2019年6月28日金曜日

『花神』(中)

 『花神』(中)(司馬遼太郎 新潮社、平成二十五年99刷)を読んだ。以下は気になる個所の抜粋から。この中の『日本外史』を著した頼山陽。昨夜のテレビで頼山陽史跡資料館で特別展開催のニュースを見た。それは「頼山陽と絵画」。来月下旬近くまで開催されるようだ。次回のフルート・レッスン後に見に行こう。今、この本の(下)を読んでいる。シーボルトと日本人女性との間に生まれた娘イネ。イネと蔵六との関係が『花神』(上・中・下)を通して綴られている。(下)もその件が多い。もう少しでこれも読み終える。次は司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読む予定。

 この期に及んで、まさかこれほどまで自分自身が司馬作品にのめり込むとは……。人生、何が起きるかわからない、とはまさにこのこと!?

 ここまでのめり込むとさすがに本気になったに違いない。ブログ・プロフィールの「本」の箇所に司馬遼太郎の読んだ本を記入しよう。

 ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう!

★この時代、日本歴史についての全時代士史(通史)がなく、ただひとつ、頼山陽の『日本外史』があっただけというものであった。……江戸期というのは
世界史に類のすくない教養時代というべきだが、その教養のうちの史学面というのは中国の史書を読むことであって、日本史の研究ではなかった。要するに幕末人は、上は大知識人から下は「浮浪」といわれた攘夷浪士にいたるまで、『日本外史』一つが日本歴史を知る上での唯一の書であった。12-13p

★——私は首をもがれても攘夷のお供はできませぬ。
と福沢がそうまでののしったその攘夷主義とそのエネルギーが明治維新を成立させたのである。……福沢のような開明主義では、本来国家を一変させるエネルギーをもっていないのである。14p

★福沢は蔵六や長州人の「攘夷熱」を嗤ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅はきわめて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶應義塾も、あのような形にはあらわれ出て来なかったことになる。15p

★大阪大学微生物研究所の藤野恒三郎教授は、一九七〇年の春、筆者がこの蔵六の話を書いている時期に、定年退官された。……藤野教授にとっては、かつて教授の祖父が学んだ適塾に蔵六がいた。その適塾が大阪大学になっていて、自分がそこにいる。教授の想像世界のなかには自分をふくめた三人が一ツ世界に棲んでいるという情景があるのであろう。20-21p

★桂小五郎、木戸孝允という人は、生え抜きの剣客であった。が、かれはその剣を生涯殺人につかっことがない。とうより、かれが江戸の斎藤弥九郎道場の塾頭までつとめたほどの技達者だtたが、かれが剣を学んで知った最大の真実は、剣をもって襲いかかってくる者に対しては、逃げるしか方法がないということであった。……このため、桂はこのあとの長州の政治的窮迫期に幕吏にしつこく探索されながらついに明治まで生ききった。51p

★長州藩がこの五人の攘夷青年を英国に派遣しようとした目的は、
「海軍を学ばせるため」
というものであった。……領土が小さいという地理的絶対条件は、貿易という世界商略によって十分におぎなえるものであることを、英国という見本によって知り、その世界商権の中核をなすものは、世界最強の英国海軍にあると見た。
「航海術を学べ」
というのが、藩命であった。
が、結果としてこの五人は海軍という技術を学ばず、政治家や行政官になった。82-83p
(注:五人とは野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹介、井上聞多、伊藤俊輔)

★長州藩は、天皇を、中国やヨーロッパの皇帝のごときものにしようとしている。その運動が勤王であった。ところが歴史の不幸はかんじんの孝明帝自身、
「勤王などとんでもない」という思想に立っていた。……要するに帝は佐幕人であった。126-127p

★「我即蔵六也」 
と、蔵六は書いた。オレハ蔵六、という意味である。蔵六とは亀の異称であった。
頭、しっぽ、それに四本の足を甲羅のなかに蔵してしまうためにその称がある。亀がその六つの動くものをかしてしまえば、かわらの石ころとかわらない。世間の波風や名利の世界から、蔵六はつまり蔵六になってしまっているつもりであった。
 妙な男であった。かれは後年、古今まれな軍司令官になるのだが、かつて歴史のなかの将軍たちのなかで、これほど自己顕示欲のうすい人物がいたであろうか。143-144p

★人間の心の昂揚というのは、ほんのささいなことからでもおこりうる。
——桂のためには、死んでもいい、という、蔵六のこの大げさな感動は、蔵六にとって決して大げさではなかった。……長州藩は蔵六に対して、人間としては認めていない。蔵六の技術だけを買うという態度をずっと取りつづけている。ところが、長州第一の人物といわれる桂が、蔵六を人間として認め、遇し、しかも頼ってくれた。蔵六の感動の大きさは、どうにも名状しがたい。236-237p

★蔵六が政界に飛躍するのは、このときからである。
もっとも飛躍というほど大げさなものではなく、六ツヲ蔵(シマ)ウという蔵六(亀のこと)の生活姿勢から百ぐらいがそろりと出た程度だが、しかし村田蔵六にすれば大層な飛躍であったろう。249-250p

★蔵六が、
「用所役・軍政専務」
という国防局の局長といったふうの要職に抜擢されたのは、この年(慶応元年)五月二十七日のことである。
むろん、桂一人の推挙である。261p

★日本人の姓は、その居住している村郷の地名からとった場合が多い。
長州家毛利家の場合、戦国から豊臣期にかけて、山陽・山陰十カ国におよぶ大版図であったが、関ケ原以降、西のはしの長門と周防の二国に圧縮された。
このため長州藩士の姓は、旧版図の十カ国の村名が網羅されて、まるで地名表をみるようなおもむきがある。……蔵六も、(わしも地名の姓を名乗らねばなるまいか)
と多少笑止におもいつつも、そう考えた。……
かれは、鋳銭司村に住んでいる。「大村がよかろうと思う」
と、お琴に宣言した。さて、名前である。
……父の名は、孝益である。その益をとり、「益次郎にしたい」
と、お琴にいった。……ともあれ、蔵六の身分が変わった。
正真正銘の武士になった。268-271p

★「長州の寝射ち」
というのは戊辰戦争を通じて有名になったものだが、蔵六がそれを指導した。地形、地物を利用して、目と銃だけを出して射つ。……ちなみに、戊辰戦争のときにはやった文句に、「長州の寝射ち、薩摩の立射ち、土佐兵の斬りこみ」
というのがあるが、よほどこの寝射ちの姿が異様にみえたものらしい。463p

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