2019年10月18日金曜日

『歴史を紀行する』

 お天気に誘われて自転車で遠くのスーパーに出かける。久しぶりに行くスーパーはレジの清算にとまどう。お店の人が買った商品を機械に下げた袋に入れてくれる。だが、レジでの支払いは各自、機械で行う。何番レジで、といわれて向かうが、要領を得ない。近くにいる年配の人に教えてもらう始末だ。平日のスーパーはお年寄りしかいない。

 我が家を中心にすると自転車で10分前後の距離にスーパーが8件もある。このうちいつも利用するのは2件のみ。スーパーの多さだけを見ても街の様相が変化している。1,2年もすればマンションやホテルも完成する。今朝は雨模様。本を読む日となりそうだ。

 以下は以前読んだ『歴史を紀行する』(司馬遼太郎 文藝春秋、1998年第41刷)
「竜馬と酒と黒潮と」(高知)からの抜粋。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★土佐の古名を「建依別の国}(たけよりわけのくに)という。……この建依別という美称は後世にいたっても土佐人の好むところであり、土佐で書かれてきた郷土史の多くはかならずその冒頭にこの美称に触れている。土佐びいきの筆者も、この美称を好む。男子は剽悍であるほうがうつくしいからである。(「竜馬と酒と黒潮と」〈高知〉10-11p)

★土佐は僻地である。しかし僻地であるという劣等感はいまもむかしも土佐人は奇蹟的なほどにもっておらず、そのことが土佐気質の特徴の重要なひとつであるとおもわれるのだが、これはその方言が日本語の固有なるものに近いという、お国自慢にすらかぞえる自信が大きく作用している。かれらの発音はあかるく朗々とし、一声々々が不必要なほどに明快なことが特色である。兵隊をヘータイといわずヘイタイと言い、整理をセーリといわず、セイリという。(「竜馬と酒と黒潮と」〈高知〉15p)

★とにかく土佐人が他の日本人ときわだってちがうところは、かれらの意識をどういう暗い課題が通過しても、出てくる瞬間には化学変化をおこしたようにあかるくなっていることである。物事を明色化することの天才であり、この稿の筆者が感嘆するところは、酒量および酒の事故日本一という統計的記録における土佐人の肝臓の強靭さよりも、それをひらきなおってお国自慢にして謳いのけてしまうという彼らの明色性なのである。(「竜馬と酒と黒潮と」〈高知〉16p)

★たとえば土佐人の無神論的あっけらかん性である。この土地の一種の奇蹟は、日本最大の宗旨である本願寺宗をほとんど歴史的にも現在も受け付けていないことであり、自然、日本人が共有している後生欣求的な湿潤な瞑想の感情をもっておらず、江戸時代からそれが珍奇とされた。
 珍奇とされた事象としてよくいわれるのは、老人になっても男女とも寺詣りをせずポリネシア人のごとく、狩猟や魚釣りという後生にもっとも障りのある殺生を老人どもが好むことであり、他国人がそれを指摘すると、「この世を楽しめばよい」と、どういう土佐の老人もいう。……その楽土礼賛性、非瞑想性、余韻嫋々の哀切感についての音痴性といったものは、仏教渡来以前の上代日本人をおもわせるものがあり、それは冒頭に触れた土佐人の固有日本人性ということにつながってゆくような気がする。(「竜馬と酒と黒潮と」〈高知〉26p)

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