2019年10月2日水曜日

『春灯雑感』

 今、『翔ぶが如く』(四)を読んでいる。この作品は10巻あり、読み終えるには先はまだ長い。その合間に読んだのが『春灯雑感』(司馬遼太郎 朝日新聞社、1998年第10刷)。いつものように気になる箇所をここに記そう。

 それにしても秋はいつ来る!?昨夜も今朝も蒸し暑さは半端でない。10月になってもエアコンをつけて夜寝る、こういうこと、これまであっただろうか。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★寺領をもたない寺が、葬式をはじめたのも、室町時代からだと思います。そんな室町時代でも、さすがに僧衣僧階を持った正規の僧は葬式をつとめたりはしませんでしたが、私度僧、聖ともよばれる人々が、死者をとむらっていくばくかの金を得るようになりました。……仏教として信じがたいことに、寺がその境内に墓地をもつようになったのです。寺が、死霊(仏教にはこの概念はありません)たちの管理をするようになったのです。驚天動地の変化でありました。……本体のものを失っていないのはいずれも寺が葬式をしなかった奈良朝や平安初期の創建であることが共通しています。また民間の古層と癒着しなくても、明治までは寺領などの収入で食べてゆけた寺々で、いまも観光収入や信徒(檀家ではなく)の存在によって食べてゆける寺々であります。いずれにしても僧や寺が食べるために教義を変えた、というのはよろしくありません。39-40p

★ドイツの場合、ヒトラー一人に罪をかぶせることができるが、東條はヒトラーほどの思想ももたず、魅力ももたず、また世界を相手に戦争をしかけるにしては、べつだんの戦略能力ももっていなかった。その程度の人が、憲法上の――慣習もふくめた――あらゆる機能を握って、決断ごとに日本を滅亡にむかわせた、というのが昭和史の悲惨さである。かれ自身、自分がやっていることが亡国につながるとは夢にも思っていなかったのである。みじめこの上ない。……ともかくも、東條は前述の意味での机にすぎなかった。ただかれはある時期以後、首相の机と陸軍大臣の机と参謀総長の机をかきあつめ、三つの机の複合者としての独裁権をえた。ヒトラーの場合、ワイマール憲法を事実上停止することによって、”国民革命”を遂げ、その政権を成立させたが、東條は明治憲法下の一軍事官僚という机にすぎず、その机が明治憲法下での内閣を組織し、明治憲法の手続によって対米戦線を布告し、戦争を遂行したのである。すべて天皇の名においてやった。……その種の時代的気分が、寄ってたかって憲法における”統帥権”の悪用を可能にしたといっていい。96-98p

★明治憲法にあっては、天皇は自分自身の発意による政治行動はせず、すべて
その衝にある者(この場合、木戸や東條)の輔弼(明治憲法の用語)にまかせることが、あるべき立憲的態度とされてきた。となると、当時の日本をうごかしていたのは、東條という木偶で、それをささえているのは木戸という黒衣だったことになる。こういう形態も仕組みも、明治以来かつてないものだった。戦後、明治をふくめた日本の体制について”天皇制国家”などと断定されたりもしたが、そういうことは東條時代だけのことで、他の時代にはない。116-117p

★独裁者はつねに自分の死を質草に入れて成立している。東條が国家と民族をほろぼす、とおもったひとびとにとって他の手段がなく、東條の死をつくりだすしかなかった。が、東條はたの国のどの独裁者よりも凛然としていた。118p

★このとしの三月八日、大本営でさえ成算に自信のなかったインパール作戦が東條の応諾でもって発動され、雨期と無補給と飢えのためにすべての兵士が、生きたまま幽鬼のように衰癆し、英印軍の砲弾で死ぬ以前に、大半がジャングルのなかで溶けるように死んだ。
 インパール作戦などというのは、戦争の定義から外れた作戦で、自民族に対する精神病理学的な虐待としかいいようがないものであった。126p

★東條は皇族や重臣たちの自分に対する空気を察していたが、このとしの二月には参謀総長を兼ねて統帥の絶対権をにぎり、同時に国内的には憲兵と特高警察をもって重臣たちや国内に対する締め付けもつよくした。127p

★護貞氏における高輪の高松宮邸での右のくだりを書くだけのために、ながながと紙数をついやした。
 東條と東條的現象が大きく日本をおおっている以上、東條についてふれねば”急にひざがガクガクしまして”という人間の現象に至ることができなかったためである。それにしてもなまの東條のつまらなさにはやりきれない思いがする。133p

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