2013年7月25日木曜日

『黒い海の記憶 いま、死者の語りを聞くこと。』

昨日は真昼なのに、一人で自転車に乗りひまわりを見に行く。自転車に乗ろうとしたとき知人から電話がかかる。今日の定例会の集合時間の変更だった。

定例会前にシャンソンを聞きに行く。時刻変更は慌てなくてすむので丁度よかった。

となりまちのひまわり畑を見に行くのは今年で3年目。テントの中に世話人と思われる人がいる。挨拶をすると返事がない。どうもお昼寝らしい。今年のひまわりはピークを過ぎて数えるほどしか花は見られない。一輪だけ携帯で写す。ひょろっと天まで延びている。ひまわりもこの暑さで元気がなさそう。
咲き残っていたひまわり
午後から携帯電話で写した写真を見る。その後も暇つぶしに携帯の写真を見る。母の元気がいい写真を見つける。すぐに妹に送信する。妹の返信メールには「いい顔!この頃を覚えておこう!!」。

さらに昨日は筆者に『黒い海の記憶』を読んだ感想を暑中見舞いも兼ねて郵送する。

以下はそのメモである。

『黒い海の記憶 いま、死者の語りを聞くこと。』(山形孝夫 岩波書店、2013年)を読んだ。読後感は清清しい、というよりも難しい問題が解けた感じ。

そしてその難しい問題を分かりやすく説いてある。特に、パレスチナ問題は目から鱗。本当に理解しているといいのだけれど・・・。

「黒い海」とは、3.11の押し寄せる津波。東日本大震災前の『千の風になって』や震災後の『花は咲く』。この2つの曲を筆者は「近代仏教が封印してきた『死者の語り』であった」とする。そのうえで、それが封印されてきたのは「平穏な社会秩序をおびやかす呪いや亡霊の怨嗟の声とみなされたからである。」という。(はじめに)

『千の風になって』の「死者の語り」が『花は咲く』と歌い継がれる。それは生者が歌い、死者が歌う、という構図から歌うと涙があふれる。そこから見えてくるのは「生きている死者」であり、「死者の語り」である。あふれる涙は悲 しい涙でなく、ひとすじの希望の涙である。(はじめに)

ところが「生きている死者」は戦後の急激な社会変革にともなう核家族の誕生の結果、仏壇ごと消えてしまう。このような中で3.11が起こる。

筆者は小学校3年の時、母の自死に遭遇し、高校2年で洗礼を受ける。

「キリスト教への接近も、宗教人類学のような学問に足を踏み入れ、死者のクニなどという幻想にとりつかれ、こんな遠い国までやって来たのも、私の失われた記憶の中に、<母>が存在し続けていたからである、と自覚した瞬間でした。」とサハラ砂漠の涸れ谷のフィールドワーク中で死者との中にいると感じる。9~11p

そしてそれまで母のことで泣くコトを封印してきた筆者は声をあげて死者に語りかけて泣くことをエジプトの砂漠で経験する。それは「カディナティ」という徳之島の「野辺送り」の歌であり、それをしていたのだと筆者は気付く。すなわち「カディ」とは風、「ナティ」は泣くこと。そこに祈りがある。12,13p

3.11の被災地では、一人ひとりがみんなそのような言葉にはできない悲しい記憶を内に秘めて<今>を生きている。そのような人々がたくさんいる。・・・このような人々に向かって、宗教はいったい何をどのように語るのか。それが「カディナティ」だという。19p

筆者は震災後の魂の傷の恢復がどこから来るのかを問題とする。そのとき筆者はフィールドワークで砂漠の僧院に身を寄せ、そこで修道士たちに接する。その極限の中で、どのように精神と肉体のバランスの崩壊を経験するのかに関心を抱く。31p

そして魂の傷という経験を通して、神の啓示、「神の記憶」を経験する。39p

筆者は1960年代アメリカへ留学。その時、白人の教会が黒人の数が増えるにつれてダウンタウンから郊外に逃げ出していく。それを見た経験からキリスト教は弱者の味方であることを口では標榜しながら、一方において貧富の差の拡大するままに、弱者を切り捨てる宗教に変質してしまっているのではないかとの思いに至る。だとすると白人の神学者が書いた書物だけでキリスト教を学ぶコトへの疑問を抱いていく。52p

そう感じた筆者はフィールドをアメリカから中東に向ける。そこでもう一つのキリスト教、「悲しみ」と向き合い「死者と向き合い」、「悲しむ者とともに悲しむ」キリスト教に出会う。55p

そして「悲しみ」とはすべての宗教の根源にある記憶の「痕跡」の体験と思うようになる。それが「悲しみの知」となり「癒しの知」に通じていく。これが仏教では「慈悲」、キリスト教では「慈愛(アガベー)」。泣く者と泣き、苦しむ者と共に苦しむ。これがすべての宗教を一つにつなぐ源流のようなものと筆者は述べる。58p

