「40歳を過ぎてから惑いが大きくなった。名峰を征服した登山家は頂上に長くいないで下りてくる。登るまでの挑戦は苦しくて楽しい。でも到達すると、さっさと下山するしかない。僕は思った。『パラシュートで一気に下りたいよ』『休もう』。テレビからいったん消えて充電するんだ。…暇になって始めたのが予備校通い。大人の言葉を常識を身につけたかった。新宿の予備校の夏期講習に通いだすと『生徒の気が散るんです』と言われ、日本史と英語の先生に家に来てもらった。…半年の充電期間中、いろんなことを考え、試みた。新しいことに挑戦する。それが新たな夢になった。…」(日経新聞「私の履歴書」2014年12月29日)
この記事は昨年の12月の日経新聞から。コメディアンの萩本欽一、そう、欽ちゃんの「私の履歴書」の一文。
欽ちゃん全盛時代、「禍福」は交互にやってくる、つらい時が幸せなんです、みたいなことをよくメディアで話していた。
このコーナーは1か月間の記事。家に日経がないので図書館で3回に分けてひと月分を読む。奥さんや子供さんのことなど読んでいて微笑ましい。
世の中、いかに自分に得になるかを考える人が多い。ところが欽ちゃんは違う。そのあたりが読んでいて気持ちがいい。
そして上の記事。頂点にいる時、いったん仕事を辞めて予備校に通っていたとは…。これは記事を見て初めて知る。
一般的には言葉は悪いけど稼げるうちに稼ごう、が多いはず。それをあえて逆方向に進む。偉い!
欽ちゃんの足元にも及ばない。12年前にリストラを経験。平気でリストラと言ってるけど本当は人に言えるお話ではない。「禍福はあざなえる縄のごとし」、当時、そう思ったかどうかは怪しい。
仕事を辞めるのは悔しかった。しかし、やめて2週間後に目にした大学募集案内のパンフ。アジア塾に行く途中にある交流プラザ。そこで目にしたパンフ。運命を感じた。この大学へは絶対に入れないと思っていた。
ダメもとで願書を持ち帰る。それからが大変。街中の図書館に通勤定期を買って毎日通学(?)した。広島駅から図書館までは歩いて通った。無職の身のせめてもの節約だった。
すぐに知り合いで大学に関わっている人を物色すると2名いた。アジアを学んでいた時の若い男の大学の先生と以前、中国語を習ったことがあり、博士号を取得していた中国の女子留学生だ。
先生は当時、北海道大学へ赴任されたばかり。4人で北海道に会いに行っている。これも良かった。同じ釜の飯ではないけど3日ほど北海道に滞在して北海道大学の研究室や札幌・帯広など車で連れて行ってもらった。また、食事を共にして親しくお話しできた。
どうやって入学準備をすればよいかをメールで問い合わせると長いメールでアドバイスを受ける。教えられた通り、すぐに行動に移した。留学生には志望動機書と研究計画書の書き方の本を教えてもらった。当時はこのキーワードすら知らなかった。
それから4か月後、帰国子女に混じって大学入学試験を受けた。
当時を思い出す。悪いことの後には良いことが来る。合格はネットで知った。嬉しかった!
これまでで一番の親孝行と思っている。文学修士号の証書を受け取った姿も母に見せることできて幸いだった。パソコンと携帯の待ち受け画面はその時、母と一緒に写った写真。いい記念になった。パソコンや携帯を見るたび、励みになっている。
欽ちゃんの予備校通いの記事。そしてお正月に見るアドバイスをもらった先生のご家族の写真付き年賀状。この2つで当時を思い出してしまった。そういえば中国の留学生にはメールでクリスマスカードをいただいている。
今、呑気に過ごしている。これも母を介護したおかげ?いつの日か今のような気楽な日々もなくなるかもしれない。
ともあれ毎日元気で楽しく、は今年も目指すこと。頑張ろう!頑張っていれば必ず誰かが助けてくれる!?
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