2012年5月17日木曜日

「無駄」なこと

昨夜遅く、スペインへ同行した合唱団の女性からメールが入る。大学近くに住むその人から暇が出来たら会おうとメールで連絡しあっていた。メールでは思うように連絡できず、遅い時間にもかかわらず、すぐにTELする。

来月始め、講義終了後会うことになった。わざわざ大学近くまで車で来てくれるという。先日、知人にその人と会う予定だと話したばかり。この偶然性にびっくりする。

合唱団のその人とは知人を通して知り合う。そのため、知人にそのことを報告する。

今日も初夏の陽気である。午前中はスペイン語の復習をする。その後、TV欄を見ると、Eテレで正午からスペイン語のTV講座がある。それを見る。ラジオほど語学講座の感じがなく、気軽に見られる。それが終わると「仕事学のすすめ」があった。出演は姜尚中。何気なく見ているといい話をする。思わず最後まで見る。昼の放送は再放送とか。夜にはまた続きがあるらしい。

何と37歳で正式な仕事に着いたという。これにはびっくり。その中で「すべてのわざには時がある」の言葉が気に入った。「無駄なことをやってきた延長線上に今がある」、「無駄だと思えることが人との出会いを生む」という。

何ごともあまり考えず人から見れば「無駄」なことばかりやっている。大学へ行くこともそう。それをしてどうこうしようと考えたことはない。姜尚中の今日の言葉で励まされる。金銭に換算できないことは「無駄」なことのような風潮がある。「無駄」なことから、いいアイデアも生まれ、元気も湧いてくる。それは決して金銭に換えられないもの。「無駄」なことをやっていい。

お昼過ぎ、幼馴染が遊びに来る。姜尚中のその話をすると彼女もうなずく。先ほど家に帰った彼女からメールが届く。「すごく充実した時間を満喫しました。・・・」。そう書いてある。本当は他愛ない話ばかり。それこそ「無駄」なこと。これで元気が出れば一番いい。

すっきりした気分でいると、中国からメールが入っている。昨日、中国でお世話になった人に小包を送った。今日のメールには「今の中国郵便はかなり混乱しています。もの送りは時々途中でなくしてしまいます。だから〇〇様から送ってくるものが私まで着けるかどうか、心配しています。」とある。

その返信メールには着かなくても再度送るので心配しないようにと書いて送った。高価な物品を送ってはいない。送る側も受け取る側も心配する方が精神的負担となってしまう。その方が怖い。再度送る、という「無駄」があってもいい!

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