新聞折り込みに旅のチラシが入る。朝から気になる個所の旅を3つの旅行社で比べる。旅と言っても日帰りバス旅。何ごとでも決めるのは早い。迷っているうちは行くな、との知らせと思ったり……。
以下は先日読んだ 『竜馬がゆく』(8)あとがき集からの気になる個所の抜粋。作者の司馬遼太郎は好きな人物を取り上げて小説にしている。竜馬もそうだ。小説の中で最後は暗殺されて亡くなるとわかっていても司馬はそれに関しては多くを語らない。ただ、亡くなった事実だけを淡々と描く。これは読む側としても気持ちがおさまる。いつの日か桂浜に建つ竜馬像を見に行こう!
ともあれ今日も元気で楽しく過ごしましょう。
★坂本竜馬は維新史の奇蹟、といわれる。……竜馬だけが、型破りである。……
「薩長連合、大政奉還、あれァ、せんぶ竜馬一人がやったことさ」と、勝海舟がいった。……竜馬は生きている。われわれの歴史のあるかぎり、竜馬は生きつづけるだろう。私はそれを感じている自分の気持ちを書く。冥利というべきである。395p
★筆者は、この人物を通して、幕末の青春像をかいている。坂本龍馬をえらんだのは、日本史が所有している「青春」のなかで、世界のどの民族の前に出しても十分に共感をよぶに足る「青春」は、坂本竜馬のそれしかないという気持ちでかいている。398p
★「衆人みな善をなさば我れ独り悪を為せ。天下のことみなしかり」
竜馬は稀有な愛嬌と善骨をおびてこの世にうまれてきた。ところがどうやら、あの大きな体で暮夜ひそかに悪人たろうと念じていたらしく、それを思うと微苦笑を禁じえなくなる。399p
★維新後もなお、新政府の弾正台の手で下手人捜査がつづけられた。明治以前の刃傷沙汰を、新政府がその全力をあげて捜査したのは竜馬の場合しかない。416p
★遺骸を、東山の霊山に葬った。この日、たまたま出京してきた長州の桂小五郎がこの変をきき、涙を流した。
「せめてわが友のために墓標の文字を書かせてもらいたい」
と言い、潜伏場所の二本松薩摩藩邸の奥で揮毫した。
高知藩坂本龍馬
高知藩中岡慎太郎
の十五文字である。……
明治四年八月二十日、朝廷は特旨をもって竜馬と慎太郎のあとをそれぞれ立てさせた。竜馬の家名の相続者はその甥小野淳輔である。幕末では高松太郎と名乗り、相続後、坂本直と称した。中岡のあとについては同姓中岡代三郎が相続の沙汰を受け、それぞれ永世十五人扶持を下賜された。明治十四年、両人を靖国神社に合祀し、同二十四年四月、ともに正四位を追随された。427-428p
★竜馬はなによりも海が好きであった。海の仕事がやれるためには統一国家をつくらねばならなかった。表現を面白くしていえば、この無位無官の青年は、自分の海好きの志望を遂げるために国家まで改変してしまったといえる。竜馬の一代は、革命と海とのいそがしげな往復であった。その革命が成就しえた以上、維新政府の参議などになるはずがない。解放されたようにして海に飛びたつのが竜馬として当然であった。……竜馬は「自分は役人になるために幕府を倒したのではない」と、このとき言い、陪席していた陸奥宗光が竜馬のあざやかなほどの無私さに内心手をうってよろこび「西郷が一枚も二枚も小さくみえた」と、のちにいった。……竜馬の一言は維新風雲史上の白眉といえるであろう。単にその心境のさわやかさをいうのではない。筆者は、この一言をつねに念頭におきつつこの長い小説を書きすすめた。……私こころを去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない。人が集まることによって知恵と力が持ち寄られてくる。仕事をする人間というものの条件のひとつなのであろう。429-431p
★竜馬は株式会社の最初の発想者といえるであろうし、また近代商社の祖ともいえるが、同時に日本海軍の祖ともされてきた。その妻おりょうが窮乏のうちに横須賀で死んだときも、竜馬との縁を知って海軍士官が多数その葬儀に参列した。また竜馬の銅像が昭和三年その郷里の高知市郊外桂浜に建てられたとき、除幕式は海軍記念日の五月二十七日という日がえらばれ、当日、海軍から駆逐艦浜風が桂浜に派遣された。幕末、長崎で私設海軍をつくって、幕府海軍に対抗しようとしたこの奇妙児の風貌は、いまも桂浜の潮風にさらされている。432p
★日露断行交の二月六日、皇后はたまたま千葉別邸に避寒中であったが、その夜、夢を見た。
夢に、白装の武士があらわれたのである。かれが名乗るには「微臣は、維新前、国事のために身を致したる南海の坂本竜馬と申す者に候」という。……香川は女官を辻てその写真を皇后の部屋の一角に置いておくと、皇后はあわただしく香川をよばれ、「この人である」といわれた。……とにかくこの話で、竜馬はあやうく忘れられることからまぬがれた。京都東山霊山のかれの墓のそばにおおきな碑ができたのもこの奇夢が喧伝されたあとだし、大正期に入ってその伝記が多く刊行され、映画や芝居のなかに登場しはじめたりしたのも、夢枕の一件で当時のマスコミにとりあげられたおかげだともいえる。世間というものはこうしたものかもしれない。436-437p
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