『五色の虹』、サブタイトルは「満州建国大学の卒業生たちの戦後」(三浦英之 集英社、2016年第2版)を読んだ。先日、地元紙で見た新刊紹介記事。中国の近代に関心がある。それなのに「満州建国大学」というキーワードさえも知らなかった。吸い込まれるようにして一気に読む。読みながら気になる個所に付箋をつける。かなりたくさんになった付箋紙。これからその個所を記していこう。この本は第13回開高健ノンフィクション賞受賞作品。
ノンフィクションということは実際にあったお話。本の中に登場する人たちは本のタイトルどおり「満州建国大学の卒業生たち」。その人たちの最後となる同窓会は2010年東京で開催される。「彼らは日中戦争当時、日本が満州に設立した最高学府『建国大学』の卒業生たちである。中国東北部がまだ満州国という名前で呼ばれていた時代、日本政府がその傀儡国家における将来の国家運営を担わせようと、日本全土や満州全域から選抜した、いわば戦前戦中の『スーパーエリート』たち」だった。20-21p
「建国大学では日本人学生は定員の半分に制限され、残りの半数は中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族の学生たちにきちんと割り当てられていた。カリキュラムも語学が授業の三分の一を占めており、学生たちは公用語である日本語や中国語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などの言語を自由に選択することが許されていた。…戦前戦中の風潮からちょっと想像もつかないような、ある特権が付与されている。言論の自由である。…建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由を―つまり日本政府を公然と批判する自由を―認めていたのである。」22-23p
「建国大学は一九四五年八月、満州国の崩壊とともに歴史の深い闇へ姿を消した。開学わずか八年しか存在し得なかった大学の名を今記憶している人はほとんどいない。それは日本が敗戦時に建国大学に関する資料の多くを焼却したためであり、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌ったせいでもあるといわれている。」23-24p
最後の同窓会の参加者は約120名。一期生から八期生までが出席。この大学で学んだ学生はその特殊性から弾圧される。帰国後も傀儡国家の最高学府出身者というレッテルによって、高い語学力と学力を有しながら多くの学生は相応の職種に就けなかった。25p
「彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運よく連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった。二〇一〇年に完成した最終版である『建国大学同窓会名簿』には約一四〇〇人分の氏名や当時在籍した塾番号に加え、現在暮らしている住所や電話番号、戦後所属した組織やその役職などがひっそりと記録されている。」26-27p
筆者の三浦はある日、勤務先にかかってきた電話を受ける。定年退職した人などに夢のシルクロードを自転車で駆け抜ける旅などを主宰している長澤だった。長澤はシルクロードをめぐるうち旧ソ連邦のキルギスの山奥に多くの日本人が抑留されている事実を知る。このことを近現代史に関心があり、なおかつ新潟に勤務していた人を探していた。それにかなう人が著者となる三浦だった。34p
なぜ新潟勤務経験者かといえば新潟弁が通じる人の方が取材しやすいと考えた結果らしい。三浦は新潟に向かい宮野泰を取材。その人の口から出てきたのは「ケンダイセイの端くれ」。三浦はその言葉を知らず宮野から聞いて初めて知る。
「『満州国の建国大学―』 それが『幻の大学』と呼ばれた大学の名を、私が初めて耳にした瞬間だった。」42p
三浦は「建国大学」の卒業名簿を入手。「五族協和」を掲げて入学した彼らが夢見たものとは、その後卒業した学生たちは「戦後」をどのように生きたのか、当時の日本をどのように見ていたのか、を訪ねる旅を始める。それは2010年秋。各国に散らばる卒業生たちの「過去」と「現在」を集める旅だった。行先は日本、中国、韓国、モンゴル、台湾、カザフスタンを訪ねる旅。27p
「この時代について語るには欠かせない人物に石原莞爾がいる。石原は『建国大学と民族協和』で新設される大学は『満州国の最高学府』にするのではなく『アジアの最高学府』にすべきと訴えて『国際性』を持たせた。」52p
