2014年1月30日木曜日

グローバル化から

このところやたらとグローバル、グローバル…とグローバル化が叫ばれる。先日、市内で開催された某銀行主催の講演会に出かける。講師は解剖学者の養老孟司氏。

主催者が銀行で講演者が解剖学者とは…と不思議だった。ところが銀行は遺産相続に関する聴衆の相談会を兼ねている。道理でと納得する。

ヒトの体は身と心から成り立つ。昔は心身とあらわし、今は身心。心は身の下になっている。心は意識であり、寝ているときは意識はない。それが起きると意識も戻ってくる。

意識がなくても体は残っている。この意識、定義できないとか。死に直面すると瞳孔が開き、心臓が止まり、意識がなくなる。

だから「どうして意識はなくなりますか?」と質問すると9割の医師は怒るという。

講演者は猫好き。しきりにヒトと猫を比べる。猫は感覚をそなえている。すべての動物はこの感覚に意識を集中する。

ところがヒトは言葉を発する。これが動物との違い。そしてヒトの意識の世界が「言葉」を通して同じくする「概念」を作り出す。

ところがややもするとヒトは「概念」でなく「感覚」に戻ることがあるらしい。

「私」とは空間の地図。地図全体が「私」となると「宇宙」になる。グローバル化になる。

英語は“I am …”で必ず一人称の主語の“I”が必要と講演者。ここで講演者は時間がなくなったから勝手に考えろ、と笑いながら話を終えてしまう。

そこでここからは個人的な見解。日本語は逆に一人称の主語を必要としない。むしろ主語なしの文章がよい文章と何かで読んだことがある。今、スペイン語を習っている。ラテン語系のスペイン語も主語を必要としない。後に続く動詞で何が主語かわかる仕組みになっている。

主語ありは中国語がそう。必ずどんな主語もいる。

今、グローバル化が叫ばれている。一昨日の美学の先生もそれに関するコラムを書かれている。

言葉は文化。英語は「私」を強調する言語。その言語を「世界語」にすればその概念の下、その「時」、その「処」の「文化」はグローバル化となる。これは「文化の消滅」になる。

最近、2人の偉い先生方の講演とコラムからグローバル化についてこのように感じた。

今日は雨。ブツブツ言わず今日も頑張ろう!ブツブツいうと口から毒が出るとか。これでは体に悪い。

昨日の話題から一つ忘れている。フルートの練習で先生からいいコトを聴く。それは練習していて5回、ちゃんと吹けたならOKとか。いつも間違わず1回吹くことができればOKと勝手に決めていた。昨日5回を教訓に練習するとかなりハードになる。これからは5回を目処に頑張ろう!

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