2019年10月29日火曜日

『翔ぶが如く』(二)

 『翔ぶが如く』(五)を読み終え、昨日からその(六)を読む。これは全10巻ある。今年中に全巻を読み終えられそうにない。以下はだいぶ前に読んだ『翔ぶが如く』(二)(司馬遼太郎 文藝春秋、2014年第14刷)から気になる箇所の抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★西郷はつねに「一世之智勇ヲ推倒シ、万古之心胸ヲ開拓ス」という、とほうもない教訓をもって自戒、挙げて重要なことばとしてきた。この言葉を胸中に灯しつづけてきたおかげで、かれは幕末における悲惨な流罪の歳月にも堪えることができたし、また江戸城無血開城という、旧将軍家代理人勝海舟の懇願を一挙に容れるときも、この自戒の言葉がかれの胸中を去来したことであろう。
 この言葉は、知恵と勇気についての自戒である。意味は、男子たるものの志のあり方をのべている。志をもつ以上、一世を覆う程度の知勇などは払いのけてしまえ、それよりも万世のひとびとの、心胸を開拓するほうが大事である、ということであろう。18p

★日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツアーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。山県をしてそれほどの重国家をつくらしめたのは、明治二年、かれがパリで実見したコミューン戦慄的なうごきであったといえる。47p

★「廃藩置県」というこの明治四年に実現する大変革をもっともはやく唱道したのは木戸孝允で、すでに明治元年二月、鳥羽伏見ノ戦いの硝煙がまだ消えていない時期に、三条実美と岩倉具視に建白書を出している。「三百諸侯をして、挙而土地人民を還納せしむべし」という木戸の文章は、木戸があきらかに革命家であったことを証拠立てている。65p

★通訳としてまずこれ以上の人物を求めようとしてもないが、その上、サトウは政治や経済の現象についての分析能力がたくましいばかりに正確で、幕末以来、日本情勢に精通しているという点では、日本人でもサトウほどの者は、ようやく坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、勝海舟ぐらいをかぞえるだけである。バークスの日本における功績はこのアーネスト・サトウという、ようやく青年期を抜けた三十歳の人物に負うところが多かった。180p

★攘夷とは、国際性を拒絶するという意味である。当時、桂小五郎といった木戸孝允や高杉晋作などは攘夷をもって幕府の屋台をゆさぶるてこにするというまでに政略的なものになっていたが、しかし指導層以外の長州人の九割九分はそうではなかった。かれらは本気の攘夷気分をもち、国際社会への参加を厭うことが神州を守る唯一の道であると信じた。……そういう気分のなかで、伊藤ら数人の若い藩費留学生は藩大衆にも幕府にも内密で英国に向かって渡航したのである。183p

★大久保が西郷の政策をつぶすために暗躍しているのではなく、岩倉や大隈、伊藤などがそれをすべく奔走しているというのが実態であったが、桐野はその情報はもっていなかった。
 大久保が、善玉の西郷にとって赤っ面の悪玉であるという薩摩人の神話ができあがるのは、この時期からであろう。ひょっとするとその神話の最初の書き手は桐野かもしれなかった。285p

★薩摩にあっては、侍が侍がましくなるには二つのことだけが必要とされていた。
死ぬべきときに死ぬことと、敵に対しては人間としてのいたわりや優しさをもちつつも、闘争にいたればこれをあくまでも倒す。この二つである。294p

★西郷という、先般外遊組が欠けていた時期にあっては事実上の日本国首相の位置にあった者の外政政略の補佐官が桐野なのである。一国におけるもっとも重要な政治家の補佐官が桐野程度であるというのが、外交感覚の欠如した日本国の象徴現象といっていい。299p

★最後の情熱的政策は、冷静な青写真というよりも西郷一個の人格と情熱によって成立しているというふしぎなものであることがよくわかる。つまり、西郷が出席しては冷静な廟議の検討ができないという性質の政策が、はたして国家の政策といえるかどうか。西郷の征韓論は多分に西郷一個の人格的表現であることが、この一事でもわかるあろう。372p

★「拙者のみを除外なさるとは、公平を失した御沙汰ではござらんか」
西郷の勢いに怒りがこもっていて、三条は応答もしどろもどろになり、じつは板垣がそう言ったのだ、と簡単に人名を出してしまった。西郷は一瞬、息を小さくした。板垣も裏切ったか、と思った。この一事は西郷に悲痛の思いを持たせた。378p、

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