「満州国の最高学府―。それは日本が最終戦争を勝ち抜くために満州国に設置した、極めて戦略的な『国策大学』だったからである。」55p
建国大学について研究している人にICUの宮沢理恵子がいる。三浦は宮沢とも面会して『建国大学と民族協和』を参考にする。その後、武道教育の面から建国大学の研究を続ける志々田文明。この人を通じて『藤森日記』の膨大なコピーを入手。この日記は二期生だった藤森孝一が書いている。この青年は17歳当時神童と呼ばれていたがまるで「海外旅行」の気分で入学する。59p
そこでは軍事訓練と農事訓練が主な訓練だった。72pそして学生の楽しみとして読書があった。15万冊の蔵書の図書館もあった。74p
三浦は藤森との取材の最後に聞く。「藤森さんの人生は幸せだったのでしょうか」。これに対して「自分が生きてきた人生がすなわち私の人生だとすれば、私は私の人生に悔いというものはありません」。「もしあの時満州へ渡っていなかったら、と考えることはありますか」、に対しては「…人の人生なんて所詮、時代という大きな大河に浮かんだ小さな手こぎの舟に過ぎない。小さな力で必死に櫓を漕ぎ出してみたところで、自ら進める距離はほんのわずかで、結局、川の流れに沿って我々は流されていくしかないのです。誰も自らの未来を予測することなんてできない。不確実性という言葉しか私たちの時代にはなかったのです」。83-84p
三浦は藤森との取材を皮切りにして、全国に散らばる建国大学の出身者たちの取材を進めていく。手始めに百々和を訪ねる。取材中、それぞれの8月15日にも焦点を当てる。百々和が帰国できたのは戦後11年経ったとき。その間、百々和には叶えたい夢があった。大学院に入りたかったのである。その時38歳。その後53歳で神戸大学の教授となる。百々和が学生に言い続けた言葉がある。
≪企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ―≫101p
「…鉄砲玉が飛び交う戦場や大陸の冷たい監獄にぶち込まれていたとき、私の精神を何度も救ってくれたのは紛れもなく、あのとき大学で身につけた教養だった。歌や詩や哲学というものは、実際の社会ではあまり役に立たないかもしれないが、人が人生で絶望しそうになったとき、人を悲しみの淵から救い出し、目の前の道を示してくれる。…私はそれを身につけることができる大学という場所を愛していたし、人生の一時期を大学で過ごせるということがいかに素晴らしく、貴重であるかということを学生に伝えたかった・・・」101-102p
さらに百々和は話す。「日本人にとっては『潔さ』とは『美しさ』とそれほど変わらない意味だった。そして『美しく』あることは、『生きる』ことよりも、遥かに尊いことだった」104p
大連に住む一期生の元中国人学生の楊増志。当時建国大学の入学生には月五円の「手当」がつき、学内には「言論の自由」が存在していた。楊にとっては日本人に向かって日本政府の植民地政策を真っ向うから非難しても咎められることがない、嬉しいことだった。125p
その楊が1941年憲兵隊に治安維持法違反で検挙される。国民党の資料を持っていたためだ。この話を聞いていた筆者もその場に居合わせた中年男性によってこれ以上話を聞かれなくなる。共産党にとって不都合な事実は取材させてくれない。138p
取材中の筆者の列車が瀋陽を通過。この街の郊外にある柳条湖。ここで満州事変勃発。「鉄道守備隊」は「関東軍」と名を変えて満州事変を契機に満州全土を掌握。一連の筋書きを描いたのは、関東軍参謀の石原莞爾。次に石原が描いたのが国家運営を継続するための人材育成。その根底となる教育制度の創設こそが建国大学だった。
「それは矛盾と暴挙に満ちた新生国家を知識と権力によって操縦していくために発明された比類なき『教育機関』だった」150p
次に会う中国人の学生は谷学謙。だが、取材中止になる。≪不都合な事実は絶対に記録させない―≫171p
楊と谷の2人は「言論の自由」に惹かれて建国大学に入学。ところが戦後の中国は共産党政権。「言論の自由」は許されなかった。それゆえ三浦は2人の口から当時のこともその後のことの真実も詳しくは聞くことができなかった。
建国大学に備わっていた言論の自由。しかし、「小さな穴」である「言論の自由」も筆者に言わせると「小さな穴でも大きくて厚い壁を壊すのには十文だった」という事実だった。171p
