようとした(なんと戦後の日本に似ていることであろう)。
 ともかくもこの大政略が、金沢の今日にいたるまでの一性格をつくりあげた。金沢がいまなお日本の美術工芸の一中心地でありえているのはその無言の証拠といっていい。104-105p

★徳川家の防衛戦略をあらわすのに城がある。万一、「西国大名」がたちあがって江戸へむかうであろうことを想定し、その進撃路の城郭をりっぱにした。第一要塞は、姫路城である。わずか十余万石の姫路城主にこれだけの大城郭をもたせたのはここにくいとめようとするがためdえあり、姫路がやぶれれば第二要塞である大坂城でふせぐ。このため元和ノ役で焼失した大坂城を大改修し、将軍の直属城とした。第三要塞は名古屋城である。この名古屋城まで落ちればあとは箱根の嶮い拠って関東をまもる。家康とその官僚団は、そこまで考えた。逆にいえば毛利と島津は、それぞれ一大名でありながらそれほどまでにおそれられた。221-222p

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