このたびの震災後から<絆>と言う言葉が使われる。これはまるで天から降ってきた声のように感じられるとか。絆は日本社会の崩壊をつなぎとめる綱のように。絆は崩壊しつつある共同体、崩壊しつつある家族をつなぎとめる命綱。92p

それはふるさと回帰となる。本来ならば宗教の役目と思われる絆、その絆を宗教に代わってボランティアや音楽でもって担う。それは既存の宗教に代わる<絆>であり、<鎮魂>の感覚だという。大合唱も生者と死者をつなぐ目に見えない<絆>の機能がある。96p

「記憶の森」というコーナーで筆者は母を自死で亡くしたという経験を『一冊の本』という朝日新聞出版の広報誌に書く。「読者の方からお手紙をいただきました。それなりにうれしかったのですけれども、やはり心の中では、こういうことを書くということは、しんどいなあという気がしていました。・・・」とある。もしかしてこれは私が出した手紙のこと?114~115p

この本の中でいつも理解できずにいたことがわかりやすく書いてある。「反ユダヤ主義はナチス・ドイツだけではありません。その歴史の実態を探れば、、ロシアはもちろんフランスもイタリアも、オランダもベルギーも、チェコやルーマニアもスペインも、要するに全ヨーロッパのキリスト教との間に多かれ少なかれ植えつけられたユダヤ教徒への敵意であり、憎悪でありました。これがヨーロッパにおける国民国家形成のプロセスにおいて目に見える確かな確信となっていったのではないか、と思われる。とりわけ、福音主義をかざすプロテスタント教会において、それはシオニズム運動として顕著に擡頭したことが指摘されています。」。

「ところが肝心要のイエスの十字架の真相、イエスを十字架に追い詰め、殺害した者は本当は誰だったのか、ユダヤ人なのか、それともローマ帝国であったのか、その歴史的事実は結局は突き止められることはなく、『キリスト殺しのユダヤ人』という言説だけが、福音書無謬説に守られて保持され続けてきたのでした。」。170P

こうした言説がヨーロッパ中のすべてのキリスト教徒を途方もないユダヤ人憎悪に追い込んでいったという事実がある。172P

それは次のコトである。

「イスラエルという人工的な国家の建設には、西欧キリスト教社会が古代・中世を通して引きずってきた反ユダヤ主義に対する『罪の償い』という巨大な罪責間の魂が、あたかも免罪符のように貼り付けられているのです。だが、はっきり言えば、それは本来なら西欧キリスト教諸国が自らの責任において自らの血を流して支払うべき償いです。それをパレスチナ人(イスラーム)に一方的に肩代わりさせるというしかたですませている。ここにパレスチナ問題の歴史的虚構がある。
 なぜ、いかなる理由で、パレスチナ人はイスラエルと戦わねばならないのか。ここにそもそものねじれがある。その理由も根拠もわからない。あるのは、亡国の民、ユダヤ人の祖国帰還というロマンティックなキリスト教シオニズムの幻想。このいわば形を変えたキリスト教的西欧植民地主義の幻想によって、パレスチナ人が一方的に償いを支払わされている。パレスチナのガザ地区を広大な第二のアウシュヴィッツである、と指摘したイギリスの著名な学者がいます(マンチェスター大学教授、現代文化論ノテリーイグルトン)。この比喩は、比喩ではなく道理そのものです。ここに見られる(すり替え)がどこから来るのか。それに対するイスラーム教徒の憤怒が、9.11ではなかったのか。そして小さな9.11はその後、世界の各地で連続的に発生し、西欧諸国に拡散していきました。そのたびに、イスラーム恐怖症が世界中に拡散し、わが国の警視庁公安当局もイスラーム=テロリストという予断のもとに活発に活動している。・・・この巧妙な(すり替え)の中にこそ、今日世界を覆う対テロ戦争の構図がある。」。175-176p

このことは一番知りたかったこと。こういう事実をまったく知らなかった。まさに目から鱗。

さらに、それは続く。

「西欧のキリスト教社会は、反ユダヤ主義に彩られた長い歴史の償いを自らの責任において償うことをしないで、一方的にパレスチナ人に押しつけ、肩代わりをさせている。加えて、アメリカをはじめ西欧諸国は、このような政治体制をひたすら維持するための中東諸国体制の構築に、第二次世界大戦後のすべての政治勢力を結集してきたのです。見えてくるのは、まさにイスラームの犠牲においてイスラエル国家をつくるという巧妙な同士討ちの構図です。これこそが、第二次世界大戦後、西欧列強が設定した植民地主義的中東統治の犠牲のシステムであり、政治的体制でありました。キリスト教徒的に着色された西欧中心主義の思想です。これが今日まで中東におけるアメリカの覇権を支え、方向づけてきた。今日、イスラームを覆うイスラーモフォビアは、ユダヤ人問題の裏返しであることが分かるでしょう。」。180p

筆者は「おわりに」として「『死者を記憶』し、『死者に向き合う』ことがいかにかけがえのない生の絆であり、命綱であるか、ということを、私はこれまで語り続けてきたのでした。それが『生きている死者』であり、『死者の語り』なのです。」と文を締めくくる。

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