次はモンゴルのウルジン、朝鮮人の金載珍、姜英勲を訪ねる。姜は1988年に韓国大統領に就任した蘆泰愚により、韓国の首相に招聘される。1990年分断していた南北首相会議をソウルで実現。その一か月後板門店で韓国首相として初めて金日成主席と握手した。姜には別れ別れの妹が北にいた。そして妹とも再会。215p
他にも台湾人学生の李水清。李は非日系の学生の中でも特別な存在だった。孤児だったそうだ。以下は李の言葉。
「生涯において大切なことは、己が真に信じることができる『道』を見つけることができるかどうかだ」、「ゆえに、我々は生涯をかけて勉強に励まなければならない。そして、一度正しいと信じたことは他から何と言われてもそれを終身実行しなければならないのだ」235p
その後、「李はそれらの販路を台湾国内だけでなく、日本や中国で暮らす建国大学の卒業生のネットワークを利用して徐々に国外へと拡大させ、台湾を代表する一大製紙企業を築き上げたのである。」243p
孤児で育った李は筆者の取材の最後の質問に答えている。「私にとって台湾は難しく、愛しい、母親のような国です」246p
日本人とロシア人のハーフのジョージ。筆者はジョージの生き方通してこう綴る。
「人の一生とはなぜこうも儚いんだろう、と私はアルマトイに向かう飛行機の中で一人思った。…人は豊かな人生を生きたいと願い、そのためにもがき苦しんで多くのものを失いながら、最後には何を掴んだかを知ることもなく死んでいく。ジョージもそうだったし、これまで取材に応じてくれた多くの建国大学の卒業生もそうだった。人生とは何なのだろう―。…」272-273p
筆者の三浦はこの取材に取り掛かる前に「満州国」をテーマとする研究者である京都大学の山室信一を訪ねている。戦後の日本という国をどのように捉えているか、との質問に山室はこう答える。「私はそれを歴史の中から学ぶことができるのではないかと信じています」。さらに続けて「私たちはもっと正しくかつての『日本』の姿を知る必要があるのではないかということです。日本や日本人はどうしても自国の近代史を『日本列島の近代史』として捉えがちです。…『日本』という特殊な国の歴史のなかで、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた五族協和を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。…」。306-307p
筆者は「あとがき」で「本作品のタイトルの中の『虹』は、アパルトヘイトを克服した南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領が、人種や民族の違いを超えた多民族国家を目指そうと、南アフリカを複数の色が合わさってできる「レインボー・ネーション」(虹の国)に例えた歴史的な演説から借りている。彼が掲げた理想はまさに、建国大学卒業生たちが目指したものと同じ、『民族協和』の実現だったからだ」と述べる。324p
さらに「満州の大空にかけようとした『五色の虹』は、内包する理念の欠陥により必然的に崩壊し、無数の悲劇を戦後に残した。しかし、その一方で、彼らが当時抱いていた『民族協和』という夢や理想は、世界中の隣接国が互いに憎しみ合っている今だからこそ、私たちが進むべき道を闇夜にぼんやりと照らし出しているのではないか。…」。そして、こう述べて文を締めくくる。「『衝突を怖れるな』とある建国大学出身者は言った。『知ることは傷つくことだ。傷つくことは知ることだ』」。326p、
建国大学で学んだ学生たち。本を読み終えて学生たちが目指した夢と理想とは何だったのだろうか、と思った。筆者が訪ねた人のうちから何人かを抜粋。個人的に関心を抱いたのは38歳で大学院へ入り、53歳で神戸大学の教授になった百々和。彼は教え子の学生に言っている。再度ここに記そう。
≪企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ―≫
読後感はなぜかすがすがしい!
百々和についてネットで調べた。「21世紀日本アジア協会」のHPに行きつく。URLはhttp://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum50.htm(参照)
このなかで伊原吉之助は百々和の『自分史回想』の読後感を書いている。これも興味深い。今日はお昼から日本画教室。今日も元気で!
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